5 雨の館と見知らぬ人々 紫色のソーダ
階段を上り、千鶴さんの部屋である3号室に到着する。花瓶を持ったまま鍵を取り出し、千鶴さんはすみやかにドアを開けた。どうぞ、とお許しが出たので中に入る。
「みんな、同じような部屋なんですね」
ぼくの5号室とほとんど変わらない。家具はまったく同じで、テーブルや椅子の位置が違うくらいだった。机の上にはノートや筆記用具、脇には学生鞄が置いてある。
「詩さんの部屋は少し違いますけどね」
千鶴さんは丸テーブルの上に花瓶を置くと、そばにあった文庫本や、銀色の口紅らしき小物を机の引き出しにしまった。お化粧しないと言っていたけど、今も口紅を付けているのか気になって、千鶴さんの唇を見る。
「どうしました?」
千鶴さんがぼくの顔を覗きこむ。つややかでうっすらとピンクがかった唇は、きれいだけど口紅をつけているようには見えない。ぼくは考えていたことを覚られないよう、適当なことを言った。
「思ってたより物がないから、ちょっと不思議な気がしたんです」
「冬樹君は、私の部屋をどんなふうに思ってたんですか」
「いえ、千鶴さんって本とか好きそうだから、もっと部屋にあるかと思って」
不思議そうにぼくの顔を覗き込んでいた千鶴さんが小さく笑った。
「本は好きですよ。でも読書や勉強は図書室でするので、この部屋にはあまりないんです」
「図書室があるんですか」
「学校の図書室とは違いますよ。なんていうか、巴さんの書斎みたいなものです。本棚に囲まれた部屋で、いろんな本がたくさんあって、あの部屋だけはベッドの代わりに大きな机があるんです。自分の部屋より集中できますよ」
図書室というより、千鶴さんにとっては勉強部屋みたいなものらしい。逆にこの部屋はくつろぐ専用なんだろうけど、女の人の部屋にありそうな、ぬいぐるみも写真立てもない。
私物っぽいものはあまり見当たらなくて、バスルームの近くにあるスリッパと、紺色の傘が立てかけてあるのが見えた。持ち手が銀色で、よく見ると動物の顔になっている。
「これって、巴さんとお揃いですね」
「巴さんのお土産なんです。こっちはキツネの顔なんだそうですけど、私が学校にこれを持って行くのは、ちょっと」
困ったように千鶴さんが肩をすくめた。鉄製の尖った耳にリアルな顔は、やっぱり可愛くなくて、これで殴ったら痛そうだなとか、そういう感想しか出てこない。
「どうしてあの人は、女子高生のお土産にこういうのを選ぶんですか」
「これカワイイよね、って巴さんは言ってましたよ」
3号室を出たあと、千鶴さんは白いあじさいの花瓶をぼくの部屋、残りの花瓶を有賀や小野坂の部屋に届けると、そろそろ昼食の準備ですね、と厨房へ向かった。
「千鶴ちゃんお疲れ様。あら冬樹君も」
千鶴さんのあとについて厨房に入ると、昼食の準備をしている詩さんと、ごきげんよう、と微笑む百合子さんもいた。周りにはほんわりと湯気が立っていて、なんだか女湯に迷い込んだような気分になる。
なぜか百合子さんは、少し恥ずかしがりながらも、不思議の国のアリスみたいな、ヒラヒラのついた白いエプロンドレスを着けていた。詩さんが貸してくれたという。
「詩さんのですか、あれ」
「……私がここで働くことが決まって、巴さんが取り急ぎ調達したものらしいんですが、私にはちょっと。未使用のままだったんですけど、似合う人がいてよかったです」
そう言って詩さんは、満足そうにヒラヒラの百合子さんを見た。百合子さんはともかく、巴さんの趣味がことごとく受け取る側に合ってないような気がする。
ちなみに詩さんは普段、深緑っぽいスカートと白いブラウス、厨房にいるときはさらにスカートと同じ色柄の三角巾と黒いエプロンを着けている。声は高めだけど、顔も体型も大人っぽいというか、ちょっと色っぽいお姉さんで、ヒラヒラという雰囲気ではなかった。
千鶴さんは入口の水道で念入りに手を洗ったあと、奥にあるオーブンの様子を見ていた。百合子さんも後ろから興味深げに眺めている。振り返った千鶴さんが言った。
「そろそろ生地もいい具合です」
生地? と聞き返すと、千鶴さんの横から詩さんが言った。
「ふふ、今日のお昼は、焼きたてのパンですよ。千鶴ちゃんの手づくりです」
「すごい。ぼく、手づくりのパンなんて食べたことないです」
「結構、すごいんです。千鶴ちゃんは研究熱心なんですよ。お菓子作りがちょっと得意な女子高生が作る菓子パンじゃなくて、少量イーストの低温長時間発酵とかいう、なにやら本格的なやつです」
そう言われても解らない。それが顔に出ていたのか、千鶴さんは冷凍庫から小さな缶を取り出して、プラスチックの蓋を開けて見せた。
「これがイースト菌です。匂いがわかりますか」
缶の中には、乾いた砂のような細かい粒が入っていた。嗅いでみると、むっとするような独特の匂いがある。
「あ、これ知ってます。この匂いがすごいパン屋さんがあるから」
「でも、千鶴ちゃんのパンは、この匂いがほとんどないんですよ」
詩さんが得意気に言う。千鶴さんはイースト菌の缶を冷凍庫に戻しながら聞いた。
「ちなみに冬樹君、サンドイッチは、どんな具が好きですか?」
「ゆで卵のやつが好きです」
すかさず答えると、了解です、と詩さんが親指を立てた。ちょっと子供っぽかったかな、なんてことを考えているうちに、詩さんはてきぱきと野菜を調理台に並べて下ごしらえをはじめた。千鶴さんも後ろの作業台で、パンの生地に話しかけるように様子を見ている。
ぼくと百合子さんだけが、ぼんやりとそれを眺めていた。
千鶴さんは温度計と時計を交互にチェックしたあと、おもむろに冷蔵庫を開け、紫色の缶を取りだした。なにやら真剣な顔でタブに指をかけて、ぼくに尋ねる。
「冬樹君、ファンタって飲みますか」
えっ、と唐突な質問に戸惑いながら千鶴さんの手元を見る。それは見慣れたデザインの、グレープ味の炭酸飲料だった。いかがですか、と聞かれた百合子さんが、ぼくの隣で遠慮する。千鶴さんはグラスに紫色のソーダを注ぎ、よかったら、と手渡してくれた。
「きのう巴さんに買ってきてもらったんです」
なんだかよく解らないけど、久しぶりのファンタを飲む。千鶴さんは缶に残った少量のファンタを、近くにあった空のペットボトルに入れた。さらにメモを見ながら、日本酒や酢を少しだけ入れて蓋をする。研究熱心なのはいいけれど、あまりにも変わり種のパンはどうかと思う。
ぼくがファンタをちびちびと飲んでいるあいだ、千鶴さんはペットボトルに入った謎の液体を持って、ちょっと出かけてきます、と厨房から出ていってしまった。




