表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/65

8 魔法の夜           バルコニーの鳥

 お粥がよかったのか、だるさは完全に消えていた。でも部屋の外に出る用も特になくて、かといってお風呂に入る気力もない。ぼくはなんとなくパジャマに着替え、ベッドの上で『軋轢』や『天罰』の単語を眺めていた。

 百合子さんは、理不尽なことを受け入れることで、認められて祝福されると信じている。誰に認めてもらうために、それを選ぼうとしているんだろう。

 認められることを必要以上に求めて、頑なになってしまう。ぼくたちは何が足りなくて、こんな形になっているんだろう。

 ぼんやりしていると、ノックの音と、遠慮がちな女の人の声が聞こえた。

「冬樹君、起きてますか」

 千鶴さん? と言いかけて飲み込む。相手を確認しようとベッドから降り、スリッパを引っ掛けてドアを開けた。あっ、と千鶴さんが驚いたようにパジャマ姿のぼくを見る。

「すみません、起きてこなくていいですから、横になっていてください」

「あ、いえ、もう平気なんです。なんとなく着替えただけで、普通に元気ですから」

 慌てて引きとめると、そうなんですか、と千鶴さんが安心したように笑った。それでも横になるように言われて、しかたなくベッドに入る。

「頭痛ですごく辛そうだったって、小野坂さんから聞きました。もう平気なんですか?」

「残念ながら、かなり平気です」

 残念? と千鶴さんは持ってきたグラスやポットをテーブルに置き、水を注いでくれる。せっかく心配してくれたのに、もう体になんの不調もないことが、ちょっとくやしい。

「一応、熱を測りませんか」

「そんなことまでしなくても、あの、平気です」

 水の入ったグラスを受け取りつつ、少し焦って遠慮した。一瞬、おでことおでこで直に熱を測る場面がよぎる。そうなんですか、と千鶴さんは手にしていた体温計をスカートのポケットにしまった。なんだ体温計か。

 千鶴さんは不思議そうな顔をしながらも、欲しいものはあるかとか、いつから具合が悪かったのかを聞いてくる。いつからだろう。

「ちょっと疲れてたんです、今日は」

 まるで久しぶりに会ったみたいな気分で、今日あったことをかいつまんで話す。聞いてもらうとなんだか安心して、思わずあくびが出た。千鶴さんが笑った。

「眠っていいですよ」

 優しく言われて不安になる。体調を崩したせいか、千鶴さんがいなくなるのが心細い。昼間は、他人と話すことが酷く億劫だったのに。

「部屋に帰るんですか」

「……そうですね、迷惑でなければ、あとでまた様子を見に来てもいいですか」

「千鶴さんさえよければ、お願いします。体調は悪くないんですけど、普通じゃない人と普通じゃない話ばっかりしてて、今日は頭がおかしくなりそうだったんです。だから普通の人と話ができるのが、ぼく、うれしいんです」

 千鶴さんが吹き出した。冗談じゃないですよ、とぼくがふて腐れたように付け加える。千鶴さんはぼくの手にあった空のグラスをテーブルに置くと、掛け布団を直しながら優しく言った。

「そのまま休んでいてください。果物でも持ってきますから」

 そのかわり黙ってお部屋に侵入しますよ、と千鶴さんは笑って出ていった。


 しばらく天井を見つめながら待っていたけれど、千鶴さんはなかなか戻ってこなかった。いつのまにかうとうとして眠ってしまう。しばらくして目を開けると、何かが違うことに気が付いた。

 千鶴さんはいない。かすかに甘い匂いを感じて部屋を見回すと、テーブルの上にガラスの器が置かれていて、さくらんぼと一口大にカットされたメロンが盛られてあった。よく見るとデザート用の小さいフォークが二本ついている。

 さらに、果物の匂いとは別の空気の流れを感じた。静かだから気が付かなかったけど、窓が開いている。

 ベッドから降りてスリッパを履き、窓際に近付いた。腰の高さくらいまでの壁の上に、観音開きの窓が開いている。その外には、なんちゃってバルコニーの手すりが見えた。

 飾りだから歩くスペースはほとんどない。2、3、4号室の三部屋、5、6、7号室の三部屋がバルコニーで繋がっていて、5号室のこの部屋から、7号室の図書室まで、飾りの手すりが続いている。

 窓枠に手を置いた。夜の空は晴れていて、澄んだ紺色の遠くに、少し痩せた月があった。

 ふと横を見ると、まさかの千鶴さんがいた。思わず声を出しそうになる。なにやら様子がおかしい。

 バルコニーは本当に飾りみたいで、幅は三十センチくらいしかない。そんなところで、廊下に立たされてるみたいに千鶴さんは立っていた。びっくりしたけど、ぼくを驚かせるために立ってるわけではなさそうだ。

 千鶴さんはぼくに気付かないまま、6号室と7号室のあいだで壁を背にして立っている。難しいことを考えているような、どこか心配そうな、青ざめた顔で千鶴さんが6号室の窓を覗く。隣は、有賀の部屋だ。

 慌ててぼくは顔を窓から引っ込める。千鶴さんは何をしてるんだ? 真っ青な顔をして有賀の部屋の、何を見ているんだろう。

 とりあえず靴に履き替え、よっ、と窓枠によじ登り、外にある飾りバルコニーに下りた。さすがに気付いた千鶴さんが、ものすごく焦った顔をしてぼくを見る。物音を立てるわけにはいかないらしく、押し止めるように手のひらをこっちに向けて、無言で訴えている。

 お願いだから来ないでください。そんなふうに訴えているんだろうか、泣きそうな顔で慌てている千鶴さんは、ちょっと面白い。

 ぼくもバルコニーを伝って6号室の窓に近付く。ダメと言いたくても声を出すわけにはいかない千鶴さんは、祈るような目とジェスチャーをして、ぼくを追い返そうとする。逆にすごく気になるじゃないか。男女二人きりの、心躍るような大人の何かとか。

 そんなんだったらどうしてくれよう。こっちはこの年で結婚の話をされても、そういうことはなるべく考えないようにしてたっていうのに。いろんな思いを抱えながら、ぼくは窓に顔をつけて、カーテンの隙間から慎重に6号室を覗いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ