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2 雨の鳥かご        千鶴

 雨の中を、大柄な男が傘もささずに外へ歩いていくのが見える。

 二階にある自室の窓際に立ち、千鶴はぼんやりと外を眺めていた。強くなる雨とともにあたりが暗くなる。午後四時を過ぎてはいるが、六月ならまだ日が落ちる時間ではない。それだけ雲が重いのだろう。

 うす暗い雨の庭で、赤紫や青は淀んで重い。白く、ほのかに緑を帯びた紫陽花だけが、遠くからも光るように浮かんで見えた。雨の庭を歩いていた人物も、車の手前で足を止め、白い花を見ていた。

 舟見と使用人の葉山は、曽我家の葬儀にかかりきりだった。土地柄に従うならば曽我家の屋敷で行うべきものらしいが、舟見はあえて曽我家ではない場所を選び、まったく面識のない人々のなかで葬儀を進めたらしい。

 一方、千可子の葬儀は、地味なものだった。五年前に親を亡くしている千可子と千鶴に近親者はいない。柳川も身内は少なく、葬儀はごく小さなものになった。

 葬儀社とのやり取りを柳川に任せた千鶴は、姉と柳川が暮らしていた部屋を整理した。

 結婚して半年ほどの部屋は、簡素なものだった。それでも、姉の気配やなごりのようなものをそのまま残すのは、柳川にとって残酷なことに思えた。

 冷たい妹と思われても、この際構わなかった。生活のかけらをいたずらに残されても、のちに柳川がひとりで処分しなくてはいけなくなる。そういうことをさせたくない。

 まずは冷蔵庫の中身や、キッチンのものをある程度処分した。遺影のためにアルバムを開く柳川を思うと不憫で、千鶴は決めた写真を葬儀社に渡し、アルバムは奥に片付けた。

 姉の服や靴、化粧品もある程度整理した。自分に必要はなくても、今すぐそれを捨てる気にはなれないので引き取った。姉が気に入っていた白いワンピースは、葬儀社の人に頼んで姉に着せた。

 結婚したあとも、姉と電話で話すとき、このワンピースを着ている姿が浮かんだ。

 襟のある清楚な白いワンピースは、姉がこの屋敷にいたころからよく着ていたもので、柳川から贈られた指輪を見せてくれたときも、姉はこのワンピースを着ていた。

 舟見の屋敷に引き取られたのが五年前で、千鶴が十二歳のときだった。姉の千可子は十七歳で、当時もあの服を着ていた。姉はほとんど体型が変わっていなかったらしい。

 女らしく、たおやかだった姉がうらやましかった。いつかは自分も、姉のようになれるのかと思ったこともあった。

 しばらくして、有賀や柳川と知り合った。宝石のバイヤーである舟見と付き合いのある宝石関連会社の若手社員が有賀で、柳川はその友人だった。舟見は、若くして優秀な宝石加工職人である有賀を高く評価し、仕事も兼ねて気軽に屋敷に招いていた。

 千可子と千鶴、使用人の葉山も加え、六人で食事をすることも多かった。人懐っこく、面倒見のよい舟見にとって、有賀や柳川が弟のように思えたのかもしれない。

 姉の千可子が二十歳になるころには、有賀か柳川のどちらかが、いずれ自分の兄になるのだろうと予感していた。どちらかといえば有賀のほうだと思っていたから、柳川と結婚すると知らされたときには驚いた。

 有賀が二十八で、柳川が三十一、姉の千可子は半年前、二十一だった。姉のしなやかで白い指には、新しい指輪が銀色に光っていた。

「有賀さんが作ったんですよね、これ」

 姉の部屋でそれを見たとき、姉の着ている白いワンピースが花嫁衣装のように思えた。白くきらめく石と、青みのある緑の石。それをやさしく支える、やわらかな白金のつる草。その優雅な曲線は、ティアラのようにも見えた。

 それがなんだか眩しく見えて、思わず目を細めた。有賀がデザインしたという指輪は、千可子にとても似合っていた。

「寿信さんの特別注文だって、有賀さんが言ってたの」

「名前はなんですか?」

 有賀は自分の作品一つ一つにドイツ語の名前をつけている。千可子が嬉しそうに言った。

「リューグナー。ドイツ語で『嘘つき』っていう意味」

「……まさか、有賀さんがそんな名前をつけたんですか」

「ううん、『これは名前がないから、二人で付けてください』って言ってた。でも有賀さん、『千可子さんが考えたほうがいいですよ』だって。寿信さんにはセンスがないからって。だから、私がつけたの」

「……姉さんのセンスも大概だと思いますけど、どうしてそうなったんですか」

 ため息をつきながら気の毒な指輪を見る。それはね、と千可子が笑った。

「指輪を作ったって寿信さんが言ったとき、私は高いものなんていらないって言ったのよ。そしたら寿信さん、有賀さんが上手くやったから高く見えるだけで、安物だって言ったの。だから『嘘つき』。寿信さんになら、いくら騙されてもいいの」

 そう言って千可子が嬉しそうに微笑むと、自然に千鶴も笑顔になった。

「そして『リューグナー』の持ち主が『シュレム』になるんですね」

「シュレム?」

「ドイツ語で『いたずら者』です。それはともかく、有賀さんって本当に優秀なんですね」

 舟見によると、有賀は宝飾に関する国家資格を最速で取得したという。宝石にはあまり興味もないし、技術的なことはわからないけれど、その指輪は素直に美しいと思った。

 堅さや派手さのない、すみれの花のような姉をさらに美しく見せる、優しくてきれいなデザイン。まるで持つ人の内側をなぞるように、美しく調和する指輪を作り出す有賀を、素直に尊敬した。

「お月さまみたいな人よね」

 そう言って微笑む千可子に、千鶴は笑ってため息をついた。月は鏡。姿形を静かに写し取り、その人に寄り添い、際立たせる形を作り出す。いつも穏やかでにこやかな有賀は、絵本に出てくる月みたいなイメージだった。

「……わかりますけど、男の人を例えるのって普通、『太陽みたい』とかじゃないですか?」

「だって、太陽は寿信さんだもの」

 当然のように千可子が笑った。千鶴も笑いながら肩をすくめる。

 柳川は有賀の大学時代の先輩で、法学部に在籍していたが中途退学し、無関係な分野に就職してしまったという。学費や生活費にからんだ事情らしい。

 そんな話を有賀から聞いたことがあったので、姉のために無理をしたのではと心配した。友情割引で安く済んだと柳川は言っていたが、指輪に使われているダイヤモンドの価値をあとから有賀にこっそり聞いて、驚いた覚えがある。

 プラチナの指輪には、ダイヤのほかに青緑色の石が添えられているし、有賀が技術料を受け取らなかったとしても、金額にしたらかなりのものだと思う。それを知っているのか知らないのか、姉の千可子は無邪気で楽しそうだった。

 両親を亡くしてからは、心の奥に鍵をかけて過ごしてきた。妹よりもずっと心細かったであろう姉が、心から頼れる相手を見つけた。強面の外見はともかく、姉にとって柳川は本当に太陽のような存在なのだろう。

「太陽というか、……まあ、大迫力のお兄様ができてびっくりです。私、てっきり有賀さんを『お兄様』って呼ぶことになると思ってましたから」

「いいじゃない。寿信さんも有賀さんもお兄さんでしょ。あなたは有賀さんに似たところがあるから、本当の兄妹みたいよ」

 千可子の言葉に考え込む。大柄で強面の柳川に似ていると言われるよりはいいけれど、十歳も年上の男性に似ていると言われるのは複雑な気分だった。

「……話し方はちょっと真似してましたけど、見た目も似てますか?」

「大丈夫、顔は似てないから。……ね?」

 千可子は笑いながら千鶴を鏡の前に座らせ、その肩に手を置いた。二人で鏡を覗きこむ。顔は、小学生の頃よりも、姉と似てきたように思える。声は時々間違われる。電話で姉の口調を真似したときは、柳川も間違えたことがあった。

「よかった。姉さんに似ているのが、私の唯一の自慢なんです。いつかは姉さんみたいになって、そっくりの双子みたいになれたら楽しいと思って」

 あなたに似ることで、あなたと似たような幸せを得ることができるなら、どんなに素敵だろう。こぼれた物がいつか巡って、私の手の中に、星のように落ちてくるかもしれない。そんなふうに思うようになっていた。

 千鶴の目をじっと見ながら千可子が言う。

「似てるじゃない。これ以上そっくりになったら、見わけがつかなくて困るわよ」

「困るでしょうか」

 首をかしげて鏡を見る。千可子の髪は長くふんわりとしていて、女らしいやわらかさのようなものを感じた。その隣にいる自分は、まっすぐな髪が中途半端な長さに伸びていて、どこか少年じみて見える。千可子が言った。

「あなたの恋人になる人が困るわよ。あなたの恋人が、間違えて私をデートに誘ったらどうするの」

「そしたら、待ちあわせに姉さんと二人で行ってびっくりさせます。そして女の子二人分、相手に払わせます」

「……やっぱり、困るのはあなたの恋人じゃない。ちゃんと目印をつけてあげなくちゃ」

 千可子はいたずらっぽい目をしながらドレッサーに手を伸ばし、口紅を千鶴の唇に無理やりつけると、花のように笑った。

「ほら、やっぱり似合う」

 千鶴が困ったように口元に触れる。見慣れない色の唇が、自分に似合っているとは思えなかった。

「姉さんのほうが似合います。目印が必要なら、眼鏡でもサングラスでもかけますから」

 さらに化粧を続けようとする姉の手を止めた。もう、と千可子がため息をついたのを今でも覚えている。

 その口紅が、今、こんな形で自分の手元に戻ってきたのが、なんだか不思議だった。


 柳川の車を窓越しに見送ったあとも、千鶴は暗い雨の庭を眺めていた。気後れしているうちに、柳川を『お兄さん』と呼ぶ機会も失ってしまった。

 五年前、泣くのをやめて、強くなりたいと願った。誰かに頼らなくてもいられるように。

 飄々としていながらも、いつもにこやかで優しい有賀から、その人格を学ぼうとした。真似できたのは話し方くらいだったけれど、自分を制御するのには役立った。

 頭の奥にある、元栓のようなものを固く締めることで、涙も出なくなった。感情の一部を制御するよりも、すべてを抑えるほうが楽だった。

 それでも今は、なるべく一人でいたい。

 悲しみにくれる人々といると、それが伝染する。淡々とあろうとしている自分に、重い悲しみが入り込んでくる。周囲に気を遣わせるのも嫌だった。

 余計なことを考えないよう、感情の出口を潰しながら遠くを見た。今は自分のことより、気に掛けるべきことがある。

 柳川も有賀も、みな憔悴していた。それでも舟見と葉山は、明るく振舞おうとしている。ここにはまだ、舟見が連れてきた曽我家の子供や、有賀の上司にあたる小野坂、結城家の二人がいる。

 事故直後の、千可子の言動も不明なままで、曽我家の子供にみなの関心が集中するのは避けられない。結城家という存在が、子供をさらに傷つけてしまう可能性もある。舟見はそれを心配していた。

 曽我家の子供は今、見知らぬ人々のなか、一人でこの状況に直面している。自分と同じように淡々と、誰とも話そうとせずに。

 彼と自分は、少しだけ状況が似ている。彼のためにも、そばにいたほうがいい。そばにいるあいだは、彼の心配だけをしていればいい。そうしているあいだは自分に気を遣われずに済む。曽我家の子供を心配しているようで、実は自分のための思い付きらしい。

 優しくないな、と小さく息をつくと、千鶴は自分の部屋を出た。


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