8 魔法の夜 バルコニーの鳥
お粥がよかったのか、だるさは完全に消えていた。でも部屋の外に出る用も特になくて、かといってお風呂に入る気力もない。ぼくはなんとなくパジャマに着替え、ベッドの上で『軋轢』や『天罰』の単語を眺めていた。
百合子さんは、理不尽なことを受け入れることで、認められて祝福されると信じている。誰に認めてもらうために、それを選ぼうとしているんだろう。
認められることを必要以上に求めて、頑なになってしまう。ぼくたちは何が足りなくて、こんな形になっているんだろう。
ぼんやりしていると、ノックの音と、遠慮がちな女の人の声が聞こえた。
「冬樹君、起きてますか」
千鶴さん? と言いかけて飲み込む。相手を確認しようとベッドから降り、スリッパを引っ掛けてドアを開けた。あっ、と千鶴さんが驚いたようにパジャマ姿のぼくを見る。
「すみません、起きてこなくていいですから、横になっていてください」
「あ、いえ、もう平気なんです。なんとなく着替えただけで、普通に元気ですから」
慌てて引きとめると、そうなんですか、と千鶴さんが安心したように笑った。それでも横になるように言われて、しかたなくベッドに入る。
「頭痛ですごく辛そうだったって、小野坂さんから聞きました。もう平気なんですか?」
「残念ながら、かなり平気です」
残念? と千鶴さんは持ってきたグラスやポットをテーブルに置き、水を注いでくれる。せっかく心配してくれたのに、もう体になんの不調もないことが、ちょっとくやしい。
「一応、熱を測りませんか」
「そんなことまでしなくても、あの、平気です」
水の入ったグラスを受け取りつつ、少し焦って遠慮した。一瞬、おでことおでこで直に熱を測る場面がよぎる。そうなんですか、と千鶴さんは手にしていた体温計をスカートのポケットにしまった。なんだ体温計か。
千鶴さんは不思議そうな顔をしながらも、欲しいものはあるかとか、いつから具合が悪かったのかを聞いてくる。いつからだろう。
「ちょっと疲れてたんです、今日は」
まるで久しぶりに会ったみたいな気分で、今日あったことをかいつまんで話す。聞いてもらうとなんだか安心して、思わずあくびが出た。千鶴さんが笑った。
「眠っていいですよ」
優しく言われて不安になる。体調を崩したせいか、千鶴さんがいなくなるのが心細い。昼間は、他人と話すことが酷く億劫だったのに。
「部屋に帰るんですか」
「……そうですね、迷惑でなければ、あとでまた様子を見に来てもいいですか」
「千鶴さんさえよければ、お願いします。体調は悪くないんですけど、普通じゃない人と普通じゃない話ばっかりしてて、今日は頭がおかしくなりそうだったんです。だから普通の人と話ができるのが、ぼく、うれしいんです」
千鶴さんが吹き出した。冗談じゃないですよ、とぼくがふて腐れたように付け加える。千鶴さんはぼくの手にあった空のグラスをテーブルに置くと、掛け布団を直しながら優しく言った。
「そのまま休んでいてください。果物でも持ってきますから」
そのかわり黙ってお部屋に侵入しますよ、と千鶴さんは笑って出ていった。
しばらく天井を見つめながら待っていたけれど、千鶴さんはなかなか戻ってこなかった。いつのまにかうとうとして眠ってしまう。しばらくして目を開けると、何かが違うことに気が付いた。
千鶴さんはいない。かすかに甘い匂いを感じて部屋を見回すと、テーブルの上にガラスの器が置かれていて、さくらんぼと一口大にカットされたメロンが盛られてあった。よく見るとデザート用の小さいフォークが二本ついている。
さらに、果物の匂いとは別の空気の流れを感じた。静かだから気が付かなかったけど、窓が開いている。
ベッドから降りてスリッパを履き、窓際に近付いた。腰の高さくらいまでの壁の上に、観音開きの窓が開いている。その外には、なんちゃってバルコニーの手すりが見えた。
飾りだから歩くスペースはほとんどない。2、3、4号室の三部屋、5、6、7号室の三部屋がバルコニーで繋がっていて、5号室のこの部屋から、7号室の図書室まで、飾りの手すりが続いている。
窓枠に手を置いた。夜の空は晴れていて、澄んだ紺色の遠くに、少し痩せた月があった。
ふと横を見ると、まさかの千鶴さんがいた。思わず声を出しそうになる。なにやら様子がおかしい。
バルコニーは本当に飾りみたいで、幅は三十センチくらいしかない。そんなところで、廊下に立たされてるみたいに千鶴さんは立っていた。びっくりしたけど、ぼくを驚かせるために立ってるわけではなさそうだ。
千鶴さんはぼくに気付かないまま、6号室と7号室のあいだで壁を背にして立っている。難しいことを考えているような、どこか心配そうな、青ざめた顔で千鶴さんが6号室の窓を覗く。隣は、有賀の部屋だ。
慌ててぼくは顔を窓から引っ込める。千鶴さんは何をしてるんだ? 真っ青な顔をして有賀の部屋の、何を見ているんだろう。
とりあえず靴に履き替え、よっ、と窓枠によじ登り、外にある飾りバルコニーに下りた。さすがに気付いた千鶴さんが、ものすごく焦った顔をしてぼくを見る。物音を立てるわけにはいかないらしく、押し止めるように手のひらをこっちに向けて、無言で訴えている。
お願いだから来ないでください。そんなふうに訴えているんだろうか、泣きそうな顔で慌てている千鶴さんは、ちょっと面白い。
ぼくもバルコニーを伝って6号室の窓に近付く。ダメと言いたくても声を出すわけにはいかない千鶴さんは、祈るような目とジェスチャーをして、ぼくを追い返そうとする。逆にすごく気になるじゃないか。男女二人きりの、心躍るような大人の何かとか。
そんなんだったらどうしてくれよう。こっちはこの年で結婚の話をされても、そういうことはなるべく考えないようにしてたっていうのに。いろんな思いを抱えながら、ぼくは窓に顔をつけて、カーテンの隙間から慎重に6号室を覗いた。




