1 雨の揺りかご 千可子の死と柳川
病院の廊下を、三十過ぎの大柄な男が走っていた。
六月に入って間もない空は、鉛色に澱んでいた。そのせいか、廊下の薄暗さにすぐ目が慣れる。揮発する雨の匂いと、病院の独特な空気に、今が現実であることを嫌でも感じた。
妻が高速道路で事故に遭ったという知らせを受けた柳川が病院に到着したのは、土曜の昼を過ぎた頃だった。大きな病院のせいか人の気配は絶えず、ざわざわと雑音が耳に入る。
すでに病室には、柳川の友人と、妻の妹である千鶴が待っていた。高校生の千鶴は制服に鞄を抱えたまま、いくつかの機械や管に繋がれた妻の千可子にそっと話しかけている。千鶴は顔を上げて柳川を見ると、千可子の耳元に向かって言った。
「姉さん、柳川さんが来ましたよ」
人形のように白かった千可子の頬にほんのりと赤みが差し、ゆっくりと目が開く。
気配を消すように周辺の機器に寄り添っていた医師は、珍しいことでもないというようにモニターに視線を戻した。その様子に、友人の有賀が黙って部屋を出る。千鶴もそっと廊下に出た。
「寿信さん……」
千可子が自分の名前を呼んだ。柳川は屈み込むようにその顔を覗きこむ。千可子の顔が弱々しくもほころび、そのまま、花のため息のように小さく言った。
「ごめんなさい……」
「謝るな」
千可子の手を握り、笑ってみせる。その手が思いのほか冷たいことに密かに驚き、医師の見つめているモニターを一瞬見た。血圧も低下しているらしい。
それでも千可子はいたずらを企むときの目をして言った。
「ね、あなた、お願いがあるんです」
「なんだよ」
「これ」
千可子が管の繋がった左手を柳川の前に見せた。薬指には、蔦の葉を模したようなデザインの指輪が銀色にきらめいている。その中に星のように白く光る粒と、青みを帯びた緑色の粒がはめ込まれている。半年前に籍を入れる際、千可子に贈った指輪だった。
「私、とっても気に入ってたんです。だからお願いします、こんな綺麗なもの、お棺に入れたりしないでくださいね。そんなことするくらいなら、誰かにあげてください。千鶴は貰ってくれないから」
返す言葉を探しながら千可子の頬に触れる。顔には傷一つないのに、その白さがひどく痛々しく感じた。
「本当に、お前は俺を困らせるのが得意だな」
声が掠れる。うっすらと微笑んでみせると、千可子もつられたように弱々しく笑った。
千可子の身体がどうにもならないのは、連絡を受けたときの説明で理解していた。千可子もそれをわかっているのか、ごめんなさいを繰り返す。あまりにも唐突で実感が沸かない。だからこそ耐えることができているはずなのに、身体に力が入らない。
「頼むから謝るな、千可子」
「ごめんなさい、寿信さん。もう少し、あなたを幸せにしたかったのに」
名前を呼び続ける柳川を、千可子はうれしそうに見つめた。やわらかい声が消えそうに震える。
「ありがとう、ごめんなさい、寿信さん」
弱々しく握り返したその手から、ゆっくりと力が失われる。しばらく間があったあと、生命活動の停止を告げる機械音とともに、それまで気配を消していたような医師が、ぼそぼそと何かを申し訳なさそうに告げた。
一九九九年の六月。雨の日に柳川千可子は息を引き取った。二十二歳だった。