1 雨の揺りかご 事故と子供
葬儀が終わり、いくつかの雑事が片付いたあと、柳川は千可子の伯父の屋敷を訪れた。
「柳川君、少し、眠ったほうがいいんじゃないの」
雨音の響く応接室で、ジャケット姿の小柄な男が心配そうな目を向けた。まだ四十かそこらのはずだが、どこかとぼけた風貌と口元のひげで、実際よりも老けて見える。
五年前、親を亡くした千可子と千鶴の姉妹を引き取ったのが、この舟見巴だった。
「今は、いいです」
ソファに浅く腰掛け、柳川が目を伏せる。眠ったあとの、目覚めを味わうのが嫌だった。今はまだ、頭のどこかが痺れたままに任せていたい。
この屋敷には、たったひとりの肉親を亡くした十七歳の千鶴と、もう一人、この事故で家族全員を亡くした子供がいる。底なしの気分に自分が浸るのは、もう少し、あとでいい。
「無理しちゃだめだよ。なんなら、ここにしばらくいていいんだから」
そう言った舟見の背後で、控えめなノックの音が聞こえた。立ち上がった舟見がドアの向こうからティーカップの載ったトレイを受け取り、テーブルに置いて紅茶を勧めた。
この洋館には、千可子と付き合いはじめたころから何度も訪れている。千可子は、柳川と結婚するまでこの屋敷で暮らし、舟見の秘書的な仕事をしていた。
かつては宿泊施設だったという広い屋敷には、現在、主である舟見巴と、千可子の妹の千鶴、使用人の葉山という娘が住み込みで働いている。
今、紅茶を持ってきたのも葉山だろう。いつもなら当然のように姿を現すのに、顔を見せずに下がっていった。舟見によると、葉山はずっと泣いていたという。
柳川はドアに目をやったあと、舟見を気遣うように言った。
「ありがとうございます。舟見さんこそ、大変だったでしょう」
舟見は答えず、困ったように小さく息をついた。わずかな沈黙のなか、ほのかに紅茶の香りが漂う。
この事故で、千可子のほかに三人の死者が出た。その日、舟見の屋敷へと向かっていた二台の車のうち、前方を走行していた車にアクシデントが起こり、乗っていた『曽我家』の人間は、子供を一人残して全員が死亡した。その処理や葬儀を取り仕切っていた舟見は、曽我家にかかりきりだった。現在も今後の取り決めのために、関係者を屋敷に滞在させているという。
案内役として同乗していた『柳川千可子』は、事故車両の後部座席にいた。
外傷はそれほど目立つものはなく、事故直後も意識は清明だったが、衝撃による肝臓の損傷が激しかった。他の臓器や静脈にもダメージがあり、損傷部位を修復するための手術は困難と判断され、一時的な止血を施すにとどまり、静脈性の出血が死因となった。
最期に話ができただけでもマシな方だった。他の三人は即死だったらしい。
「……まあ、私は経験済みだからね、千鶴君達のときに」
舟見は小さくため息をつくと、紅茶を一口飲んだ。千可子と千鶴の姉妹が親を亡くしたときも、その事態に対処して二人を引き取ったのは舟見だった。自分にとって、目の前にいる男は、義理の父に等しい存在のはずだった。
視線をテーブルに落としていると、舟見が気遣うように見る。柳川は目を逸らしながら聞いた。
「それで、あのとき何があったんですか」
「……事故は、事故なんだよ。千可子君が証言してたそうだ。車内に蜂がいて、パニックになったんだって」
「それは、聞いてます」
不機嫌そうに聞こえないよう、柳川は控え目な声を出した。警察からは、高速走行中の車内にスズメバチが入り込み、パニックを起こした運転者の操作ミスにより、車が側壁に衝突した事故だと聞いている。事件性や不審な痕跡もなかったらしい。
死亡したのは曽我家の三人で、高校生の長女、その父親、祖母の三人。小学生の長男は事故直前に車を乗り替え、難を逃れていた。
「蜂が入るのは、珍しくないそうだよ。いつ入ったのかは、千可子君もわからなかったって言ってたらしい」
申し訳なさそうな目をする舟見に、柳川は表情を変えないよう努めながら聞いた。
「その話は、警察から聞いたんですか」
「いや、後ろを走ってた小野坂君だよ。彼がすぐ、四人を助けようと事故車両に向かった。曽我さん達は駄目だったけど、千可子君は意識があった。その時、蜂が車の中に出たって言ってたらしい。子供が車酔いして、直前に車の窓を開けてたから、その時入ったのかもしれないって小野坂君も言ってたよ」
「子供が?」
「うん……車の匂いが辛かったらしくて、小野坂君の車に乗ってた千可子君が、その子と車を替わったんだよ」
「その子供が、助かったんですね」
余計なことを考えないよう、事実のみを確認する。助かった子供の母親は舟見巴の姉であり、六年前に病死しているという。子供にとって叔父にあたる舟見は、曽我家の葬儀の面倒だけでなく、残された子供を引き取ることを考えているらしい。
「助かったのは幸いだけど、……その、気になることがね」
舟見は申し訳なさそうに言葉を切る。柳川が黙っていると、細い声で舟見が続けた。
「事故直後の……千可子君の行動が、少し不可解でね。状況が状況だから、しかたがないんだけど」
「ええ」
どこか身構えるような心持ちで舟見の話を聞く。事故の直後、千可子は瀕死の状態で、助かったその子供のもとへ駆け寄り、なにごとかを言い聞かせていたとは聞いている。
「あの日は、曽我さんたちと、結城さんというお宅の人たちを、霜竹町からうちに連れてくる予定だった。宝石がらみの話でね、小野坂君と千可子君に案内を頼んだ」
舟見は宝石の仕入れや買い付けをしていて、舟見が懇意にしている宝石加工販売会社の副店長が小野坂だった。柳川の友人である有賀は、その社員だった。
「曽我さんの車には、はじめ、曽我家の四人が乗っていた。運転席に政一さん、助手席に長女の泉くん、後部座席にはそのお祖母さまにあたるサチさんと、長男の冬樹君」
柳川は黙って肯く。生き残った子供の名前は、冬樹というらしい。
「結城家は、百合子さんという娘さんと、お祖母さまにあたる緋呂子さんだけだったから、小野坂君に車を出してもらって、千可子君に案内なんかをお願いしたんだよ。曽我さんはうちを知ってたけど、詳しくはないはずだから」
霜竹町は、この屋敷がある箱野町より北に位置する山間部の集落だった。山あいの一般道から高速道路に入り、しばらく南下して平地の白根沢を抜け、再びのどかな地域に出る。それがこの箱野だった。
「蜂が出たのは、高速を降りる直前だったと聞いています」
霜竹付近の山道で蜂が入ってきたなら、わからないでもない。だが、白根沢付近の直線道路を高速で走行している際に、蜂が入ってくるものだろうか。
「蜂は、暖かい場所で休んでることも多いそうだよ。車に入ってくるのは珍しくないって警察の人も言ってたね。あの直前、パーキングエリアに車を停めてたときに入ったのかもしれない。それはもうわからないよ」
「パーキングは……子供が車に酔ったんでしたね」
「うん、あとから聞いたんだけど、あの子はちょっと面倒な体質でね、酔ったというより、車とか、芳香剤なんかの匂いに弱いんだ。母親に似てしまったのかもしれないね」
少しだけ、曽我の子供に共感する。柳川も香水や化粧品の匂いは苦手だった。
「匂いに敏感で、時々体調を崩すみたいだよ。あの日も冬樹君が頭痛と吐き気を起こして、曽我家のセフィーロが急遽パーキングに入った。後ろを走っていた小野坂君のアリストもあとに続いた。状況を察した千可子君が車を降りて、冬樹君をトイレに連れていった」
「そのあとに、席を替わった、と」
「うん、……千可子君の提案でね。小野坂君の車には芳香剤もないし、助手席なら楽かもしれないって。小野坂くんの運転するアリストに冬樹君を乗せて、千可子君が曽我さんのセフィーロに乗った」
「そうですか」
何が災いするかわからない。そんなことを考えて、柳川はとっさに頭を振った。舟見が言い辛そうに続ける。
「そのあと、……セフィーロがああいうことになって、後ろのアリストも慌てて停車した。小野坂君が救急を呼んで、大破した車内から四人を助け出そうとした。運転席も助手席もだめだったけれど、後部座席の千可子君だけはかろうじて意識があった。彼女は、車内に蜂が現れてこうなったと、小野坂君や救急隊員に言ったそうだ」
「蜂は?」
「確認できなかったと小野坂君は言ってたよ。窓はほとんど割れていたらしい。彼がサチさんの容体を確認していたとき、千可子君は車から這いずり出て、冬樹君に駆け寄った」
事故に遭った直後の人間が、奇妙な言動を見せるという話はよく耳にする。興奮状態で怒鳴り散らしたあと記憶をなくしたり、痛覚や感情が消失したように振る舞う人間もいる。当時の千可子が、どんな精神状態だったかはもうわからない。
「冬樹君はアリストの助手席から降りて、壊れた車を眺めていそうだ。そんな冬樹君に、千可子君はひたすら何かを話していた。小野坂君は曽我さんの救助をしていたんだけど、救急車が到着するまで、千可子君は冬樹君を抱きしめて、何かを言い聞かせていたらしい」