2-1 何が違うのか。
「反対派、か」
昼間の怒涛のような講義を終え、遅い夕食、そしてやっとお茶の時間。
その時カエンがぼそっとつぶやいた。相変わらずカップと本を両方手にしている。中身はコーヒーだった。
「どう思う?」
問いかけながらアーランの方を向く。両手に抱え込んで持つはコーヒーのおすそ分け。ただし半分以上ミルク。気付いた彼女はやや困った顔になった。
「どうって」
「何故わざわざ反対されなくてはならないんだろうな?」
「だって、少なくとも今までになかったものじゃない? どんなものだって、何にしたって、新しいものって、まず反発が来るもんじゃないかしら?」
「そりゃあ、そんなものはあれこれあるさ。だけど昔、それこそアンドルース教授が向こうへ出かけた頃には、留学制度自体が初めてだったのに、反対派はそう出なかったらしい」
「そうなの?」
アーランはカラシュの方を向く。カラシュはゆるく編んだ髪を揺らせてうなづいた。
「今回のと違って、結構当時は技術面とかにおいて、危機感があったらしいのよね。三十年くらい前かしら? 向こうとの国交を開いたばかりで、力関係にも不安があったって言うし」
「力関係?」
耳慣れない言葉にアーランは首を傾げる。
「向こうに攻め込まれないか、っていう不安よね。帝国は今まで全て『勝って』きた国なのよ。はじめて負けるんじゃないか、って不安にさらされたって訳ね」
「ずっと勝ってきた? だって今まで戦はなかったじゃない」
「違うわよ」
きっぱり言って、カラシュは首を振る。
「歴史の授業なら、そう言うでしょうよ。『内乱を平定し帝国の仲間入りをさせた』とか、『鎮圧して平和が来た』とかね。でも結局は全部同じね。この国はたくさんあった藩国を戦争によって併合していったんだから」
「最後の藩国『桜』はずいぶんひどい戦役らしかったな」
「まあね。そうは言ってもあたし達には所詮歴史なんだけど。……って、こう言っちゃ良くないのかもしれないけれど。とにかく帝国の軍隊は負けたことがなかったのよ。ところが『連合』には負けるかもしれない、と当時皇帝陛下はお考えになられたらしいわ」
「へえ」
アーランは感心する。確かに成績は良かったが、内容自体に疑問を持ったことがなかった彼女には新鮮な見方だった。
「でも『連合』だって馬鹿じゃない。あの大砂漠を越えてまでこちらと戦ったり占領することはまず無いわ」
「どうして」
「費用がかかりすぎるもの」
は、とアーランは目を見開いた。カラシュの言葉の意味が上手く判らない。
「それは判るな。軍が金食い虫だってことは常識だ。それを動かすよりは、外交で何とかした方がいい。こっちとある程度の条約を結んだ方がいいと考えたかもな」
「何はともあれ、国交を持ち出した時、皇帝陛下はそれを望まれなかった。少なくとも帝国では、それを決定するのは皇帝陛下だわ。だから連合にその気がないということは陛下も大臣達も、初めから判っていたというから、それだけは無かったと思うの」
「カラシュは詳しいな」
カエンは顔を上げ、音を立てて本を閉じた。どうやら本よりも現在の話の方が面白いと考えたらしい。カラシュはその言葉にやや頬を染める。
「政治や歴史に滅茶苦茶詳しい人が近くに居たんですもの。あたしが苦手だ苦手だといくら言っても懲りないひとがね。おかげでこの程度には詳しくなってしまったわ」
「ほお」
「そのひとが言ったのよ。どう考えたって兵器の技術に差がありすぎる。向こうさん、どういうモノを持っているかをあっさりとこちら側の代表に見せたらしいわ。当時。皇帝陛下にも、当時の軍務大臣にもそう。全くもって無防備にね。つまりそれは、こっちが今何をしても無駄だ、ってことを見せつけたのよ」
「それで皇帝陛下は技術革新を急がれた?」
「兵器のためだけではないと思うけど。結果的には帝都周辺の都市開発とかも一気に行われた訳だし。問題は、当時確実に、帝国は連合になめられていた、ということなのよ。当時の連合の大統領は言ったらしいわ。『お互いの発展のために友好条約を結んだ方がいいと思いませんか?』」
「脅し」
アーランは反射的にそう口に出していた。
「そ、脅しよ。威嚇よね。とは言え平和的ではあるけれどね。向こうはもともと戦争なんて起こしたくないのよ。さっきも言ったように、無駄の方が多いんだから。だから帝国に下手な真似されても困る。そのための威嚇よね。いい根性」
「で、それを君に話したのは、君の恋人か何かか?」
アーランはそう口に出したカエンの方を見る。珍しくその唇の端には笑いが浮かんでいる。
「そうよ、悪い?」
「別に悪くはないさ。だけど留学の件は反対されなかったのか?」
「それは内緒です」
片眉を上げ、カラシュはにっこりと笑った。
どんな人なのか。アーランはカラシュの恋人という人物に興味を持った。
彼女達程度の歳なら、恋人どころか結婚話が来ていいもおかしくはない。貴族ならなおさらだ。
「恋人ってどういうひと?」
カラシュはその質問が来るとは思っていなかったらしく、一瞬目を瞬かせた。少し弱り顔でうめくと、やや考え込む。
「どう言ったものかしらね」
前置きをすると、実に幸せそうな、夢見るような目になって話し出した。
「とにかく何って言ったらしいいのかしらね。カエンみたいに黒い髪、黒い目なのよ。細いんだけど筋肉質で、えーと、声がいいの。低くって、何っかいつもけだるそうなんだけど」
はあ、とアーランはうなづいた。これは大のろけだ。
カラシュは続ける。
「歳はね、多少上。だけどあたしをそう言った理由で見下すってこともないし。時々、凄ぉくいい根性だなあって思うことはあるし、何かペースに巻き込まれてしまうことも多いんだけど。でも何といっても、あたしの方が確実に一つ弱味があるのよね」
「どんな?」
「先に惚れた方が負けなのよ」
「ほお」
それしか二人はあいづちを打てなかった。
カラシュの言葉は止まらない。真面目な話の時とはうって変わったように、物事の順番がごちゃごちゃになるのも気がついているのか気がついていないのか。
「だって一目惚れって本当にあるなんて、それまで全然知らなかったのよ。最初に会った時にどーしていいのか本当に困ったもの。であたし、自分がどう思っているのか判るんだけど、そう認めるのがすごくしゃくにさわって」
「本当に好きなのねえ」
さすがにアーランもそれしか言い様がなかった。
「本当に好きだもの」
ぬけぬけと、とアーランは呆れる。
だがそののろける様子があまりにも楽しそうなので、文句をつける気にもならない。逆に幸せそうでいいな、となんて、アーランにしては不覚にもそう思ってしまったのである。
アーランはカラシュに対しては当初、偽善者だ、と感じていた。それは彼女の周囲に居た「貴族のお嬢様」達一般に対する感情と同じだった。
それがだんだん、「得体が知れない」に変化していた。何か変なのだ。アーランは調子が完全に狂っていた。
それまで彼女が関わってきた「貴族のお嬢様」は、ことごとく彼女達施設の子供には二種類の感情を向けてきた。軽蔑か憐れみ。
軽蔑の方がましだった。憐れむその裏には、「自分がそうでなくて良かった」という思いが感じられたものだ。安堵感が欲しくてそういった「奉仕」をするのではないか、と。
時々、払い下げの衣料だの、バザーの売上だのを持ってくる少女達は、アーラン達がそんな事考えているなんて知らなかっただろう。
アーラン達施設の子供達は、表向きお礼を言う。世慣れた大人ならともかく、「育ちが良くて純真な」お嬢様方はその「お礼」が本物と信じ込む。
お礼は半分は本当である。
思惑はともかく、モノに罪はない。アーラン達はモノに礼をいい、お嬢様方には礼などしない。そして腹の中で舌を出す。気付いていない少女達に。
「頂いた美しい服」は着られることはない。全て古着屋に売られて金に換えられる。
彼女達はアーラン達の服が全部同じであるのに、そのことには気付かない。寄付金が古ぼけた建物の修理に使われていると信じている。
だが実際には、相変わらず雨漏りがし、すきま風が吹き込んでいる。
そんな現実が自分達の行為と結びつかない。
何が本当に必要なのか、彼女達は知らない。知る気もないのだ、とアーランは彼女達を軽蔑する。
ところが、この二人ときたら。
そこでアーランは混乱するのだ。
カエンには最初から軽蔑も憐れみもなかった。彼女はただアーランの事実を指摘しただけだった。
カラシュはカラシュで、結局は忠告だけで、それ以上の感情は無いのだ。カエンと同じようにお茶を入れ、技術革新の話をし、恋人のことをのろける。
二人とも、アーランに対して、施設の子だどうの、という意識は全くないのだ、とアーランは確信した。
カラシュの話す、技術革新だの外交史の話は面白かった。
今までそんなことを話す女の子をアーランは見たことがなかった。たとえそれが恋人からの受けうりだったとしてもだ。
「そのひとはずいぶん頭のいい奴みたいだな」
「いいわよ、本当に。あたしも、だから、いろんなことであの人を説得するのは本当に凄く大変なんだから」
「説得して、聞いてくれるんだから、その男は実に寛容だ」
カエンは頬杖をつきながら、半ば呆れ、半ば面白がる。カラシュはうなづく。
「でしょうね。確かに世間一般とは違うひとだから」
「カラシュだってそういう意味では充分変わってるわよ」
アーランは肩をすくめる。カラシュはその様子を見るとひらひらと手を振る。
「昔はよく言われたわ」
「昔って言ったって、君、別にワタシ達と大して変わらないだろうに」
カラシュはそれには笑って答えなかった。
「でも本当、カラシュは何か違うわよ。カエンも違うと思うけど」
「あらどうして?」
「んーと…… 何って言えばいいのかな?」
アーランは迷った。
何から切り出せばいいのか判らなかった。何せそういう突っ込んだ話を誰かとしたことはないのだ。
突っ込んだ話をすれば、自分の本心が相手に見えかねない。それは彼女には避けるべきことだったのだ。だがどうやらここでは言いたいような気になり始めていた。
「あたしは施設に居たって言ったでしょ?」
二人はうなづく。
「そこには、男の子も女の子も居るの。一緒に暮らしているわ」
再びうなづく。
「だから本当に子供の頃はいいの。男の子も女の子も、ころころじゃれようが、けんかしようが、それこそ取っ組み合いのけんかしても、どっちも罰をもらったの。だけど十を越えると違うの」
「どう違うの?」
カラシュはやや真面目な顔になる。
「こう言われるの。『何はともかく、男の子にあやまりなさい』」
「ふーん……」
カエンはほんの少し、眉を寄せているようにアーランには見えた。彼女はあまり表情の変化が大きくはない。だが全く変化が無い訳ではない。
「何はともかく、か」
ちっ、と彼女は舌打ちする。
「カエン?」
「気に食わない言葉だな。何はともかく、か。結局それが全てか」
「でもたいていは、気に食うも食わないもないわ。そう言われればそうしなくちゃならないのよ。そこで口答えすればまた罰が加わるだけだわ。そういうもの、で終わらないと、自分が損するのよ」
「アーランもそうなのか?」
「……」
アーランは困った。彼女はカエンが自分に何と言わせたいのか判らなかった。
答えないアーランにカエンのに表情が、やや苛立ちを隠せなくなる。
カップの中のコーヒーを飲み干そうと思うが、既にカップの中は空だった。
仕方なし、カラシュのそばのティーポットに手を出し、コーヒーの香りが残っているカップにそのまま乳茶を入れる。
カラシュはため息をつく。
そのままカエンは乳茶をぐっと飲み干した。そのカップを掲げて言う。
「全く。それじゃまるで同じだ。それこそ上つ方から裾の方まで、全部同じだ。それが当然それが当然、それが当然! そこで止まってしまうんだ。窓を開けようって気がさらさらない。全然空気は動こうとはしないんだ」
「そうね」
カラシュはカエンの前からポットを奪い取り、自分のカップにももう一杯入れた。
「だけどカエンはアーランの立場に立った訳ではないわ。私だって大きなことは言えない。何よりもまず、無事に過ごすことが第一でしょうね、普通は。カエンは兄上が居るから、さほどの責任を家に対して追わずに済んだんでしょうけど、長女だったらどう? もっとお父上が石頭だったらどお?」
「それでも、勉強するのを選んだのはワタシ自身だ」
「だけどそれを黙認したのはお父上ではなくて?」
「それはそうだ。それしかなかったからな。事実だからしゃくだか認めない訳にはいかない。事実が全てだ。道理が立とうと立つまいと、事実起こったことが真理なんだ。だけどワタシは何もしなかった訳じゃない。父上にこうしたい、ととにかく当たってはみた。だがそれすらしない奴が殆どじゃないか」
「そうよ」
きっぱりとカラシュは言った。
「だから私達は何に対しても、口に出して説得することが必要なのよ。誰に対してもね。もちろんそれ以前に気付くことが必要なんだけど」
アーランはそれを聞いて首を横に振る。
「そう簡単に気付ける訳ないわ」
そうよ。アーランは思う。絶対そうだわ。
だってそうだった。
初めは気がつくのよ。男の子に無条件で頭を下げなくちゃならないってことが何処かおかしいってことに。だけどそれを普通と思いこまされてしまうのよ。
施設の少女にも年長年少、力関係、様々な上下関係が存在する。
上の子達は、下の子達が罰を受けるのは可哀そうだから、とか無事に過ごしてほしいから、と寮母の言うことを無条件に聞くように仕向ける。
向こうが悪いことは私がよく知ってるわ。だけどあなたのためなのよ。そういうものなのよ。男がどれだけ何をしても、私達女ってのは、そういうものなのよ。
優しい顔で上の子は言った。中には意地悪な顔で言った子も居た。
親切のつもりだったのかもしれない。
無知な年下の子に対する軽蔑だったのかもしれない。
下の子が下手に反抗的だと嵐が自分に降りかかるのを避けていただけかもしれない。
だが中身はどうあれ、同じことを言っているのだ。
そうアーランは早くから気付いてはいた。
だが気付いたからと言って、それは口に出せることではないのだ。自分の身が可愛ければ。
「でも気付かなくては変わらないのよ。風が起こらない所に風を起こそうとするなら、気付いた人がまず窓を開けなくちゃ。風を入れなきゃ」
ふーん、と感心した表情でカエンはカラシュを見た。
「君は本当に珍しい奴だな。カラシュ。そこまで言うとは。大人しい顔の割には」
「あなたにそう言われる程ではありませんが?」
もう一杯いれましょう、と空になったポットを持ってカラシュは台所へ立った。カエンはその様子と、空になった自分のカップを交互に眺めながらぼそっとつぶやいた。
「つまりは反対派とは、現在の常識を体現した奴でしかない、ということか」
「常識を体現?」
アーランは繰り返す。
「常識が変わらない限り、反対派は必ず居る、ということになる。行動に移すかどうかは別として」
「だったら常識を変えればいい」
アーランは自分の言葉に驚いた。無意識だったのだ。
「アーラン?」
そして、無意識のはずの言葉は止まらなかった。
「住みにくい所に居続けるなんて、嫌だもの。言われたから仕方なく従ってきたわ。でも」
「本当は嫌だった?」
「うん」
「それを聞いて安心した」
くす、と軽くカエンの顔に笑いが浮かぶ。あ、珍しい、とアーランはきょとんとする。そしてどういう意味、と問い返した。
「あのさ、アーラン」
逃げないように、と言わんばかりにカエンはアーランの肩を掴んだ。いきなりのことだったので、心臓が不規則に鳴り出すのを感じる。
「あいにくワタシは、世辞も上手い嘘も下手な嘘も美辞麗句も阿諛追従も敬語もたくさんだ。聞き飽きている。生まれた時から耳にたこができるくらい聞いてきた。本心かどうかなんて簡単に聞き分けがつく」
アーランは絶句した。何と切り返せばいいか困った。頬が赤くなるのが判る。
失態だ。
だがそれはそれほど居心地悪いものではなかった。
とは言え視線のやり場に困る。肩を掴んだカエンは自分を実に真っ直ぐ見据えているのだから。
彼女は本当に困ったように視線をめぐらせ…… ふと一点で止めた。
「どうして窓が開いているの?」
「え?」
それは割と当たり前の光景だった。
部屋の窓が開いている。当たり前だったので、それがおかしいことに気付くまで時間がかかった。
ベランダへ出られる扉にもなっている窓が、ほんの少し開いていた。
そしてそのすき間から何かがころころと転がり込んできた。
「……ボール?」
黒い、小さな球だった。
「どうしたの?」
入れ直したお茶のポットを手に、カラシュは近付く。
は、と彼女が息を呑む気配をアーランは感じた。カラシュの目が小さな侵入者に釘付けになる。
「向こうのドアへ!」
ぽん、と。
間に合わなかった。その瞬間、黒い球は軽い音を立てて白い煙になった。




