1-4 アーランを取り巻いてきた世界を考察する
起床時間の鐘が振られ、三人は寮舎の少女達に混じって朝食を摂る。
その後、三人は小さな講義室に呼ばれた。
たまたま空いている部屋から、ということだ。壁には黒板がはめられ、長卓がが一つだけ真ん中に置かれている。
この学校―― 紅中私塾は、中等学校高等科以上、時には高等専門学校程度の者が在籍している。人数は多く無い。そしてきっかりとした学年が存在しない。自分の能力と興味関心の合う所を選ぶのだ。
中には、本当に専門分野を深く追求しようとする者もいる。彼女達は多人数で受ける講義の他に、この様な小教室で専門の授業を受けることもある。
だが小教室と言っても、三人で座るにはそのテーブルは長すぎた。結果、真ん中に固まってしまう羽目になる。
やがて、扉が開いた。
柔らかそうな巻き毛にえんじのリボンをつけた学長が、今日はかっちりとした紺の上着とスカートで現れた。その背後に一人の年配の男性が居た。
学長は何やら大きな筒状のものを手にしていた。
お早うこざいます、とアーラン達は揃って学長に挨拶した。
何度も言うようだが、学長は若い。
彼女、カン・リュイファ・コンデルハン侯爵夫人は、現在こそこの紅中私塾の学長ということが世間に知れ渡っているが、数年前までは、別の意味で有名だった。
社交界の華と彼女の嫁いだコンデルハン侯爵が、帝国の名家であること。「侯爵」は世襲貴族の中でも二番目の地位。皇族の親戚や、建国の際の重臣の家系の「公爵」に次ぐものである。
だが彼女の噂はそのことよりも別にあった。それは皇后の無二の友人だ、ということである。
現在の皇后は十年前にその位についた。
それまでの長い長い現在の皇帝の治世の間、夫人は幾人も居た。だが皇后になり得た者はいなかった。
何故か。
それは簡単だ。誰一人として男子を産まなかったからである。
この帝国において皇后とは、男子―― 皇太子を産んだ女性のことなのである。
何十年と皇帝は待った。だが来る女来る女無駄だった。身分も民族も美醜も問わず、これと見込んだ者を送り込み、試しに試した。
だがしかし、身ごもることが希である。そして孕んだとしても、無事に出産することが少ない。なおかつ生まれてきても女子である。しかも十人に満たない。
覚悟は周囲にもあった。皇家は男子がたった一人しか生まれない。そしてその男子が皇太子となり、皇帝の全てを引き継ぐのだ。全て。
さすがに皆、あきらめかけていた。
ところが十年前、しばらくの間をおいて嫁いだ少女が、男子を身ごもった。判明した途端、皇后の地位が与えられた。「帝国」女性最高の地位が。
ではその皇后は、何処のどういう人なのか。アーラン達庶民には遠い世界の話であり、正式な名すら知らない。
だが、その旧友コンデルハン侯爵夫人については耳に入ってきていた。「皇后陛下の正確なお名前」より社交界の噂の方が伝播力は強いのだ。妙なものだが。
ところが、その社交界の華が、五年前、急に社交界から教育界に身を転じた。学校を建てたのである。
それがこの紅中私塾だった。
社交界は大騒ぎになった。
縁は無くとも華やかな世界に憧れがある庶民にとっても同様だった。あまり堅くない方の新聞がずいぶん騒ぎ立てていた。
だが教育界で尽力している現在でも、たいていの女性は色あせて見えるのではなかろうか。一歩身が退けてしまう程に。
尤もあたしの両隣に居る人達は違うようね。
アーランはちらと横を見ながら内心つぶやく。どうも調子が狂いかけている。
この時、彼女達はくじで座る場所を決めていた。提案したのはカエンだった。実に無造作に、当たり前のように、くじで決めよう、と言った。アーランは驚いた。
結果、アーランが真ん中、出口に近い右にカエン、窓側の左にカラシュが座っていた。
これでいいんだろうか、とアーランは思った。貴族のお嬢さん二人にはさまれているのに、違和感が全く無く。
変だと思う。もの凄く変だと思う。
そもそもアーランは基本的には貴族は嫌いなのだ。
カエンの家は言わずと知れた名家だし、カラシュも彼女の話によれば、学長の縁に連なっているという。ならば貴族なのだろう。
第八中等にいた頃、アーランは貴族の少女達の横に座ると、妙に居心地が悪かった。ところが今自分をはさむこの二人にはそんなことはない。
もの凄く変だった。
何か違う。この二人は。
考える。何が違うのか。
彼女達は全然派手でも滅茶苦茶な美人でもない。だが妙な存在感がある。あの滅多にいない華々しい学長と何処か似通った。
タイプは違う。カエンのそれは、あの真っ黒なコーヒーの苦さにも似ている。カラシュは。コーヒーと比べれば乳茶なんだろうか? だけど何か違う。今までに会って来た誰とも何とも。
でも所詮貴族よ!
アーランの中で小さく叫ぶ声がある。力一杯苦々しい表情を浮かべ、頭を振る自分が映る。
「お早うございます。さて全員揃った所で、今回の連合への留学の詳しい説明を致します」
学長は黒板の前に立ち、筒の中から一枚の紙を取り出した。
大陸の地図だった。さっとそれを広げ、あざやかな手付きで黒板に貼っていった。
地図は、大きく三色に塗り分けられていた。
真ん中の砂漠地帯が何故か淡い緑で塗られている。その右側に「帝国」が赤、左側に「連合」がやはり黄色で塗られていた。
「これから皆さんに行って、勉強をしてもらう『連合』はこの大陸の西半分を占める大きな国です」
知ってる。アーランはうなづく。そのくらいは、中等学校の初等科の地理で習うことだ。
だが義務教育の小学校では教えられないことだ。
「留学が決まった方は、ここに十年間居てもらうことになります」
「十年!」
カエンが思わず声をあげた。
「ええそう。十年です。長いと思いますか? マイヤ・カエンラグジュ?」
「……判りません」
「何故?」
「何しろ、ワタシ達には考えなくてはならないことに対する情報がまるで足りません。どの程度の学問を修めてくることが必要なのか、それに必要な時間は一般的にはどのくらい必要なのか」
「そうですね」
学長はカエンの解答に満足そうにうなづく。アーランは驚いた。このひとはそんなことまで考えているのか。
確かにそうだった。
カエンがそう思うくらいだったら、自分はどうなんだろう。したいことがはっきり決まってる彼女がそう思うんなら、まだそれすらも見えていない自分は。
「ですので、その件についてアンドルース教授から御講義をいただきましょう。教授、お願いします」
学長はそう言うと、黒板のわきに学生用の椅子を置き、黒板が見える程度の位置にかけた。
アンドルース教授は真っ白な髪と長い髭が目立つ、小柄でやや猫背な老人だった。大柄で姿勢も良い学長とは好対比だった。
「それではお話致しましょうか。さて貴女方は、学問に対する希求の念に溢れてこの募集に応じたことだと思います」
別にそういう訳ではないのだけど。
アーランにとって、「留学」は何よりもまず、あの施設から出て独立するための手段だった。
施設には長いこと居て、世間一般では「辛い」と言われていることも、当たり前になっている。だがその中でアーランは、まだましな待遇を受けていた。
それはつまり、アーランの頭が少なくとも周りよりはよく回ったことが原因だった。
比べてはいけない、と言うかもしれない。誰もがそれぞれに良いところがあるから、そんな勉強のことだけにその言葉を使うなど、と。
だけどその言葉にすがりつくしかない奴だって居るのよ。
アーランは時々したり顔でたしなめる者に会うたび、そう考える。
もともとは、そうではなかった。
施設では、様々な役が与えられてきた。
その殆どが家事に近い。建物の掃除、買い物の当番、施設の人々の衣類の洗濯、衣類管理、小さい子供の世話、付属農園や家畜の管理…… 様々だ。
ところがアーランときたら、それらのことには本当に不器用だった。
悲しいくらい不器用だった。
一生懸命やっても、どれだけ努力しても、不器用だった。
特に衣類の縫い物は悲しかった。自分の仕事がまるで終わらない。夕食時間の間に合わず、自分の分を食べられてしまったこともたびたびあった。
もちろんそこで文句は言えない。言わない。何たって彼女は「自分の義務を怠っている」らしいので。
別にアーランは怠っている訳ではなかった。ただひたすら不器用なのだ。
まっすぐ、細かく縫うべきところを、上手く手が動かせずに大きな針目になってしまって、やり直しを指摘されるのだ。
繰り返すたびに、はじめはしゃんとしていた布地がくたくたになって、余計に縫いにくくなっていく。
多少針目が大きくたって着ている側に大して違いはないじゃないの。
次第に大きくなる思い。苛立ち。
腹の中でそう反駁するたびに、手は余計不器用になっていくような気がした。
夕食を食べられてしまったことを報告すると、たいていの寮母は言った。「言われたことが時間内にできない子が悪いのですよ」
アーランは泣きたくなった。だが泣かなかった。そしてより努力はした。だがそしてそれは空回りする。唇を噛みしめても壁を殴りつけても事態は変わらなかった。
たまにはそれでも自分の食事を確保してくれる親切な寮母もいた。だが一部に過ぎなかった。大半は自分の味方ではないような気がしていた。
あきらめそうになっていた。自分は所詮そういうものだからと。
ところが。その状況が変わった。小学校の高等科の時だった。
担任の教師がアーランの成績と、頭の回転の良さを誉めだした。義務でもない中等学校への進学をすすめた。
実際、アーランの成績は市内の小学校の同年代の子全体と比べても飛び抜けて良かった。本当に基礎の基礎であった初等科とは違い、応用や暗記が入ってくる高等科の授業はアーランに味方した。
そして施設の園長や寮母の対応が変わった。
飛び抜けた子が出れば、その施設全体のイメージが上がる。国からの援助も多くなる。そう踏んだのだろう。
アーランは中等学校初等科へ進学した。学都へ行くことを許されたのである。新設の、第八中等学校だった。
そこでも彼女はいつも首席だった。
女子中等だから、家政科というものもあったが、お針子であることを求められる施設の劣等生も、このお嬢さん達が集まる学校では中の上程度になる。それは悪くない感覚だった。
だがたった一つの条件が、全ての優越感を破壊する。入学の際に条件を出された。施設の制服を着用しろ、と園長は言ったのだ。
第八中等というところは、まだ開設されたばかりで、制服すらも決まっていなかった。少女達は思い思いの恰好をしていた。
そんなところへわざわざ新しい「私服」を与えることなど出来なかったのだろう。
まあそれは当然だったろう。アーランも思う。
仕方ない。何せ行かせてもらえるだけでも他の子供に比べ、破格の待遇なのだ。それはよく判っている。思惑はともかく、事実には感謝することもできる。
だが明らかにその制服は差別の対象となったのだ。多かれ少なかれ。
ちなみにアーランがオゼルンの父姓をもらったのはこの入学の時だった。
小学校のうちは、父姓なしで通した。その意味が判るような子供はそういなかったせいもある。
だが中等学校となるとそうもいかない。普通のそういう境遇の子は、同じ位の歳で、独立して施設を出る際に父姓を与えられる。
オゼルンというのは、酒で身を持ち崩してのたれ死にした男の姓だ、とアーランは聞いた。そのことをわざわざ告げて下すった方々へはアーランは今でも非常に、とてもとても大層に「感謝」している。
何はともあれ父姓がついていること自体には感謝しているのだ。
だがその出所をわざわざ告げることはないとは思うのだ。「そうならないように」つけているのか、「せいぜいお前はそんなものだよ」と言われているのか。いずれにせよ、ろくな想像が湧かない。
まあそんなことはどうでもいい。アーランは想像を侮蔑とともに奥へ押し込んで「ありがとうございます」と完璧な礼をした。
中等学校の間中六年間、その制服で通った。他の服はなかった。
貴族の娘はもちろん、辺境地の「留学生」までがその意味を知っていた。
何気ない顔をしながら言葉の端々に込められたものにアーランは引っかかったが、いちいち傷つく程に柔な神経はしていなかった。
何しろどんな恰好をしていようと、自分は首席なのだ。それはアーランにとって全ての誇りだった。
それだけは、生まれも育ちも性格も外見も関係ないのだ。どれだけ父親が偉い貴族さまさま、高官であろうが、この一点においては、自分に勝てる者はいないのだ。
気分が良かった。
もちろんそういう態度は自ずと行動に表れてくる。
結果として、彼女には学校の六年間、友人と名がつく者は全く無かった。
人当たりはそれなりに良かっし、孤児の優等生ということで、夏休みなどに「ご招待」されることは多かったが、親密な関係まで近付こうとする者はしなかった。
そもそもアーラン自身、友人を持とうという気がなかった。
彼女は学問が好きだった。そのために学校へ行ったのだ。学問の内容ではない。学問というものがこの小さな社会で持つ価値が好きだった。
怖かったのは、その学問をする環境にピリオドを打つことだった。
だからアーランは持ち込まれた「留学」話に飛びついた。
何でも、官立の女子中等の首席全員に話はあったらしい。だが結局ここには三人しかいない。
アーランにとっての「留学」はそんなものだった。別に学問への何とやらというこ難しい理想ではないのだ。
アンドルース教授は、ちょっと騒がしい教室だったら聞き取れないくらいの声で話す。そういう声だからこそ、彼女達は必死に耳を傾けなくてはならない。
「貴女方は、これから行こうと目指している『連合』のことをどれだけ御存知ですかな?」
アーランは首をかしげる。おや、と教授はその態度を見てアーランを指す。
「君はどの程度知っていますか?」
「学校で習う程度には」
あいまいに答える。
「そうですね」
にっこりと教授は微笑む。次にカエンを指して、君はどうか、と再び訊ねる。カエンはさらりと答える。
「ほとんど知りません」
ほお、と教授は長いひげを撫でる。
「しかし貴女は学校では学んでは来なかったのかね?」
カエンは首を横に振る。
「学校で学んだことは、所詮かけらに過ぎません。あれは紙の上に書かれた別の国のようなものであって、本当の『連合』とはやや違うんではないでしょうか?」
「そうとも言えるし、そうとも言えない」
教授は伸縮指示棒で地図の赤の部分を指す。
「帝国は広いですね」
そして次に黄色の部分を指す。
「だが連合も広い。この西の国は、我々の帝国とほぼ同じくらいの広さを持つ。貴女方はこの帝国に住んでいながら、おそらくは自分の暮らしてきた地域くらいしか知らないでしょう。他の地域については、殆ど知らないに等しい」
確かにそうだ。生まれた町、育った町程度にしか、本当に「知ってる」所なんてない。アーランはうなづく。
「そういう意味では、確かに、連合については、我々は殆ど知らない、と言っていい訳なのです」
アーランはちらり、とカエンを横目で見る。真剣に教授の話を聞いている。
この人は真面目だ、と改めてアーランは思った。そして黒と判断していた瞳が実は濃い緑であったことに気付く。真っ直ぐ黒板の地図に向けられたそれは。
「我々は彼の国について結局殆ど知りません。知らないからこそ興味に値するのです」
カエンは何度も大きくうなづく。
「それはどんな学問にも共通します。いえ、全てのものごとに共通するのです。学問をする人間は等しく『知らない』ものごとを追求し、『知る』までそれを続けるのです」
「では私達はその取りかかりを見つけに行くと言うのですね?」
高くも低くもない声が右隣から聞こえた。カラシュが口をはさんでいた。教授はうなづく。
「そうです。何しろ、この国にはそもそも女子のための取りかかりが全くないのです」
「連合にはあるのですか?」
ようやくアーランにもできる質問が見つかった。どうやらこの教授は口をはさまれるのが好きらしい。
「そうですね。まあ貴女方の一人は、既にその取りかかりは見つけているようですが。ですが、向こうにはもっとたくさんの取りかかりがあります。その中から選ぶということもまた大切なことです」
「例えばどういうものがありますか?」
「貴女はコズルカ・アーランでしたね?」
「はい」
「それではアーラン、貴女の周りにはどんな職業の人が今までいましたか?」
「学校の先生、施設の先生、寮母さん達に……」
「それでは、例えば貴女が施設の先生になりたいと思ったとします」
「なれません」
アーランは即座に答える。
「どうしてですか?」
「施設では、先生は男の人だけです。女は寮母にしかなれません」
「どうしてそう思いますか?」
アーランは口ごもった。アンドルース教授は続けて問う。貴女はどうしてそう思いますか?
「見たことがありません」
「見たことないものは可能性が無いと言いますか?」
「いいえ、言われたのです。施設の園長先生に将来を聞かれました。私は学校の成績が良かったからので。その時言われました。『お前は女だから無理だよ』と。どうしてそうなのか、とあたしは訊ねました。そうしたら、『法律でそうなっているんだ』と」
「ふむ。まあ半分は当たっていますね」
半分? アーランは目を大きく広げた。全部ではない、ということか?
「さて、アーランの言ったこともまあ本当です。何故なら、そういう職に就くための資格を取ることが、現行の法律では出来ません」
「何故ですか?」
「それはおいおい貴女方が調べていくことです」
さらりと教授はカエンの問いを受け流した。
「だけどその法律にも多少の抜け道はあります」
「抜け道」
アーランとカエンの言葉がユニゾンになった。
思わずアーランは彼女の方を見てしまったが、彼女はそんなことにも気付かないように、食い入るように教授を見ている。
抜け道! こんな教授からそういう言葉が出るなんて!
何となくアーランは嬉しくなっていた。
「帝国では連合の有識者を度々招いて、学都で教鞭を取ってもらっています。その中には時々女性の専門家もいるのは知っていますね、カエンラグジュ?」
「はい」
カエンはうなづく。
「去年一年、究理学を教わりました」
「そうですね。残念ながら、わが国は究理学関係においては、格段に向こうに立ち後れています。現在の偉大なる六代の陛下は、そのことに気付かれるや否や、すぐに留学生を向こうに送り込まれた。まだ大陸横断列車が今のように速くは走れなかった頃ですよ。何しろその列車にしろ、向こうの技術でなかったら作れはしなかったでしょう。当代の陛下は、その素晴らしい見地をもって、多くの留学生を送り出され、その成果が現在、次第に実をつけつつあるのです…」
なるほどね。
アーランはうなづく。
この教授はどうやら現在の皇帝を、その点において非常に尊敬しているらしい。
アーランにしてみたら、「皇帝陛下」というのは全くもって雲の上のお方で、はっきり言えば、実在しているのかすらよく判らない。
確かにそういう人が居る、というのは彼女達も小さい頃から聞かされてる。学校でも習う。位にあるうちは不老長寿の、神のような方だとかどうとか。
だけどそこまで強調されてしまうと、ついつい彼女は存在を疑ってしまうのだ。
姿だって見たことがない。絵姿の皇帝は、何年たっても変わらない姿である。それも出てきたのは最近らしい。現在の皇后が位についてからのことである。それまでは絵姿すら一般には出回らなかってなかった。
皇后については、今ですら絵姿は無い。
そういうものだ、と言われればそうかもしれない。だがアーランの中では、何となく胸の奥でわだかまるものがある。
あれ?
ふと横のカラシュを見ると、何か変だ。口に手を当てて、頬がぴくぴくしている。
笑いをこらえている顔だ。そんなに笑いたくなるようなことがあるのか?
それは一瞬のことで、すぐにまたカラシュは穏やかな表情に戻ったが。
「究理学の講師の方は如何でしたか? カエンラグジュ」
「素晴らしい方でした。知識も、教え方も」
「そうでしたか。さて、アーラン、そういう方も居る訳です。女性だから高等学問を全く教授できないという訳ではないですね。問題は資格です。向こうの資格を持っていればこちらでも教授できる訳ですよ」
あ、とアーランは声を立てた。
「つまり、こちらでなることができない職業でも、向こうで何らかの資格を留学して手に入れれば」
「そう、可能です。それが法の抜け道です。そうしてはいけない、とは帝国法大全の何処にも載っていません」
まあそうだろうな。
彼女は思う。成立が「連合」と出会う前のものでは。
「ですが、その『抜け道』を塞ごうとする者もあるのです」
「反対派、ということですか?」
カエンは訊ねる。教授はうなづく。
「女性がそのように男性が全て仕切っていた職業につくことは、現在の社会を転覆させようといる思想だ、と考える者も居る訳です」
「そんな物騒な」
「主張する者が物騒なら、どんな思想にしても物騒になってしまうものです」
教授はやや人の悪い笑みを浮かべる。
「まあしかし、今回の留学については、偉大なる皇帝陛下の許可が下りている訳ですから、その点は安心してよろしい。ただ、その位、初めてのものには神経を尖らす者が居る、ということは貴女方も考えていてよいでしょう」
では本題に入りましょう、とアンドルース教授は言った。
「確かに我々は連合について無知ではありますが、無知なりに知っておかなくてはならないことは山ほどあります。ノートは取らなくともよろしい。頭に刻み込みなさい」
アーラン達は三時間ぶっ通しで「連合」についての地理・歴史のおさらいをさせられた。
三人が三人とも、公平に質問の雨を浴びせられ、頭はひっきりなしに回転し、ノートはともかく、メモを取る手はどんどん下手になっていった。
その間も学長はその場から離れなかった。
ふっと気を抜いた瞬間に見た彼女の姿がどれだけアーランにとってうるおいだったか!
教授は退出する際に言った。
「知っていれば、恥をかかないですむ、ということもあるのですよ、私のようにね」
にやりと笑って出て言った彼は。どうやら留学経験者だったらしい、とアーランは気付いた。




