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One scene story  作者: ATS
8/20

シーン008:風歌う

 風の吹きだまりと呼ばれる場所があるが、この場所はまさにそんな場所なのかもしれない。


 季節的には3月と言う事もあって最近まで少々肌寒さが残っていたのだが、今日は朝から雲一つない位に晴れ上がり、優しい風が暖かな陽気を演出している。

 だからと言う訳でもないが、俺はそんな陽気に誘われるかのように、日のあたる川辺りで腕枕をしながら寝転がっていた。ここは、吹く風が一度くるりと踊る様にして消えてゆき、それが妙に肌をなでて行くので気持ちが良い。


 川辺りに生えている草の匂いも嫌いじゃない。


 元々風景の写真を撮りたくてカメラの専門学校を出たくらいだから、こう言った小さな自然でもそれを肌で感じられるのがとてもうれしい。


 しかし……良い天気だ。


 最近の俺は、仕事の事などで色々と悩んでいたりしたのだが、この陽気の中で小さな自然を感じながら寝転がっている内に、もう考えるのがばかばかしくなってきた。


 ―――とは言うものの、やっぱり俺の頭の中には仕事の事がいっぱいなのも事実なんだけどね。



「写真で飯が食えるのか!」

 俺が写真の専門学校に行くと宣言したとき、こう言って猛反対したのは親父だった。しかも、家族全員が親父と同じ意見だったのを、忘れる事が出来ない。


 結局俺は家を出て安いアパートを探し、学費も生活費もアルバイトで賄いながら学校に通った。

 あれから俺は、一度も実家に帰っていない。


 もちろん、貧乏である事は言うまでもなかった。けれども、それを一度たりとも後悔した事はない。

 一人暮らしにしても学校での生活にしても、それなりに楽しかった。

 それに、相棒と言うべきカメラを購入したのは、この貧乏生活のどん底の時期で、今でも自分が一番大切な写真を撮る時はこのカメラを使うことに決めている。


 プロが使用するカメラとしては少々……いや、だいぶ安物の部類に入るカメラだったが、俺に取っては貧乏時代を共にした、そう、信頼できる相棒と呼べるカメラはこいつだけだった。

 そして、俺はそのカメラと共に色々な場所に出かけては、その土地の風景を写真に撮りたかった。


 別に人物が嫌だった訳では無いが、春には春の、夏には夏の、秋や冬には、それぞれの顔を見せる季節と言うものを写真を通して知ってもらいたかった。


 だから、どうしても風景画を撮りたかったのだ。


 しかし、それこそ専門学校を出たばかりの無名の新人が、すぐに食べて行ける程甘い世界ではなかったし、今の貧乏生活ではフィルムを買う金もままならなかったので、現場の厳しさを知る事とある程度の人脈を作る為に、今の師にアシスタントとして付いて学ぶ事にした。


 有名な師に付く事も難しい業界で、少なからず力を持っていた今の師に師事出来たのは恵まれていたのかもしれない。

 ただ、俺が師事した人の専門は風景では無く、いわゆるスタジオでの人物撮影を専門にし、どちらかと言えば、広告会社との太いパイプを大事にするタイプの人だった。


 確かに、人物は難しい。


 モデルさんが一瞬だけ見せる最高の表情を引き出すのも、カメラマンの腕一つと言う世界。

 しかし、俺の師事している人は広告代理店とのつき合いを重視し、撮影以外での付き合いが多く、夜のお供としてタクシーでの送り迎えなどは当たり前。それでも自分にプラスになればと思って仕事をこなしてはいたが……その割に、カメラの技術向上に対しては得るものが少なかった様に思う。

 だから―――俺はそんな現状に嫌気が差し、ここ最近休みをもらって風景を撮りに出かけていたのだ。


 そして、本当ならば今日から仕事に復帰する予定だったのだが……


 俺は風景写真を撮りに行って自分自身に失望していた。

 どんなに時間が空いても、俺は俺が最高と思える風景写真を撮れると思っていたのに―――実際はそうじゃ無かった。

 取りあえず生活をするために、取りあえず名前を売るために、取りあえず……そんな風に自分の心をごまかしながら仕事をしていく内に、自分の中にあった情熱が徐々に薄れ、そして、何を撮りたかったのかも忘れてしまった事に、気が付かされたのだ。


 俺は、何をしたかったんだろう―――


 小さな水の流れ、厳しい夏の日差しを和らげてくれる木々と葉、苦労して登った山の途中で見せてくれる花々の装い……そんな自然を感じられる写真。水の冷たさや、葉の擦れ合う音、花々の匂いすら感じられる写真。俺はそんな写真を撮りたくてこの道に入ったのに……


 クンクン……


 そう、こうやってクンクンと匂いを嗅げばそれを感じられる様な写真を……


 クンクン……

 そう、クンクンって?

 耳元で妙に生暖かい鼻息の様なものを感じたと思ったら、次には鼻先に

 ―――ベロン!

 と、妙な生暖かい感覚が走った。


「うわぁ、何だ!」

 俺が飛び起きて隣を見ると、そこには一匹の大きな犬が興味深そうな顔をしてこちらを覗いていた。

 犬種は今流行のラブラドールだろうか?

 嬉しさを一生懸命にしっぽで表現しているところにお茶目さを感じる。


「おい、おまえさんの飼い主はどこにいるんだ?」

 と、馬鹿みたいだなと思いつつも、その犬に向かって問い掛けてみる。

 すると、少し離れた土手の上を

「こら、ラッキー。勝手に先に行っちゃ駄目じゃないの」

 と、小走りに走ってくる女性の姿が見えた。


 それを知ってか知らずか、女性の言葉に我関せずと言った顔をしているこいつは、結構とぼけた犬なのかも知れない―――オレがそんな事を思っていたら、今度は鼻を擦り付けるかのようにしてのしかかってきた。


「どわぁ〜」

 上半身を起こしたばかりの不安定な姿勢だったので、その犬の思わぬ攻撃に耐えられない。思わずその重さに倒れると、ラッキーは今だと言いたげに顔中をなめてきた。


「おわっ、ラッキーやめろって」

 必死に抵抗を試みるのだが、何せ体勢が悪くてうまく防げない。

 しかもラッキーは、俺の抵抗を遊んでいると思ったのかますます激しくじゃれて来る。


「は〜、は〜、す、すいません。こ、こらラッキー、駄目じゃない、は、な、れ、な、さい」

 と、ラッキーを必死に引きはがそうとする女性は、走ってきたからか息を切らしている。そんな女性のかいも虚しく、既にオレの顔はラッキーの愛情表現にぬれぬれになっていた。


「うわ、べたべただ……」

 やっと起き上がる事が出来たオレは、べと付く感触に―――顔に愛情も考え物だななどと思ってしまう。


「す、すいません。ちょっとロープを離した隙に勝手に走り回ってしまって」

 その女性は土手を走って来たからか、顔を上気させながら

「あの、よろしかったらこれ使って下さい」

 と、言ってハンカチを差し出して来た。


 見れば清潔感の漂う真新しいハンカチだったので、一瞬借りるのを躊躇ったが……何とも言えない顔のべたつきを思うと、素直に女性の好意に甘える事にする

「すいません」

 別にこちらが悪いという訳でも無いのだが、何故だが謝ってしまうのは日本人だからか?


 ―――あれ?この香り


 俺は女性から借りたハンカチで顔を拭い始めたのだが、そのハンカチから微かに、少し甘ったるい様な匂いを感じた。

 そうだ、匂い袋の様な匂いだ……


 俺に取って匂い袋の香りとは、淡い思い出の記憶と共に懐かしさを感じられるものであった。



 その昔、俺がまだまだ小さくて、小学生になるかならない頃だったが、京都に住んでいた事があった。そしてその時の知り合いに、芸者さんがいた。

 俺の初恋の人だった―――


「涼君、そないにこの匂い袋が気にいったん?」

 その芸者さんは俺の家の裏にあった置屋にいた人で、俺が遊びに行くと、嫌な顔一つせずに良く相手をしてくれる人だった。


 そしてある時、その芸者さんが持っていた匂い袋を貰った事がある。


「良い匂いや」

 俺は幼いなりにその芸者さんの事が好きで好きでしょうがなく、いつもべったりしていたのだが、ふと芸奴さんから匂ってくる甘ったるい様な匂いの事を聞いた事がある。


 その時

「これなぁ、匂い袋いうて良い匂いしはるんよ」

 と言って、その芸者さんは俺に匂い袋を渡してくれた。


 俺はいっぺんにその匂い袋の匂いが好きになった。

 なぜならば、大好きなその芸者さんを身近に感じられるような気がして、とても良い気分だったからだ。


「そないに気に入ったんなら、涼君にあげるわ」


 その芸者さんにしてみれば数ある匂い袋の一つだったのだろう、俺がいつまでも手に持って匂いをかいでいたら、その匂い袋をくれる事になった。


「ええのん」

「大切にしてな」

「おおきに」


 あの時の俺はとてもうれしくて、周りの同い年の友達から随分とからかわれながらも、しばらくの間ずっと肌身離さず身につけていた記憶がある。


 そう言えば、俺が写真を撮りたいと思ったきっかけはその芸者さんの一言からだったっけ……


「涼君は写真は好き」

「う〜ん」

 その芸者さんは、俺に一枚の写真を見せてくれながら聞いてきた。

 多分、幼い俺にまともな答えを期待したわけではないだろうが、その芸者さんは少し物憂げな顔をしながら話してくれた。


「この場所な、うちがすんどった所なんやけど、今は水の中に沈んでしもうたんよ、ダムを作るんいうてね。だから、あの頃の景色はもうこの写真でしかみれへんの」

「さびしん?」

「そやね、でも、この写真があるからへいきなんよ」

「写真」

「そや、この写真はうちの父ちゃんが撮ったんやけど、あの場所の匂いすら感じられる良い写真なんよ」


 あの時の俺にはあまり良く分からなかったが、漠然と思った事がある。


 それは何ともない一枚の風景写真だったが、それが人にかけがえの無い思い出を残してくれて、そしてその人の大きな支えになるのだと。


 そうだ……どうして忘れてたんだろう。

 俺はその時から、風景写真を撮りたいと思う様になったんだ。


 女性が貸してくれたハンカチからは、その時の匂い袋の香りと同じような香りがしていたので、つい俺が懐かしさを感じてしまったのも仕方が無い事であろう。

 そう、あの時の純粋な気持ちを思い出させてくれる、そんな匂いだったのだから――


「あの」

「あの」

 と、お互いの声が重なった。

 一瞬顔を見合ってからお互いに笑いあってしまった。


 ははっ

 クスクス


「どうぞ」

 本当におかしそうに笑っている彼女に質問の主導権を譲る。

「いいんですか」

 彼女はそう言うと、俺の横に置いてあったアルミケースを見て

「写真をお撮りにになるんですか?」

 と聞いてきた。


 そう言えば、仕事に行くつもりだったからカメラのケースを横に置いたままだった。彼女はドラマか何かでこういう入れ物がカメラマンの物であると知っていたのかもしれない。

 俺はそう思いながら

「ええ、少しばかり真似事を」

 と答える。


 別に謙遜してこんな言い方をした訳ではなかったが、スタジオカメラマンとして既に2年以上の経験があっても、自分の本当に撮りたかった風景写真に関して実に素人であると痛感していただけにこう答えてしまったのかも知れない。


「あら、でも結構本格的にやってるんじゃないんですか?」

 彼女は俺の器材を見て、素人以上の物であると感じたのだろうか?

 確かに、素人が持つ物としては仰々しい感じの物である。

「ええ、本当はプロとして結構有名なんですよ」

 俺はプロとして別に有名でも何でもなかったが、こう言う時は大袈裟に言った方が信じてもらえないと思った。

 まあ本当の所、別にどちらでも構わないのだが。


 しかし彼女は、俺の言った事を本気にしたのか

「へ〜、そうなんですか」

 と言って、俺へ尊敬のまなざしを向けてくる。


「将来の……と言う言葉が、一番最初に付きますけど」

 人の事を素直に信じてしまう人を騙す様な事はしたくない。

 俺は慌てて訂正した。


「え?」

 言葉の意味がすぐには分からなかったのか、一瞬キョトンとした表情は見ていて面白かった。


「いやだから、将来プロとして有名になれたら良いなぁ〜なんてね」

 その言葉で全てが解ったのか、彼女が屈託の無い笑顔を見せながら笑いだす。

「あははっ」


 そんな彼女の表情は、本当に楽しそうで……そして、素敵だ。


 スタジオの中の被写体には見られない、素敵な笑顔を持つ彼女に俺は――

「一枚写真を撮りましょうか?」

 思わず言葉が出た瞬間だった。


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