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4 樹氷の君           有賀と冬樹の沈黙

 午後は時間が空いたので、千可子の部屋でもあった2号室へ向かった。

 きのうの紫陽花はまだ瑞々しく、窓を開けると、やわらかな赤紫の花弁が揺れた。雨は小降りになっていて、空は白く明るい。

 ベッドに腰掛けて外を眺めていると、開いているドアにノックをして、有賀が顔を出した。慌てて立ち上がり、どうぞ、と迎える。有賀は紫色の花に一瞬だけ表情を和らげ、窓際で庭を眺めながら言った。

「今の彼らに、話を聞くのは難しいですね」

「……今はあまり、無理をしないほうがいいですよ」

 今だけは、考えるのをやめて欲しい。本当のことを知るために、ゆうべも有賀は、結城百合子に詰め寄るように話を聞こうとしていた。無理や無茶をしないかと心配になる。

 そんな千鶴に構わず、有賀は冷淡な顔で話す。

「事故そのものの話ですが、蜂を車内に閉じ込めて、任意の時間に解放されるよう細工ができれば、あの状況を作り出せると思いませんか」

「……故意に起こされた事故だと、確信しているみたいですね」

「はい」

 当然のように有賀が肯定する。それならしかたがない。脆弱な思考を追いやり、氷水を飲み込むように冷静な表情と声を作った。

「だとしても、そんな方法を選ぶ必要があるんでしょうか。不確実なやり方をする意味が解りません」

「不確実だから、ですよ」

 有賀のやわらかな声が、ぞっとするほど冷たく響いた。余計な反応を見せないように、平然とした声で尋ねる。

「子供のやりそうなこと、だと?」

「事故を起こすことが目的で、ああいう手段を取った。というより、彼にはああいう手段しか取れなかったとも考えられます」

 そうだとしても、冬樹がそれを実行するだろうか。スズメバチを捕獲できたとしても、自身に及ぶ危険のほうが大きく、不確実で結果が予測しにくい。遊びなら危険すぎるし、本気ならばこの方法は確実ではない。それを冬樹が理解できないとは思えない。

「そうだとしても、石が見つからないのはなぜでしょう。今となっては、冬樹君に宝石は必要のないものだし、隠し持つ意味があるとも思えません」

「意味なんてなくても、いたずらに隠しておこうと思うことくらい、ありますよ」

 そう言って有賀は窓枠に手をつき、白い空を見た。

 意味がなくても、いたずらに。それは子供に限ったことではないと思う。大人が道理にかなった判断で動いているとは限らないと、最近は理解している。

 所有権のない石でも、売却できない宝石でも。自分のものにはならないと知っていても、欲しいと思うことを抑制できないから、厄介なことになる。

 そんな思考を見透かすように、有賀がちらりと視線を向けて言った。

「あれが大人の計画によるものであれば、石が手に入る保証もなく、事故が起こる確証もないのに、危険を冒してスズメバチを捕獲するでしょうか。石が欲しい、誰かを消したいという大人がいたなら、違う行動を取ると思いませんか」

「……計画的なのに不確実で、目的がよく解らない。あえていうなら事故を起こすことが目的で、そんな理由で行動するのは、冬樹君しか考えられない。……そういうことですか」

「彼は、家族を愛していなかったのではないですか」

 有賀の声が冷たく響く。まるで自分が責められているような、その視線が苦痛だった。ぼくはあまり悲しくないですから。そう言った冬樹の顔がよぎる。それでも、誰かの死を望んだりは決してない。冬樹も、自分も。

 訴えるように言葉を絞り出す。

「そんなことは、ないはずです」

「どう思っていても、いいですよ。ぼくがそういう人間じゃないって、証拠はないし」

 ふいに少年の声が響く。入口に冬樹が立っていた。有賀の目を見て平然と続ける。

「自分でも思ってます。もっと泣いたりすればいいのに、遠い話みたいな感覚しかなくて。ぼくがそういう人間だから、こうなったんです」

「そんなことないです。冬樹君が考えたことと、実際に起きた事故に、関係はありません。泣かないことだって、関係なんかないんです」

 思わず冬樹に向かって言うと、後ろから有賀の声が響いた。

「君には、事故を起こす動機がありそうですね」

「ぼくの言うことなんて信じる気がなさそうですが、一応言っておきます。うちに限らず、あの辺の家はみんな、家や車に鍵をかけません。あの日、ぼくが学校から帰ってくると、千可子さんや結城さんたちの乗った車が待っていました。細工は誰でもできますよ」

 有賀が考えるような顔をする。冬樹は冷ややかな顔で続けた。

「ぼくが体調不良を理由に、みんなをパーキングエリアに誘導して、捕まえておいた蜂を仕掛けて車を降りたってことですよね。それも、ぼくが降りた直後ではなくて、しばらく走ってスピードが出たころに、蜂が出た」

「生き物ですから、そこまで君が完全にコントロールしたとは思ってませんよ」

「あと、車を替わる提案をしてくれたのは千可子さんです。ぼくはそれまで誰とも話していません」

 どこか苦しげな声で冬樹が言う。車を替わろうと申し出たのは姉の千可子で、小野坂や結城緋呂子もそう言っていたと舟見から聞いている。話を整理しながら二人に言った。

「冬樹君の具合が悪くなって、急遽、曽我家の車がパーキングエリアに寄ったんですよね。それを見て、小野坂さんの車が続いたんです。だから姉と冬樹君は車を替わることができました。そうですよね?」

 確かめるように二人を見る。冬樹が肯くのを見て、有賀に言った。

「これって、冬樹君に予測できるでしょうか。目的地が解っていたとはいえ、本来なら、案内役の小野坂さんの車が前にいたはずで、パーキングエリアは通過していたはずです。車線を変更しているうちに、偶然、曽我家の車が前になったと聞きました」

「……そうですね、結城さんと示し合わせていたのなら可能かもしれませんが、それでも不自然と言えますね」

「信じなくてもいいですけど、ぼくは結城さんと話したことはありませんでした。あの日まで、まともに顔も見たこともありませんでした」

 そう言って冬樹は煩わしそうに有賀を見ると、どうでもいいというように続けた。

「みんな死んでしまったのに、ぼくだけが生きてるのがそもそも不自然ですよね。なんの意味があって千可子さんの代わりにぼくがここにいるのか、ぼくも解らないです」

「千可子さんは、最後になんの話をしたんですか」

「言いたくありません」

 有賀の問いに、冬樹が冷たく言い放つ。思わず口を挟んだ。

「少なくとも、結城さんたちには、冬樹君を責めているようには見えなかったそうです」

 有賀は、冬樹が子供であることを忘れたような態度を変えない。高校生の自分に対しても、普段から子供扱いせず対等に接してくれていた。それが今、あまりよくない方向へ出ている。

 有賀は冬樹から視線を外さずに言った。

「なんのために、君は本当のことを話さないんですか」

「ぼくがあなたを信用して、なんでも話すと思いますか」

 冬樹が有賀を射るように見る。

 しばらくの沈黙のあと、それもそうですね、と有賀は肩をすくめて小さく笑い、頭を下げると、そのまま部屋を出ていった。


「すみません、嫌な話になってしまって」

 頭を下げると、冬樹は平然とした口調で言った。

「平気です。あの人の言うことも、全部が間違っているわけでもないですから」

「えっ」

「家族についての話です。どうしてか、ぼくはあまり悲しくないんです」

 淡々と言いながら、冬樹が笑顔を作る。それが申し訳なくて、もう一度頭を下げた。

「本当にごめんなさい。それに、泣けないのは私も同じです。冬樹君がおかしいわけじゃありません」

「千鶴さんも?」

 意外そうに冬樹が尋ねる。いつか姉がしたように、冬樹をドレッサーの前に座らせて、鏡を二人で覗き込んだ。

「はい。私たち、似ているのかもしれませんね」

「千鶴さんも、悲しくないんですか」

「……私はたぶん、悲しい気持ちはあるんですけど、頭の奥のほうに追いやられたまま、出てこないみたいです。でも、私が今わんわん泣いても迷惑ですから、これでいいんです。巴さんたちに気を遣わせたくないので」

 ドレッサーに置かれたままの琥珀に手を伸ばし、透かすように見た。その甘やかな色に酔うように、つい先日に見た光景と、子供のころの記憶を重ねる。

 親の亡骸があるうちは、自分にかかる重さのようなものを、まだそこに預けていた。

 灰になった両親を見た瞬間、自分の身体が、ひどく重くなったような気がした。

自分の重さを預けることはもうできない。何かに寄りかかるような考えは、捨てないと立てなくなる。支える杖も、寄りかかる壁も、必要としないように強くなろうと思った。

 でも、本当になんにもなくなってしまうなんて、思っていなかった。姉を頼って生きるつもりはなかったけれど、こんなに突然、灰になってしまった。

 悲しみから逃げずに、寄りかかることもなく立っていた柳川と有賀。二人のようには、きっとなれない。けれど、まだ自分で立つことはできる。無数の杭が刺さっているように痛くて、重いままでも。

 琥珀をドレッサーに置くと、鏡の中の冬樹が考えるような顔をして肯いた。

「ぼくは、幼稚園のころに母が亡くなって、どういうものなのか理解できなくて、それがずっとつっかえているから、今回のことも飲み込めてないみたいです。ごちゃごちゃした引き出しを片付けるのが嫌で、引き出しを開けたくないみたいな感じかも」

「少し、解る気がします」

「母にとってのぼくがそうだったみたいに、ぼくにとってみんなも、繋がりが切れてたのかもしれないです。ずっと前から」

 そんなこと、と言いかけて、思わず隣にいる現実の少年を見た。そのまま黙っていると、どうしたんですか、と冬樹が不思議そうに顔を上げた。

「……冬樹君、言葉使いや雰囲気が、少しだけ変わったような気がします」

「なんとなく、千鶴さんの真似をしてみたくなったんです。ぼくと千鶴さんって、似てるかもしれないって、ぼくも思いました」


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