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――――ザーザー。
真っ暗な闇の中に一筋の光が差し込むように、雑音混じりに映像が流れ込んでくる。
小学校低学年くらいの女子児童が、あまり年の離れていないような男児と仲睦まじく遊んでいる微笑ましい光景。
が、それも一瞬。本を繰りページがめくられたように場面が転換する。今度は学校のシーンで女子児童が同級生と思しき子供たちとワイワイ話し合っている。
そこからさらに場面は転じ、次に映し出されたのは中学校のシーンだ。セーラー服を着た少女が何人かの男子に取り囲まれているところに一人の男が介入し、何かを叫んだ。
そこで、もう一度天馬の意識が深い奥底へと沈んでゆき――
覚醒する。
ゆっくりと瞼を開き、長いこと眠っていたようにいまいち焦点の定まらないぼんやりとした瞳は、見知らぬ天井を映し出していた。
「……」
もう二度と目覚めることはないと思っていただけに、多少の驚きはあったものの、客観的に物事を捉えられるくらいに天馬は冷静だった。
ベッドの上に大の字になっていた天馬はむくりと上体を起こし、ここがどこか把握するべく周囲を見回した。
曇天のせいでやけに薄暗い室内は、白を基調とした空間にピンクといったいかにも女の子が好きそうな色合いが加わり、明らかに女子の部屋という感じだった。妹を除いて女子の部屋に踏み入ったことのない天馬だったが、ああ、これが女子の部屋なんだなと瞬時に理解する。いや、勝手に思い込む。
つまりここは、死後の世界でもなければ病院というわけでもないようだ。そういえば身体のどこにも痛みは感じられない。異変もない。もしや地面に激突さえしていないんじゃないだろうか。
なんにしても天馬は死んでいない。あの危機的状況を奇跡的に脱し、無事生還したのだ。
ひとまず生きていたことに手放しに喜ぶにしても、氷解することのない疑問は数多く残る。
ここはどこだ。どうやって助かった。あの少女はなんで透けた――
次から次へと浮かぶ疑問符はただ旋回を続けるだけで、大きく溜め息を吐いてから、ふと横を見た瞬間だった。
女がいた。
「うおっ!?」
ちょっとした恐怖を覚え情けなく後ろへいざるも、すぐに壁に突き当たった。ベッドの上に逃げ場などあるわけもなく、ある意味で袋のねずみだ。
「だだだ、誰だてめえは!?」
音も気配もなく突然現れたそいつにそんな言葉を投げ掛けるも、冷静に考えてもみるとそれは向こうの台詞であり、むしろ部外者は天馬の方である。
「お、お前は何者……ですか?」
つまりそういうわけで、立場上思わず下手に出る自分に辟易しつつ、唾を飲み込み返答を待つ。
……ん? いや待て。よく見るとこいつ――
「あ、や、驚かすつもりはなかったんだよ。ほんと、全然」
全身を使い悪くないアピールをする少女だが、彼女は先ほど屋上で自殺を図っていた少女に他ならない。
肩にかかるくらいの銀髪のセミロングに、雪解けするような白い肌。
パッチリとした大きな瞳に縁取られた長い睫毛が印象的で、天真爛漫そうな雰囲気の少女だ。
出るとこの出た発育の良い身体付きに目を遣る天馬に、ショートパンツに薄花色のノースリーブを着ていた少女は、怖がらせないようにするつもりなのかニコニコと如才ない笑みを浮かべている。何も考えてはいないのか、まだ心は読み取れない。
「わたしが何者かって言ったよね。うーん、なんて説明したらいいのかな……」
説明するのに中々うまい言葉が見付からず唸る少女は今以上に口角を上げると、「わかんない」と純粋無垢な表情を傾けた。
自分が何者なのか分からない? そんなバカな話があるか。ふざけてるとしか思えない。
「んなワケあっか。てめえ俺をおちょくってんのか? あ?」
「おちょくってないよぉ。ほんとの話だって。わたしの目を見れば分かると思うけど、嘘は付いてませんから!」
えっへんと胸を張る少女を半信半疑に思いつつ、言われるがまま少女の瞳を穴が開くほど見つめるが、当然分かるはずもなくより懐疑の念は増すばかりだ。
と、ここでようやく天馬は少女の心を読み取ることができた。
『(あわわ、完全に疑われてるよ信頼度ゼロだよ。わかんないってどっち付かずな言い方でお茶を濁さず、初めから正直に記憶喪失なのさって言えばよかったかなあ)』
ほらな、やっぱり虚言だったろ。って、
「記憶喪失だあ?」
普通の日常を過ごす上で聞き慣れない単語を耳にし、思わずしかめっ面となり間の抜けた声を上げてしまった。
「あれ? 声に出ちゃってた?! えっとぉ、うん。まぁ、そういうことなんだ。たはは……」
恥ずかしそうに笑う少女の顔をまじまじと見つめ、思ったことを口にする。
「つーことは、ここはお前の家じゃねえのか? そもそもここはどこだ?」
「わかんないや」
「お前は何者で、俺のことを知ってたりすんのか?」
「うーむ、分からぬ」
「あの時屋上にいたのはお前で、身体が透けたよな? そのせいで俺は屋上から落下したわけだが、どうして俺は生きてる!?」
「ズバリ分かりませんなぁ!」
「……」
言葉が出ない。
状況が状況だけに全くと言っていいほど理解が追い付かず、もはや天馬の脳はキャパオーバー寸前だ。誰でもいいから分かるやつがいたら教えろと思うも、思考プロテクトのせいで誰にも天馬の思いは届かな
「い?」
よく見ると、少女はSプロを付けてはいなかった。明らかな法律違反だ。そのことを言及しようとしたが、少女の声の方が早かった。
「因みに最後の疑問だけど、確かに屋上にいたのはわたしだよ。身体が透けたっていうのもきみの納得がいく理由を言えると思う。うん、言える。言えるかなあ?」
「なんでお前が疑問形なんだよ。つうか納得がいく理由だって?」
「うん。だってわたし、幽霊だから」
真顔でそんなことを口走る少女にどう反応すればいいのか分からず、「へー、幽霊。そいつァ面白い冗談だな」とつい鼻で笑ってしまった。もし同じ立場なら、十中八九こうなると思う。
「あ、あー! 今鼻で笑ったね!? その反応、信じてないなぁもー。そう思うなら確認してみなよ。ほら!」
ずいと少女が手のひらを差し出した。細くたおやかな指。日の光を浴びていないんじゃないかと思えるくらいの肌白さだ。
「……」
訝しんだ目で少女の顔と交互に見比べ、初めてライオンに触れようとするみたくおっかなびっくり手を伸ばす。
そうだ、あの時は冷静さを欠いてたから当たったと思っていたが、実は触れてすらいないってオチかもしれない。有り得る。いやきっとそうに違いない。
もう少しで肌が触れ合おうという距離だ。
しかし――
「ッ!?」
結果は屋上の時と同じく通過。
何度手で触れようとしても、映写機から出る映像に触ろうとするのと同じで虚しく空を切るだけだ。
「ねっ? だから言ったでしょ」
少女はそれ見たことかと豊満な胸まで逸らして鼻高々だ。こいつ、調子に乗ってやがんな。
そう思った天馬はその鼻っ柱をへし折ってやるべく、たわわに実った胸へと両手を伸ばし――揉んだ。もとい、揉む動作をした。
「えっ……きゃっ!」
あまりに堂々とした痴漢行為に、初め面食らい、次いで目を閉じ口を大きく開けて飛び退る。いや飛んだ。文字通り浮いている。そして胸元を隠す仕草を取り、顔を真っ赤にして天馬に抗議。
「ちょちょちょっ、今の完全にセクハラだよ?! セクテクトハラムディアだよ!」
「セクテクトハラムディア? ……もしかしてセクシャルハラスメントのこと言ってんのか?」
「あ、それそれ」
ビシリ人差し指を天馬に向け同調。んなRPGみたいな長ったらしい呪文と間違えるかよ普通。
変な女だなとつっと目を細めながらそんな所感を抱いた。
「もう、天馬くんってばえっちなんだぁ。わたし嫌いになっちゃうよ?」
「んだよ。ノリわりィな。ちょっとした冗談に決まってんだろーが。大体……ん? てめ何で俺の名前知ってんだ?」
「あれ?」
本人にもまるで心当たりがないのか、小首を傾げて顔を綻ばす。笑ったら何でもやり過ごせると思ったら大間違いだぞコラ。
ゴゴゴゴと十分に怒気を孕ませた上に、夜叉のような顔付きでガンを飛ばすも「もー、そんなに怒んないでよ。ほらスマイルスマイル♪」と一瞬で笑い飛ばされた。そんな微塵の躊躇もない一蹴に愕然とする。
バ、バカな。暴力団員をビビらしたことのある顔ですごんだんだぞ。それをこの女はあっさりとかわしやがった!
「お前、俺が怖くねえのか?」
「怖い? なんで?」
「なんでって……」
きょとんとした顔付き。どうやら冗談で言ってるわけではないようだ。
「ねえ! そんなことより」
ずいいっと、少女が天馬の鼻先にまで顔を近付ける。吐息がかかるほどの超至近距離だ。といっても、この世ならざる者である彼女の吐息は天馬には届かない。ほっとしたような、しかし少し残念にも思いつつ、「んだよ」とやたら低い声を絞り出す。
「きみ、わたしの名前分からないかな、名前」
「ああん? 名前?」
「うん、名前」今度はすうっと後退し「知らないはずのきみの名前をわたしが知っててー、わたしを知らないはずのきみがわたしの名前を知らないー。これっておかしくない?」
なんだその謎理論、と天馬は色々な意味で二の句が継げない。こいつの言ってることを真に受けてたら頭が痛くなって、っつ!
急に額がかち割れそうなくらい痛み出し、意識せず髪の上から頭を押さえ込む。
「えっ、なに。どうしたの天馬くん!?」
眉をハの字にして近寄るも、触って介抱することができない以上、少女はおたおたするしかない。まるで出産に立ち会う夫と妊婦のような立ち位置だ。
「だ、大丈夫だから静かにし」
ろ、の言葉を発する直前、得体の知れない何かが、天馬の中に流れ込んできた。そしてフラッシュバックとはまた異なるが、ある声が、言葉が、名前が、天馬の脳裏を稲妻のように駆け抜けてゆき――
「――マシロ」
「えっ?」
「マシロ。そう、マシロだ。お前の名前。なんでかしんねえけど、急に分かっちまった」
口に出してから、我ながらオカルト染みたこと言ってんなと口元に自嘲の笑みを浮かべると、人を疑うことを知らない少女は「マシロ……うん! わたしにぴったりのいい名前だ」と子供のように無邪気に笑った。……まぁ、本人が納得してんならこっちがどうこう言うこともねェか。
「そういえば、どうして急にわたしの名前が分かったの?」
「ん、あァ。うまく説明しづれえけど、屋上から落ちて意識に触れたっつうんかな。色んな映像がごちゃ混ぜに流れてきて……」
と、そこである疑問が不意に頭を擡げ、ついには天馬の口を衝いて出た。
「お前、自分で幽霊っつってたよな。そんな非科学的な存在のお前がどうして死にたいなんて思って、」
「あっ! みてみて。こんなところに縄跳びがあるよん」
なっつかしーと飼い主の投げたボールに飛び付くように、ケツを突き上げ興味を示すマシロ。
「…………」
向こうから訊いといて無視。こっちが真面目に問い掛けても無視。
怒りのボルテージがいい感じに上昇し、今度はカンチョーでも見舞ってやろうかと思案した天馬の前に、縄跳びが突き出される。これで亀甲縛りでもしろってか。ハハハって、
「なんでてめえ縄跳び持ててんだ!」
「ほえ?」
なんでと訊かれ、言葉の意味するところを理解できないでいたマシロが、「縄跳びは縄跳びじゃん?」と微苦笑するが、違う。そういう意味で言ったんじゃねえ。
「なんで幽霊のお前が物を持ててんだって話だ。触れないんだろ? 物に」
「あー……」
そういうことかあと腕組み無意味に天を仰ぐマシロは、「ちょっと見てて」と言って縄跳びを強く握ると、
ヒュッ、ポトリ。
しっかりと握っていたはずの縄跳びがマシロの手から落下した。まるで手品を見せられているかのようだ。狐につままれた気分で縄跳びとマシロの手を交互に見ていると、マシロが縄跳びを拾い上げ説明する側に回った。
「えっとね、細かい理屈とか訊かれてもわたしにもさっぱりなんだけど、どーやら質量のある物には触れて、こうして自由に触れる状態にしたり触れなくできたりするんだ。そんんでもって、命あるものに触るのはNG。というか触りたくても触れないの。透けちゃうからね。だから大大だぁ~い好きな猫にも触れなくて悲しいんだ。こうニャオーンでガオーなクマーンとしたのが好きなのに!」
……猫とライオンと熊の混合種か? それ。
いくら他人の心が読める世界に変化したとはいえ、そんなキメラみたいな生物が悠々と跋扈してたら怖いっての。お前が言うなって感じかもしんねえけど。
「つうか記憶喪失なのに猫好きってなんで分かんだよ」
「幽霊になってから猫見て大好きになったの!」
「ああ、そう」
「とにもかくにもわたしは物に触れられるし、こうして物理的な痛みだって感じるんだよ」
「いやお前、こうしても何も痛みを感じるようなことすらしてない、って、えーーーーーーーーっ!!」
我知らず馬鹿でかい声を張り上げる。ギリギリ近所迷惑にならないくらいの声量。
窓から外を見るにここは二階だ。もし階下ないし同じフロアでここの住人が寝ているだけとかだったら、この時点で一発アウトだろう。だが今は目先のことに比べたら遥かにどうでもいい懸念事項だ。
マシロが――縄跳びを自身の首に巻き付け、思いっきり締め上げていた。
「ちょっ、お前なにしてんだ!?」
いきなりすぎる自傷行為に目が点になったのも束の間、止めさせようと身体が動く。
「ぐっ、がっ……息、できな、い」
「外してやるから動くな。くそ、絡まっちまってんじゃねえか。ああもう、暴れんなって!」
少女の身体を透過しながら縄跳びだけを外すというなんとも奇っ怪な体験をしつつ、努力の甲斐あってどうにか縄跳びを取ることができた。今になってマシロが物を透過状態にすれば解決できたんじゃと思ったがそんなのは後付けだ。
どっと深い疲労を覚えた天馬は手に握った縄跳びを無造作に投げ捨て、ゴホッゴホッと咳き込むマシロに超絶冷え切った目を向ける。
「てめえ、死にてェのか? ああ!? ――って、もう死んでんのか。はあ、くそ、今のなしで頼む」
まさか説教の一つもまともにできないとは。思わず天馬は頭を抱える。
対して、マッドサイエンンティストもびっくりな狂気の沙汰っぷりをありありと見せ付けたマシロは、
「いやあ、わたし失禁しそうになっちゃったよ。たはは」
……笑い事じゃねえだろうが。
口にこそ出さなかったものの、明らかに不快の色を滲ませる天馬を認めたマシロは、一瞬鼻白むとばつが悪そうに足元に視線を落とした。
「たはは、あ、いやごめんね笑ったりして。……なんて言えばいいのかな。この身体で目覚めた時から、自分にもよく分かってないんだけど、今みたいに無性に死にたくなっちゃう時があるんだよね。それは堰を切ったみたいにどんどんわたしの中で膨らんでいって最後にはどうしようもなくなっちゃうの。……変な話だよね、わたし幽霊なのに」
輪郭の整った少女の顔に憂愁の影が差す。
嘘を付いてるわけじゃない。マシロは口にしてから後悔の念に駆られたように、『(やだ、わたし何話してんだろ。一人で背負い込もうって決めたのに。決めてたのに……)』と思慮したからだ。
いや、違う。そうじゃない。
この場合、卑怯なのはむしろ天馬の方だ。マシロが天馬の力を知らないのをいいことに、彼女の秘めたる思いを知ってしまったのだから。
もちろん、天馬も故意ではない。天馬が意識しなくとも勝手に心の声が聞こえてしまうからだ。
だが聞こえてしまった以上、放っておくわけにもいかない。いや、放ってはおけない。
形容し難い何かが天馬の心を揺さぶり、震わせ、大きく駆り立てた。そして口を衝いて出る言葉。
「……正直、俺には死んだやつの気持ちなんて分かんねえよ。分かるはずもねえ。それは俺が今生きてるからだ」
「……うん」
「だがな、困ってるやつに手を差し伸べるくらいなら俺にもできる。たとえそれが幽霊であろうともな。生きてるか死んでるかなんて関係ねえ。俺がやりたいからやる。それだけだ」
「天馬くん……」
ギュッと胸の奥を掴まれたように、マシロの真珠玉のような澄んだ瞳にうっすらと涙が滲む。
我ながら柄にもないことを言ったのと多少の気恥ずかしさから、天馬はポリポリと頬を掻くと大きく咳払いをした。
「まぁこの話はもういい。本題に入るとだ。これはあくまで俺の想像だが、鍵は失われたお前の記憶にあると俺は思ってる。つまり、マシロの記憶を取り戻すことが直接解決への糸口に繋がるんじゃないかってな。それにより死にたくなる原因も解明し、万事解決。晴れてお前は成仏し天国へいけるって寸法だ」
「わたしの、記憶……」
マシロの表情は先の見えないトンネルにいるかのような恐怖に彩られ、不安に押し潰されそうなほどに蒼白だったが、果たして覚悟を決めたのか、ぎゅっと下唇を噛むと半ば強がるような素振りをするとともに、告げた。
「分かった。わたし、頑張るよ。どう努力すればいいか皆目見当も付かないけど、やるだけやってみる!」
「おう、その意気だ。諦めさえしなきゃ報われる日が絶対きて――だから縄跳びを掴むんじゃねえ!」
バシィッとマシロの手から縄跳びを叩き落とす。ったく、目を離すとすぐ自傷しようとしやがる。これじゃ先が思いやられ、ん?
「い、いや、言い訳すると今のは違うんだよ。ただ宙に浮きながら縄跳びしたらギネス狙えるんじゃないかと思って、あれ、急に押し黙ったりしてどしたの天馬くん」
「しっ。少し黙ってろ」
目を瞑り真剣に耳をそばだてるまでもなかった。思ったよりはっきりと聞こえる。この音は……
「!? マズい、誰か帰ってきやがった」
いや帰ってきたかどうかは定かではないが、玄関ドア特有の厳しい音がしたのは事実だ。そしてその音の主は、どうやら階段を上ってきているようである。
今、天馬のいる場所は二階だ。その人物というのは、普通に考えてこの家の住人である可能性が極めて高い。もしその人物がこの部屋に入ってきて鉢合わせようものならどうなるか。そんなことは考えるまでもない。即通報だ。サイレンを鳴らすパトカーが続々と集まり、たちまち凶悪な人相と強靭な肉体を持つ天馬を取り押さえることだろう。とても言い逃れはできない。下手したら前科までついて、未遂ではあるが、少年院に送られてしまうかもしれない。
最悪の未来を思い浮かべ、額に玉のような汗を滲ませる天馬の横で、ここが力の見せ所と言わんばかりに、「わたし、様子見てくるよ!」と壁をすり抜けマシロが偵察に動いた。
そんな幽霊全開の力を見せられても今更驚くこともなく、どうするべきかと視線をさ迷わせた結果、偶然目に付いたクローゼットに飛び込み、ジッと身を潜ませた。
人一人入るスペースが設けられていたのは不幸中の幸いだった。ここでうまくやり過ごす以外にもう手立ては残されていない。
マシロはまだ戻ってこない。今更ながら思ったが、天馬に霊感などは一切有りはしない。つまるところ、天馬以外にもあの少女の姿が見えるのではないか――
そんなことを思った矢先、ガチャリとドアノブを引いて天馬のいる部屋に何者かが入ってきた。
クローゼットの中はラックにかけられた服で密集し、曇天のため光量不足なのは否めないが、窓から僅かに差し込む淡い光のお陰か僅かながらの隙間から部屋の中を覗き見ることができた。
気配を十分に消しその隙間から様子を伺うと、入ってきた人物は女だった。それも美少女と形容してもいいくらいの。
腰に届かないくらいのツーサイドアップに、怒ったようにつり上がった目。十分に整った顔立ちは異性の目を引きそうではあるものの、華奢というか小さいというか、身体付きは先ほどの幽霊少女と比べてしまうとあまりに貧相なものだった。まぁそれはそれで需要もあるのだろうが。
極め付きに、少女は天馬の通う高校の制服まで着ていた。リボンの色を見るに一年、天馬とは同学年のようだ。顔に見覚えがないことから別のクラスだと推察する。
その少女は肩に提げていた通学カバンをベッドに放ると、薄い唇を開き「゛あ゛あ~~、クッソ疲れたぁ~~~」とダミ声を張り上げた。
第一声がこれである。いくら他人の目のない(今はあるが)自宅かつ自室とはいえ、これではせっかくの美少女が台無しだ。
容姿のみ美少女は、カッターシャツに付いたリボンをむしり取ると、「まったくやってらんないっての。学校もうちもクソジメジメしてるわ、帰りは飛び降りの瞬間なんて目撃するわで、もう最高に最っっ悪の気分!」
語末に合わせて、バシィッとリボンを床に叩き付けた。なんておっかないんだろう。獰猛でやたら凶暴だ。いや、気に留めるのはそこじゃない。
――飛び降りの瞬間を目撃した。
今、クローゼットの扉を隔てた先に立つ少女は確かにそう口にした。
つまりあの時の悲鳴はこの少女のものだった可能性がある。唯一かどうかは分からないが、屋上から落下した天馬がどうなったか目撃した貴重な人物でもある。
一層神経を張り詰め、この状況をどう切り抜け、どう少女と対話をするまでに至れるのかシミュレートをしていると、まさかのまさか少女が驚きの行動を取った。なんと天馬の目の前で服を脱ぎだしたのだ!
……いや、脱ぎだしたのは事実だが、少女は天馬が潜んでいるとは夢にも思わないだろうし、この言い方に語弊があるかと言われればあると言わざるを得ない。
カッターシャツはらり、スカートはらりと床に落ち、残るは上下の下着のみ。
踊ってもないし楽曲だって流れていないが、初めて見る擬似ストリップに、罪悪感に苛まれながらも踊っているのは天馬の心だ。BGMは適当に脳内補完するとして、これで興奮しない男がいるのであればそいつはホモと置換してもいい。
などといっそ開き直ってもいいが、天馬も多感なお年頃。見てはダメだと尻――もとい、知りつつも、目の前で展開される光景に思わず食い入るように見てしまう。若干前のめりなのも天馬が若輩者だから、若気の至りということにしておいてほしい。
青と白で構成された見事な縞パンとブラジャー(胸が貧相だから付けてる意味なさそうだな)に目を奪われつつ、ついには後ろ手でブラのホックに指をかけようとする。我知らず心臓の鼓動が早くなり呼吸まで乱れているのは、きっと天馬が童貞だからに相違ない。
と、
「脱いだはいいけど、ベトベトして気持ち悪いなぁもう。このまま風呂場に直行しようかしら」
ッ! しめた!
このまま風呂に行ってくれれば最悪見つかる可能性は激減し、その隙に脱出できる!
この際、対話は二の次だ。一度離脱しこの家の場所を覚えておいて、改めて話す機会を伺えばいい。同じ学校の生徒だというのも実に運がいい。
流れがいい方向へと変わった。ここにきて理想的な青写真を描き上げ、後はバレないように息を殺していようと口を真一文字に結んだ瞬間だった。
先ほどの幽霊少女が扉の向こう側から逆さまに降ってきて「女の子の着替えを見ちゃ、めっだよ!」と叱咤したのだ。
当然、天馬は驚いた。
突然の出来事に面食らい、ブフゥ! と息を吹き上げ、体勢を崩しとっさにクローゼットに全体重を預けると扉はいとも簡単に開かれ、勢い余ってガンガン直進。眼前で冷凍保存したように凍る少女を不可抗力ながらベッドに押し倒してしまった。これをラッキースケベと喜ぶ余裕もない。事ここに至って、状況はさらに悪化の一途を辿ったのだった。
「……」
「……」
目と目が合う瞬間、恋に落ちるなんて話をどこかで耳にした記憶があるがまったくそんなことはなく、思考まで凍り付いていたためか少女は考えることを放棄し、代わりに口を悲鳴の形へと変えていき、
「――キャアアむぐっ」
叫ばれたため、無理矢理口を押さえ付けた。心理的にはもはや犯罪者のそれだ。
「黙ってろ! 誰かに聞かれたらどうする!?」
この口調も乱暴すぎていけない。余計に竦み上がらせるだけだ。現に『(ひっ! ここここ怖っ。いきなり何なの! アタシどーなんの!? 犯されんの!?!)』と涙ぐんでいる。誰だってこうなる。横でぷかぷかと浮遊し、「ちょっ、怖がらせてんじゃん! 解放してあげなよ?!」と横槍を入れるこいつの方が異例なのだ。
叱責するマシロの言葉は無視して(どうやらマシロの姿は見えていないようだ)、天馬はさも自身が冷静であるかのように装い、
「落ち着いて聞け。俺はお前に乱暴する気なんざさらさらない。もちろん犯すつもりもな。こうなったのには事情があんだよ。それ相応の」
「むがぅ、ほほてふぉはふぁひへいはふむはふぁひふぁははふぁへふぁはひほ!」
『(だったら、この手を離して今すぐアタシから離れなさいよ!)』
口では何言ってるかさっぱり分からなかったが、思考はあっさり読み取れた。こういう時便利だよなと思いつつ、信用を勝ち得るためだと割り切り、「いいか、絶対に騒ぐんじゃねェぞ……」としっかり釘を刺した上で、嫌がる少女の口から手を離し無駄に筋肉質な身体を上げる。すると言われた通り静かなまま、しかし瞳には勝気な炎をメラメラと灯し、親の仇のように天馬を睨め付けている。それから今の自分の姿を視界に入れ、
「……話を聞くのはやぶさかじゃないけど、その前に少しあっち向いてて。恥ずかしいから」
言われてみればそうだと天馬はすぐに納得する。いつ襲うかも知れない男の前で、いつまでも下着姿を晒していたくはないだろう。
見た目に反する紳士さから半回転しおとなしく待とうと腕を組んだ直後、後頭部に鈍い痛みが走った。目がチカチカし、一瞬意識も飛ぶ。
「はっ、何素直に言うこと聞いてんのよこのレイプ魔! アタシが気を許したところを一気に襲おうってハラだったんだろうけどそうはいかないわ! 乙女の純情守られたしっ」
両膝をついてくずおれる天馬にそんな言葉を投げ掛け、逃走を図ろうとドアノブを握る少女だったが、間もなくして天馬は短い喫驚が発せられるのを聞いた。
「きゃっ! え、ちょっと、何これ!?」
ジンジン痛む後頭部を押さえながら見上げると、そこには下着姿のまま宙に浮く名も知らぬ少女の姿があった。いや幽霊少女も含めると実質二人ではあるのだが、カウントするのも億劫だ。
「ほんと何よこれぇ?! アアアンタ、アタシに何かしたのね!? そうじゃなかったら絶対におかしいもん!」
水面に揺られるようにぷかぷかと浮く下着姿の女に、悠然と浮遊する自称記憶喪失の幽霊少女マシロ。そこに名を連ねるは、泣く子も黙る顔面凶器の九条天馬。
もうじき夜の帳が降りてきそうな夕暮れ時、賑やかな時間はまだ続き――。
書いていて楽しいです。
誤字脱字、感想等あればお気軽にどうぞ。
次回、土曜日に更新予定。