3 雨の館 女王の倫理
久しぶりに、差し込んでくる日の光で目を覚ました。窓を開けると、甘さを含んだ水の匂いが漂っている。雨が上がったのは明け方なのか、庭の草木や紫陽花が水滴をまとってきらきらと光っていた。
身支度を済ませた千鶴は、昨夜のポットやグラスを回収しようと冬樹の部屋に向かう。
まだ眠っている可能性を考え、小さくノックして小声で呼びかけると、ドアはすぐに開いた。冬樹も起きていたらしく、部屋のカーテンも開いている。朝の光が差す部屋で、冬樹の表情だけに翳りが見えた。
「おはようございます。眠れましたか」
ポットやグラスをトレイにまとめながら尋ねると、少しは、と静かな声で冬樹が答えた。この感じなら、軽い物なら口にできるかもしれない。
「少しは何か食べませんか。無理にみんなと食事しなくてもいいですから」
返事を待つが答えはない。それならそれでしかたないとトレイを持ち上げて退室しようとすると、じっと疑うような目をしながら冬樹が言った。
「そんなことよりも、ぼくに聞きたいことがあるんじゃないんですか」
「……いえ、少なくとも今は、考えていませんでした」
なるべく嘘にならないよう、慎重に話す。聞きたいことがないわけではない。でも今は、この状況で、すべての人々に警戒せざるを得ない少年を、一人にさせたくないだけだった。五年前の自分と違って、冬樹には千可子のような味方もいない。
千鶴は思い立ったように明るい声を出した。
「そうですね、質問といえば、朝ごはんはいかがですか? もしよかったら、あとで何か持ってきますよ」
冬樹は戸惑うような顔をしながら、肯いた。
一階の食堂には、大人たちが集まっていた。東南の窓からは木漏れ日が揺らめき、光をやわらかく拡散している。
六月十六日の水曜日。スーツ姿の有賀と小野坂に、茶色がかったねずみ色の和服を着た結城緋呂子と、グレーのワンピースを着た百合子。ジャケットを羽織った舟見と、紺色のスカート姿の千鶴。まだ雰囲気はどことなく重苦しかった。
昨夜と同じく、大きな円卓の一番奥にいる舟見の左手側に結城緋呂子が座り、そのまま時計回りに結城百合子、小野坂が座り、舟見と向かいあうように有賀が着席している。
舟見の右手側には、席をひとつ空けて千鶴が座った。舟見と千鶴のあいだの席は厨房に近いので、普段から葉山が座っている。
「主人である舟見巴さんの隣に、使用人が座るのですか」
出された中国茶を飲みながら、席次を把握した結城緋呂子が顔を顰めた。困ったような目をして舟見が話す。
「うちはそういう家ではありませんから、あまり気になさらないでください。……それより食事にしましょう。あ、冬樹君はどうかな」
「冬樹君は、朝食はいらないそうです」
席を立ち、舟見と厨房から顔を出している葉山に言った。三角巾にエプロン姿の葉山が心配そうな声を出す。
「あら、具合がよくないんですか」
「そういう感じではないみたいですが、もう少し一人でいたいそうです」
あとで軽い食べ物を届けるつもりでいることを言おうとしたとき、結城緋呂子が険しい目を向けた。
「あなたは今朝も、冬樹さんと話をしたのですか」
「いえ、きのうの話です」
とっさに嘘をついて、その場を離れて厨房へ入る。つい先ほど冬樹と話をしたことは、黙っているほうがよさそうだった。
手を洗って給仕を手伝う。朝食は、舟見家では定番の中国風の朝粥だった。紫蘇の実や葱、生姜の入った小鉢、刻んだザーサイや松の実、スライスされた中国式揚げパンの皿をそれぞれに配っていく。今朝はピータンや蒸し鶏などが追加され、結城緋呂子への配慮か、梅干しと漬け物もひっそりと添えられていた。
木製の盆にれんげと白粥の入った器を乗せ、舟見、緋呂子、百合子と時計回りに食事を運んだ。葉山も席に着き、静かに朝食をとる。
「舟見巴さん。こういった場を設けていただきながら、申し訳ないのですが」
食事が終わるころ、全然申し訳なくなさそうな様子で結城緋呂子が口を開いた。昨夜の話の続きが始まりそうなので、席を立ち葉山とともに円卓の上の食器を下げる。
厨房で茶器や茶菓子を用意していると、舟見の声が聞こえてくる。結城緋呂子は、事故当日の曽我家の所持品に宝石がなかったことを理由に、返却の意思がない、つまりは結城家との婚姻を断る意思はなかったはずだと主張していた。
「なのに曽我政一さんがこのようなことになってしまい、曽我家はもう、冬樹さんひとりだけです。霜竹に戻り、百合子と一緒になるのは、冬樹さんのためでもあります。二人の意思を尊重していただきたいのです」
「二人の、……意思ですか」
舟見が掠れるような声で呟く。十九歳の百合子と、一応小学生の冬樹に、婚約の意思があるという前提のようだ。今となっては、長男の冬樹を婿として霜竹に連れて帰ることが、緋呂子にとってベストな結果なのだろう。
千鶴と葉山でお茶と茶菓子を食堂へ運び、それぞれの目の前に置いた。気を取り直した舟見が続けて尋ねる。
「百合子さんの意思は」
「問題ありません」
当然、というように緋呂子が答えた。百合子はほんのりと微笑むだけで何も話さない。黙っている有賀も、百合子の顔を見て怪訝な顔をする。小野坂がやんわりと口を挟んだ。
「冬樹君の意思だって重要ですよ」
「今の時点で、冬樹さんから断りの意思は示されておりません。このお屋敷で冬樹さんが暮らすということは、結ばれるはずの二人を引き離すことになると思いませんか」
小野坂の問いに答えながらも、緋呂子は舟見を睨みながら話す。舟見は百合子をちらりと見ると、困ったような声を出した。
「冬樹君と百合子さんは、まだ口をきいたこともないんですよね?」
「百合子はみだりに男性と話すような子ではありません」
「みだりにって」
びっくりしたように瞬きをする舟見に、葉山がお茶を注ぎながらのんびりと言った。
「そういう校則の学校もありますよ。例え家族でも、車に男性と二人で乗ってはいけないとか、外では男性と会話してはいけないとか」
口を挟まれ不快そうに眉を寄せる緋呂子に、葉山はにっこり笑ってみせる。落ち着きを取り戻した舟見が言った。
「とにかく、もう少し時間を頂けませんか。こんな状況です、冬樹君に難しい話や重大な選択をさせるのは待ってあげてください。結城さんたちも、ここで冬樹君と親睦を深めたうえで話し合うほうが、納得のいく結果になると思いますよ」
「はい、しばらくお世話になります。あと、はしためが冬樹さんに余計な手出しをしないように躾をお願いします」
「はしため?」
緋呂子の言葉に、葉山が素っ頓狂な声を出した。舟見も目を丸くする。
「余計な手出しって、うちの子たちは」
「下女が戯れに冬樹さんを惑わすような真似は、慎んでいただかないと困るのです」
舟見がぽかんと口を開ける。さらに緋呂子が続けた。
「亡くなった人を悪く言うつもりはありませんが、柳川千可子さんも冬樹さんにいきなり抱きついていたようですし」
緋呂子の言葉に、一瞬だけ有賀が不快な表情を見せた。それもすぐに消し去り、考えるような顔をする。緋呂子は、自分の言葉がもたらしたものに興味などないようだった。
今の自分に、この人を理解するのは難しい。こちらを理解することもないだろう。無防備な心で接するのは避けたほうがいい。そう思った。
「とにかく、曽我冬樹さんと百合子の幸せのためにも、舟見さんには後見人の申し立てを待っていただきたいのです」
「私は、強引に話を進めるつもりはないですよ。彼の幸せに繋がる道を選択するべきだと思っています。冬樹君が結城さんたちと暮らすことを希望するなら、私は反対しません。彼の年齢なら、申し立てをする意思能力もありますから」
振り出しに戻った会話に、舟見が疲れたような声を出す。黙っていた小野坂が、舟見さん、とおもむろに言った。
「もし、あとから石が出てきた場合は、話が変わる可能性もありますし、公平な立場の人間がいたほうがいいかもしれません。俺も少しのあいだ、こちらでお世話になっていいでしょうか」
有賀が驚いた顔で小野坂を見る。個人的な付き合いのあった有賀はともかく、小野坂がこんなことを申し出たのは意外だった。
緋呂子が訝しげに小野坂を見る。
「あなたは公平な立場だと言えるのですか、小野坂さん」
「もちろんです。こちらは宝石屋ですからね。曽我家と結城家が、家宝のように保管していた石でしょう。売却はもちろん、婚約指輪のオーダーも大歓迎です。つまり、冬樹君がどっちについても、こちらに不利益はありませんよ」
甘やかな声でそう言うと、小野坂は緋呂子をじっと見た。小柄で愛嬌のある舟見と違い、背が高く肩幅のある小野坂は独特の迫力があった。柳川のようにがっしりとはしておらず、体の線はスリムで尖った印象を受ける。 銀色の眼鏡や時計が、どこかシニカルな雰囲気を強調していた。
しばらく黙っていた緋呂子は、わかりました、と小さく肯いた。
厨房に入り、片付けをはじめた葉山に、冬樹の朝食について相談する。大きめのトレイに中華粥の器を置き、食べやすそうな蒸し鶏や揚げパン、半熟の茹で卵などを添えた。葉山が明るい声で言う。
「これなら食べてもらえそうですね」
「大丈夫だと思います。私が持って行きますよ」
「私たちも行きます」
低く、決して穏やかではない声に振り返る。厨房の入口には、睨むように暗い目をした緋呂子が立っていた。 舟見側の人間ばかりが冬樹と親睦を深めるのを危惧しているのか、その後ろには、百合子がのんびりとした表情で立っている。
千鶴はトレイを持って葉山に目配せすると、あちらへどうぞ、と緋呂子に食堂からホールに出るよう示し、自分は反対側のリネン室からホールに出た。結城家の二人と、朝食のトレイを持った千鶴がゆっくり歩こうとすると、緋呂子が軽蔑するような目を向ける。
「小岩千鶴さん。客人に前を歩かせるつもりなのですか」
動きを止めた千鶴は、小さく息を吐き、一瞬だけ目を閉じた。どうやら、はしためだの下女だのは自分のことらしい。
こんなとき、葉山や有賀ならどう対応するだろう。そんなことを考えて息を吸い、なるべくやわらかい声を出した。
「失礼いたしました。どうぞこちらへ」
二人を先導しながら、木製の大階段を上る。時計回りにカーブを描く吹き抜けの階段を上りきると、二階の廊下から、手すり越しに真下のホールが見える。
冬樹の部屋である5号室の前に立ち、朝食のトレイを持ったまま無理やりノックした。両手が塞がっていようと、下女が客人の手を借りるわけにはいかない。
少し間を置いてドアが開く。背後にいる緋呂子と百合子に気付き、意味がわからない、という顔で見つめてくる冬樹に言った。
「おはようございます。ゆうべはよく眠れましたか」
今朝のことなどなかったように振る舞う千鶴に、冬樹が不思議そうな顔をする。千鶴は緋呂子を刺激しないよう、冬樹の顔を見ないようにして頭を下げた。
「朝食を用意しましたが、具合はいかがですか」
部屋には入らず、トレイを持ったまま返事を待つ。千鶴と、背後にいる結城家の二人を観察した冬樹は、考えるような顔をしながら言った。
「……せっかくなので、食堂でいただきます」
「では、食堂にお越しください」
一礼して下がり、そのまま一階へ戻る。冬樹も、この三人に囲まれて朝食をとるよりは、部屋を出るほうが楽だと判断したのだろう。
リネン室側から厨房に戻り、食堂を覗いた。結城家の二人のほかに、舟見たち男性陣もまだ残っている。葉山とともに冬樹の朝食をセッティングしていると、長袖の白いシャツに紺色の半ズボン姿の冬樹が現れた。
冬樹は誰とも目を合わせず、おはようございます、と小さく言った。葉山が席を示して朝食を勧めると、落ち着いた様子で席につき、いただきますと手を合わせる。
黙々と食事をする冬樹に、緋呂子も話しかけようとはしなかった。その手前か、舟見もなんとなくその光景を見守り、冬樹は誰とも口をきかずに食事を終えた。
食後のお茶と茶菓子が出されてからは、舟見が熱心に話しかけていた。好きな食べ物や得意な科目の話を振られた冬樹は、『はい』『いいえ』だけを淡々と答える。
冬樹はどことなく鬱陶しそうだったけれど、舟見のおかげで、婚約だの後見人だのという話にはならなかった。