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2 雨の鳥かご        渦中の子供

 ベージュの絨毯が敷かれた廊下に出る。洋館であるせいなのか、天井が高い。

 一階には応接室や食堂、大階段とエントランスホール、その裏に厨房やリネン室がある。かつては宿泊施設として使われていたそうで、二階の正面側にはシングルの部屋が六部屋並び、廊下を挟んだ裏手側の両端には、ツインのスイートルームがある。

 その中央は吹き抜けになっていて、一階エントランスから続く螺旋状の大階段がある。1号室は北側のスイートで舟見の部屋、その対面の東端が2号室で、半年前まで千可子の部屋だった。その隣の3号室が千鶴の部屋で、今は二つ隣の5号室が曽我冬樹に与えられている。

 5号室の前に立ち、ノックをする。待っていても反応はない。

「冬樹君、起きてますか」

 小さく話しかけてみる。もし寝ているのなら、そっとしておきたい。

 かすかな気配のあと、静かに鍵を開ける音がして、小さくドアが開く。その隙間から、少年が観察するように千鶴を見た。

「突然、すみません。私は、舟見巴さんの姪……というか、冬樹君とは遠い親戚ですね、小岩千鶴です。巴さんから聞いていますか」

 驚かせないように、ゆっくりと話す。自分と舟見巴のあいだに、血縁としての繋がりはほとんどないが、名目上は姪と伯父ということになっている。

 千鶴より少しだけ背の低い少年は、小さく肯くだけだった。泣いていた気配もない。

「頭痛は大丈夫ですか」

 雨で薄暗いのに、部屋の照明がついていないのが気になった。少年は表情のないまま、落ち着いた声を出した。

「……今は平気です。でも、誰とも話したくないんです」

「そうですか。無理に話す必要はないですから、少し一緒にいてもいいですか」

えっ、と少年が困惑したように顔を上げた。誰とも話をしたくないのは解っている。かといって、ないがしろにされたいはずがない。そう思った。

 少年は少し考えるような顔をしたあと、無言でドアを大きく開けた。凍りついたような態度は、冬の樹というより樹氷を連想する。

 部屋の中央には小さめの丸テーブルと、一人分の椅子がある。冬樹は少し逡巡したあと、窓際にあるベッドに腰掛けた。その横には客室用の机と椅子があり、小さな照明と黒いランドセルが置かれている。

お邪魔します、と千鶴は机のそばへ歩み寄り、その上にある照明をつけた。机と揃いの椅子をテーブルの前に置き、もう一つの椅子に座る。黒に近いグレーのブレザーに半ズボンという冬樹の格好を見て尋ねた。

「学校の制服なんですか」

「学校の帰りだったんです。あのとき」

 しかたなく、というようにベッドから立ち上がった冬樹が、椅子に座りながら答えた。事故のあった土曜日と同じ格好という意味らしい。

 曽我の家には、舟見があえて冬樹を近付けなかった。千鶴が柳川の部屋でしたように、使用人の葉山が曽我の家を整理し、必要なものは保管した。遺品の整理はもう少し落ち着いてから、という舟見の配慮だった。冬樹の服は葉山が新しいものを調達したので、彼が着慣れているのは、今着ている制服しかない。

「私も同じです。学校に連絡が入ったので、病院に行ったとき制服でした。それにしても、制服のある小学校なんですね」

「ぼくだけ、遠い学校に通っていたんです」

 冬樹は机に目をやりながら答えた。ランドセルが置かれた机の下には、リコーダーや体操服を入れる巾着袋が床にそのまま置いてある。

 千鶴はしばらく無言のまま、のんびりと窓を見ていた。冬樹は不思議そうにその視線を追って窓を見たり、千鶴の顔を見たりしている。

 あっ、と思い出したように冬樹が小さく声をあげた。

「そういえば、あの人の妹……さん、なんですね」

「はい、柳川千可子は私の姉です。そうでした、小岩千鶴って名乗ったので、何者だって思ってしまいますね」

「いえ、よく見ると似ているから」

 そう言って目を伏せる冬樹に、千鶴はのんびりと言った。

「それより、食欲はありますか? 食べたいものや、苦手なものがあれば言ってください」

「いえ、食欲はないので、今日は」

 ここから出たくないです、と小さな声で冬樹が言った。

「わかりました。そう伝えておきます。私の部屋は、二つ隣の3号室です。何かあったら言ってください」

 冬樹は冷たい目をしたまま、黙って肯いた。


 冬樹の部屋から出たあと、夕食の時間が近いので一階の食堂へ向かった。正面ホールの右手にある食堂には、滞在している大人たちが揃っていた。中央の円形のテーブルには、葉山が用意した紅茶が配られている。

 軽くみんなに一礼してから、千鶴は食堂の奥にある厨房へ向かった。

「お手伝いできる事はありますか」

 厨房で手を洗いながら葉山に尋ねる。エプロン姿で髪を後ろに束ねた葉山は、なるべく千鶴に顔を見せないようにしながら明るい声を出した。

「今日は簡単に済みますから、千鶴ちゃんも休んでていいですよ」

 葉山は目元を赤くしたまま、揚げ茄子だの豆腐だのを地味な器に盛り付けていた。姉と同い年のこの人が、一番姉のために泣いてくれていたと思う。

「では、テーブルのお茶を片付けてきます」

 涙を見せなかった自分がどこか後ろめたくて、葉山に厨房を任せて食堂へ戻る。大人の話を邪魔しないように静かに茶器を回収して回った。

「結城さんは、将来冬樹君を入り婿にするおつもりなんですか」

 銀縁の眼鏡をかけた小野坂が話している。

 丸テーブルの一番奥に舟見が座り、舟見の左手に結城家の二人、右手に有賀と小野坂が座っている。くすんだ薄い青緑色の和服を着た年輩の女性が、険しい顔で口を開いた。

「そういうつもりはありませんが、いずれ結婚するのなら二度手間でしょう。もちろん入り婿などと言われないよう、百合子は曽我家の嫁として、冬樹さんのもとへ嫁ぎます」

 湿り気を帯びた、のしかかるような声。襟足まで下ろした髪は重く、顔のつくりは人形じみている。結城緋呂子は、時間が止まっているような怖さがあった。

 まるで豆知識を教えるように小野坂が言った。

「彼はまだ子供ですよ」

「来年中学生なのでしょう、十分です」

 結城緋呂子は小野坂を見ずに、険しい顔を舟見に向けて言う。

 冬樹をいち早く保護した舟見だが、彼を引き取ることに関する正式な話は、冬樹本人が落ち着くまで急がないつもりだという。しかし結城緋呂子は、舟見が冬樹の後見人になることを阻止し、孫娘の百合子との婚約を急いで進めようとしているらしい。

 少しでも緋呂子の理解を得ようと、舟見が慎重に話す。

「私は冬樹君をどうこうしようというつもりはないんですよ。前にも申し上げましたが、冬樹君は私の甥です。ただ彼を支えたいと思っているだけなんです」

「それはこちらも同じです。冬樹さんの意思が明確であれば、私どもが連れて帰ります。舟見さんにも負担がなくてよろしいでしょう」

「負担になるとは考えていませんよ」

 少しだけ引っかかったように舟見が言った。親族ではない結城家が冬樹を引き取るのは、冬樹本人が希望した場合でなければ難しいと聞いている。冬樹がそれを望むという確信があるのか、緋呂子は舟見を横目で冷たく睨みながら口を開いた。

「ともかく、曽我家の屋敷や土地などの管理も含めて、あの土地をよく知る私達のほうが適しているとは思いませんか。あなたが勝手に処分してしまうより」

「そうだとしても、それは冬樹君が決めることです。私が勝手に処分するようなことはありませんよ。財産の管理は必要ですが、私が着服するようなことはありえませんし、してはいけないことです」

 どこかうんざりしたような声で舟見が言った。


 茶器を回収して厨房に戻ると、慎ましやかではあるが食事の用意がされていた。葉山は一度食堂へ出て、それぞれの食欲や嗜好を確認する。

 結城さんはいかがですか、と尋ねられ、私たちはいただきます、と緋呂子が答えた。小野坂も食欲があることを葉山に告げる。故人との繋がりがない小野坂は、この場で一番平静な態度を保っていた。舟見も遠慮がちに続いた。

「私は軽くでいいよ。そういえば、冬樹君はどうするんだろうね」

「冬樹君、食事はいらないそうです」

「そうなの?」

 口を挟んだ千鶴に、舟見が反応する。続いて結城緋呂子がゆっくりと千鶴の方向に顔を向けて尋ねた。

「なぜ、あなたが知っているのですか」

「先ほど話したときに、言ってました。食欲もないから今日はこのまま休みたいそうです」

「冬樹君、千鶴君とは話ができたんだ、よかった」

 全然話してくれないから、と舟見がほっとしたように言った。その隣で結城緋呂子が、忌々しげに顔を顰める。今はここにいないほうがいいような気がして、自分も今夜は食事はいらないと葉山に告げた。申し訳なさそうに有賀も言う。

「僕も今夜は遠慮しておきます。お茶だけありがたく頂きます」

 わかりました、と葉山が厨房に戻り、千鶴も飲むものを用意するために厨房に入った。後ろで舟見の疲れたような声が聞こえた。

「今夜は、これ以上の話はやめておきましょう。皆さんもお疲れでしょうから、明日、明るいときに話しましょう」


 水のポットとグラスを用意したあと、ふと思い立ち、マグカップに入れた牛乳を電子レンジで温めた。厨房でほとんど使われることのない電子レンジは、舟見が屋敷を買い取り、一人で住みはじめたころに購入したものだという。

 ポットやグラスを載せたトレイにホットミルクを二つ追加して、一応砂糖とスプーンをつけた。葉山に食堂のことを頼み、トレイを持って食堂側とは別のドアから出る。

 大階段の真下に位置する厨房はリネン室に繋がっていて、南西側の廊下に続いている。主に使用人が利用する通路なので、北東の食堂を通らずに二階へ行くには都合がいい。

 廊下からホールに出て、冬樹の部屋へ向かう。トレイを持って慎重に階段を上りながら、先刻の様子を思い返した。結城緋呂子は、舟見側の人間である自分と冬樹が関わることも気に入らないようだ。

 その隣にいたはずの孫娘、結城百合子がひと言も話さなかったのも気になった。


 冬樹が気乗りしない様子なら、トレイだけを置いて戻るつもりだったが、飲み物を持ってきたことを告げると、冬樹はドアを大きく開いた。

「休んでいたなら遠慮します。水とホットミルクを持ってきただけですから」

 マグカップが二つあるのを見て気を遣ったのか、いえ、と冬樹は先刻使っていた椅子を持ってくる。冬樹に礼を言い、小さな丸テーブルを二人で挟み、ホットミルクを飲んだ。

 砂糖を足し、スプーンを回す冬樹の後ろに、ベッドの上で開いたままの辞書が見えた。ふと学校のことを思い出す。今日は十五日の火曜日。テストが近いような気もするけれど、まだ学校へ行く気にはなれない。そんなものより、今を乗り切ることが大事だった。

「もう少しだけ、耐えないと」

 自分に言い聞かせるよう、心で呟いたつもりが、思わず声になっていた。冬樹がじっと見つめてくる。ごまかすように口元を笑顔の形にして肩をすくめると、冬樹が言った。

「もう少しって、いつまでですか」

 思わず目を見開き、冬樹を見る。急に尋ねられて、言葉が見つからなかった。終わりのラインが見えないのに、どうしてそう思ったのかは自分でも解らない。今を乗り切ったところで、苦しみや悲しみが終わるとも思えないのに。

「……考えていませんでした。そういえば、いつなんでしょうね」

 苦笑しながらミルクを一口飲み、カップの中に視線を落とす。目の前の少年に、答えを与えることができない。申し訳なさそうにしていると、冬樹が問いかけた。

「もう少し耐えれば、何かが変わるんでしょうか。耐えられないことも、平気になったりするんですか」

「そうかもしれないですね。成長するとか、大人になるってそういうことかもしれません。冬樹君の考え方は、私より前向きですね。少し勉強になりました」

 そう言って微笑みかける。何かが終わることしか頭になかった自分と、自己が強く変化することを考えた冬樹。どこか不自然に大人びた感じはあるけれど、自分より健全な思考を持っているようだ。

「そんな気がしただけです」

 そう言って小さく息をついた冬樹は、冷えたような目をしていた。


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