11 千鶴の部屋の珍客 こっちを見てない人
廊下側に耳を澄ます。有賀が押し入ってくる気配はまだなくて、静かだった。鍵を開け、そっと廊下の様子を窺う。有賀は自分の部屋に戻ったみたいで、ホールを見下ろすいつもの位置には、千鶴さんが一人で難しい顔をしていた。
どうせ全部バレたことだし、遠回りに話をする必要はもうなかった。今の千鶴さんなら、はぐらかしたりしないような気がする。そう思ってぼくも廊下に出た。
黙ったまま近付くと、千鶴さんは驚く様子もなくぼくに気付いた。少しだけ悔しくて、冷たい声が出てしまう。
「千鶴さん」
襟元にちらりと目をやる。リボンはきちんと結び直されていた。
「有賀は、千鶴さんのことを見てないですよ」
千鶴さんは少しまばたきしてから、小さく肯いた。
「はい。見てもらうことを、私は望んでいません」
千鶴さんは表情を崩さないまま遠い目をする。有賀はここの住人じゃない。この話し合いが終われば、現れることも減るだろう。ぼくと千鶴さんしかいなくなれば、自分の手のひらに星が落ちてくるような幸運が、やってくるのかもしれない。でも。
「ぼくはたぶん、有賀が嫌いです」
言わなくていいことなのに、口から出てしまう。
「ふざけてますよ。勝手なことばっかりしてるくせに、愛する人に贈る石とか」
そんな人はどこにもいませんよ。そう言っていた有賀が腹立たしい。千鶴さんも、自分を見ていないのを解っていて、あいつの力になろうとしている。あんなふうに扱われても。千鶴さんの内側を、少しも知らないのに。
「有賀が本当は優しい人だって、言いましたよね」
「はい」
優しかった人間が、変わってしまった。『愛する人』がどこにもいなくなって。それが嘘ならいいのに。もとから悪い奴なら、ぼくはもっと有賀を嫌いになっていいのに。
「だから、あいつのために我慢するんですか。あいつは見てないのに」
千鶴さんは答えない。有賀が誰のことを考えているのか、解らないはずがない。
「有賀は、千可子さんのことしか考えてないのに」
優しさは違う気持ちで言葉が出てくる。まるで、傷つけてしまいたいような気持ちが自分の声を冷たくしていく。それでも千鶴さんは、穏やかな目をして言った。
「そうです。あの人はたぶん、姉が柳川さんと恋に落ちる前から、ずっと」
「……どうして千鶴さんは、それが解ったんですか」
「どうしてって」
千鶴さんが困ったようにぼくを見た。解ってしまうのは、しかたがない。そんなことに気付く理由なんて決まってる。そうじゃなければ人の秘密なんて見えない。でもそれなら、千鶴さんの心が見えてしまったぼくは、どうしてこんなに冷たい心で、千鶴さんに接しているんだろう。
「姉さんに恋するあの人を、私は見ていました。あの人は姉と柳川さんのために、自分の心を隠し通しました。辛くても、穏やかに笑っていました。あの人にできたことなら、私にもできるはずです。あの人をお手本にすれば、辛くても、ずっと一人でも、耐えられると思ったんです。私も」
そう言って千鶴さんは遠くを見る。自分のほうを見てない人を思う気持ちが、解るような気がした。
「でも、私はあの人みたいになれませんでした」
千鶴さんは手すりを掴んで小さく息を吐くと、黙ったままのぼくに笑いかけた。
「さあ、そろそろみんなが戻ってきますね。悪い人が来るかもしれないので、2号室には行かないで、5号室で休んでください」
「悪い人はそっちの部屋に行くかもしれないですよ。危ないんじゃないんですか」
お互いに、すべてを知ってる前提で話している。千鶴さんは気にもせず、平気ですよ、と穏やかに笑った。平気じゃないですよ、とぼくは責めるように睨む。千鶴さんはきっと有賀のことを放っておけないし、そんな千鶴さんをぼくも放っておけるはずがない。
それでもお互いを納得させるために、ぼくは冗談を思いついたように提案した。
「じゃあ、千鶴さんは詩さんの部屋に泊めてもらってください。そしたらぼくも、自分の5号室で眠ります」
「わかりました。おやすみなさい」
千鶴さんはちょっと笑って、一階へ降りていった。ぼくも5号室に入って照明をつける。そして再び廊下に出て、急いで2号室へ向かう。
鍵を開け、明かりをつけないまま部屋に入り、静かに鍵をかけた。暗い部屋に雨と風の音だけが響く。雨も激しくなっていた。ガラス窓が割れそうな音を出す。
このままだと、小野坂がここに来る前に有賀が来て、ぼくは邪魔だとつまみ出されてしまう。どうしよう。
どこかに潜んでいようと思ってバスルームを覗く。かくれんぼ的には、ここを選んだら負けのような気もする。かといってベッドの下じゃ動けない。
やっぱりここかな、とクローゼットを開ける。使ってないから広々している。さっきはここに隠れてとんでもないものを目撃してしまったけど、さすがに有賀も小野坂を押し倒したりしないだろう。ぼくはランドセルを下ろして、手に持った。
小野坂の目的が、宝石を持ったぼくなら、誰にも言わずにここへ来る。




