4 樹氷の君 穏やかではない朝食
木曜の朝は、雨音で目を覚ました。気温は低めなのか、肌寒さを感じる。
学校の制服をクローゼットの端によけて、紺色のワンピースに着替えた。現在の状況で、葉山ひとりに周りのことをまかせる気にもなれないので、学校はしばらく休むことにした。
まだ早い時間なので、食堂に来客陣はいない。一番奥の席では、黒っぽいジャケット姿の舟見が、厨房にいる葉山と話している。壁際にある暖炉風の飾り棚には、きのう葉山が生けた、白い紫陽花の花瓶があった。
二人に挨拶をして手を洗い、エプロンをして朝食の準備を手伝う。葉山がれんげや箸をテーブルにセッティングしながら、舟見と話を続けた。
「柳川さんから連絡ありましたけど、霜竹のほうはどうしますか。あとで、お寺には電話しますよね」
「そうだね、また近いうちに行かないといけないし……」
舟見が難しい顔で息をつく。曽我家の葬儀は、地元の人々に干渉されて苦労したという。さらに結城家の問題も上乗せされて、ますます落ち着けない曽我家の遺骨は、霜竹の寺に預けられている。
「ホールでのお葬式が、相当気にくわなかったみたいですね。霜竹の人たち」
「お葬式はその家で、どの家の誰が先頭に立って、どう仕切るかまで決まってたそうだよ。それを他所者の私が、勝手に決めたからね」
「さんざん言われてましたからねー」
「でも、曽我の屋敷ではさすがに無理だよ。近所の人たちが当然みたいに入ってくるし、家のものや書類なんかもひっくり返そうとするし。だから、あえてホールでやったんだよ。重要書類なんかは、詩さんや小野坂君が助けてくれたおかげで確保できたんだし」
思い出すだけで疲れたように舟見が言った。それぞれの席に茶器を配りながら、千鶴が尋ねる。
「さんざん言われたって、結城さんたちからも、ですか?」
「うん」
舟見は素直に肯くと、出されている中国茶を手にして続けた。
「今はそれほどでもないそうだけど、昔は権力っていうか、立場が強かったみたいだよ。何してたお家なんだろうね、結城さんって」
「養蚕家だったそうです」
食堂に現れた冬樹が、ぽつりと言った。驚きながらも嬉しそうに朝の挨拶をする舟見に、ランドセルを持った冬樹も、思い出したようにおはようございますを言う。葉山も薬味や副菜を運びながら、明るい声をかけた。
「おはようございます。冬樹君も、蚕とか見たことあるんですか」
「いえ、周りから聞いただけです。今は、養蚕の施設も桑畑も、ほとんどないと思います」
「でも、結城さんのお家って、裕福だったんですね」
葉山がため息をつく。千鶴が椅子を勧めると、冬樹は着席しながら言葉を続けた。
「明治のころは、曽我の家より羽振りが良かったって、年輩の人が言ってました。お大名みたいな扱いで、昔はみんな結城家に従っていたそうです」
気がつくと、食堂に来ていた小野坂や有賀も、納得したように肯いていた。舟見も髭を撫でながら肯く。
「なるほどねえ。そのなごりかな、緋呂子さんは、法律なんて気にしてないみたいだよね」
「ああいう人は、そういうモノですよ」
挨拶を済ませ、着席した小野坂が冷ややかな声を出す。舟見は腕時計をちらりと見て、そろそろみんなで朝食だね、と冬樹を見た。
「そうだ冬樹君、食べたいものとか、して欲しいこととか、ない?」
いえ、と素っ気なく答えた冬樹は、目を逸らして窓の外を見る。初めて自分がこの家に来たときも、こんなふうに、舟見がひっきりなしに話しかけてきたのを覚えている。
「じゃ、お菓子いる? チョコとか、ゼリーとか」
舟見はめげずに立ち上がり、返事も聞かずに冬樹のそばへ歩み寄ると、上着のポケットから、銀紙に包まれた小さなチョコレートをいくつも取り出して握らせた。
「…………別に、いりません」
そう言って舟見を一瞥すると、冬樹は銀色のチョコレートを手にのせたまま立ち上がり、もう片方の手でランドセルを掴んで食堂を出ていった。
「なんか怖い、けど、受け取ってくれたよ」
泣きそうな顔の舟見に肯いて、千鶴が食堂を出る。階段を上っている冬樹に追いついた。
「冬樹君、あの人が苦手ですか?」
「そういうわけじゃないですけど、なんだか、話すのが面倒な気がしたんです」
チョコレートをもてあましたまま冬樹が言う。舟見の、どこか無防備な気の遣い方に戸惑っているらしい。気持ちは少しわかる気がした。
「たしかに、気を遣われすぎたりすると、ちょっと疲れたりしますよね。私も同じです」
階段を上りきって立ち止まると、冬樹も足を止めた。そのまま考えるような顔をして、何かを言いたげに千鶴を見る。
ふいに、廊下の右側で、ドアが開く音が聞こえた。図書室の向かいにある8号室から、結城緋呂子と百合子が歩いてくる。
おはようございます、と息を止めて緋呂子たちに頭を下げる。気を遣われすぎるのも疲れてしまうけれど、敵意を向けてくる人間と対峙するのは消耗する度合いが違う。
結城百合子が、優雅に微笑みながら頭を下げ、緋呂子は露骨に不快そうな表情をした。
また、いたずらに冬樹を惑わすな、色目を使うな、などと苦情を言われるのを覚悟する。こういうところを冬樹に見せてしまうのだけは、申し訳なく思った。
ふっと冬樹が前に出て、おはようございます、と緋呂子と百合子に挨拶をした。
「おはようございます、冬樹さん」
緋呂子が、冬樹だけに笑いかけた。ランドセルを背負った冬樹は、大人びた表情で結城家の二人を促して階段を下りていく。三人が遠ざかったあと、早足で冬樹が戻ってきた。
「いろんな意味で、ぼくといないほうがいいと思いますよ、千鶴さん」
えっ、と少し驚いているうちに、冬樹は再び一階へ降りていった。
朝食を取っているあいだ、男性陣で宝石の話になった。今まで冬樹に配慮していたのでこの話にはならなかったけれど、三人とも宝石商なので自然にこうなってしまう。
有賀が遠回りに曽我家の宝石の話へ誘導すると、小野坂も興味深げに話についてきた。結城緋呂子も無関係ではないからか、黙って話を聞いている。興味深げに話を聞いている冬樹を気にしながらも、舟見がのんびりと言った。
「ルビーもサファイアも、5カラット近くあるものなら、どんなものに加工するのがいいかな。やっぱり指輪かな」
「同じ大きさのものなら、いろんなアイディアが浮かびますね」
反応を見ているのか、有賀もちらりと冬樹を見ながら話す。食事を済ませた小野坂が、頬杖をついた手で眼鏡を触りながら言った。
「そうだな。大きさがほぼ同じなら、指輪を二つ作るのもアリだし、一つの作品に対で使うのもいい」
「5カラットはありませんが、先日完成した『シュヴェスター』に近いですね」
「なんですか、それ」
れんげを置いた冬樹が首をかしげる。小野坂が笑いながら、隣の有賀を指差して答えた。
「こいつの作った指輪の名前だよ。ルビーとサファイアを使ってる」
「はい、『シュヴェスター』は、しずく型のルビーと、サファイアを使った指輪です」
有賀は、左隣の席にいる冬樹に体を向けて、教師のような口調で続けた。
「同じ大きさで、二種類の色石を使うときは、二つの石がすれ違うデザインが多かったんですが、今回は寄り添わせるデザインにしたんです。二つの石を花のつぼみに見立てて、プラチナの葉と茎でくるりとリングにしたものですが、大きめの石を使ったので存在感が出ました。ルビーもサファイアも、同じコランダムという鉱物で、兄弟のようなものなんですよ。ちなみに『シュヴェスター』はドイツ語で『姉妹』です」
有賀の唐突な説明に、冬樹がぽかんとしている。今回のことで変わってしまったような有賀が、自分の作品の話になると、少しだけやわらかさを取り戻すのが嬉しい。小野坂も笑いながら冬樹に言った。
「こいつは自分の作品に、一々ドイツ語の名前をつけてるんだ。ロマンチストなんだよ」
「作品だけでもないよ。有賀君は自分の持ち物にも、ドイツ語の名前をつけてたよね」
舟見が付け足すと、そうですよね、と葉山も食器を片付けながら笑った。困ったように有賀が肩をすくめる。
今までも有賀は、人や物にドイツ語のあだ名を勝手につけたりしていた。姉の千可子も妙な名前をつけられていたけれど、名付けのセンスも才能のうちなのだろう。
話が続くなか、席を立って葉山を手伝った。食後のお茶を配り、お茶うけにゴマや干しぶどうの乗った黄色い中国風蒸しパンを出す。舟見はそれをひょいとつまみ、もぐもぐと味わったあと言った。
「すみません皆さん、今日は所用がありまして、私は昼過ぎまで出かけます。何かあればこちらの詩さんか、千鶴君に言ってください。……ごめんね千鶴君、おみやげいる?」
おみやげはいいですけど、と必要な物を頼むと、舟見は金色の腕時計に目をやりながら退席した。




