3-1 問題はそこなのか
沈黙を破ったのは、三人のうちの誰でもなかった。
アーランははっとして振り向いた。カエンが立ち上がった。扉の一つが開いたのだ。
「おや、眠ってたんじゃなかったのですか?」
奇妙に響く男の声がした。扉の前には小柄な男がにやにやと笑いを浮かべて立っていた。
カエンが言ってた見張りの一人だ、とアーランは思った。
撫で付けた髪は、既に薄くなりかかっているのを必死で隠しているようにも見える。結構多めに整髪剤を使っているのか、背後の室内灯の光が髪に当たっててらてらと光っていた。
その後に一人、二人…… 五人の男達がついていた。総勢六人。
「もしもし?」
先頭の男が三番目に向かってあごをしゃくる。
「そんなことありませんよお兄貴、だってありゃ専用の覚まし薬使わなきゃ、そう簡単には覚めねぇ奴ですぜ」
「やぁ、またとんでもないモノを掴まされましたねえ? この無能」
先頭の男は、貼り付けた様な笑いのまま、のっそりと三番目の男を引きずり出す。横っ面を張り飛ばす。
男は小柄だった。だが自分よりやや大きめの男を扉の外の壁に叩きつけるには充分な力を持っていた様だ。
慌てて四番目と五番目が駆け寄る。壁に叩き付けられた三番目は、打ち所が悪いのか、その場にへたりこんでいた。
アーランは息を呑んだ。
子供同士のけんかならいくらでも見たことがあるが、大の男が力一杯殴り付ける/られるところなど見たことがない。
「……ひどい」
しっ、とアーランは誰かが手で自分の口を塞ぐのを感じた。カラシュだった。平然として首を横に振っている。何事。
「まあよろしいでしょうね。お嬢さん方、起きたなら起きたでよろしいですが、ちょっとお付き合い願えませんか」
「何処へ」
即、問い返したのはカエンだった。
アーランは口を塞がれていて声が出せない。その上この男の喋り方に虫酸が走っていた。
実に言葉使いは丁寧だが、その中に全く誠意が感じられない。ここまで徹底していたはさすがに彼女にも始めてだった。
「お嬢さん方、別にねえあなた方のお身体に危害を加えようとかそういうのではございませんがねえ、ここに長い間閉じこめておく訳にはいかない、とおっしゃられる方がいるんですよねえ」
「嫌だ」
またもカエンが即答した。
「そうですよねえ。そりゃあそうですよねえ。我々はあなた方を実に御無礼極まり無い方法で拉致させて頂いたんですからねえ。ええ当然ですねえ」
語尾を伸ばす時に、「ア」と「エ」の中間のような濁った音を付ける。
「そうはおっしゃられてもねえ、そう勝手にされるとですねえ、我々も非常に困る訳なんですよねえ。できるだけ静かに言うこと聞いてくださいませんかねえ」
今度は「エ」と「イ」の中間の音のようにも聞こえる。ひどく耳障りだ、とアーランは思う。
「嫌だ」
カエンは同じ答を繰り返す。
「困りましたねえ。我々とてよおく判ってはいるのですよねえ。あなた方が晴れて『連合』への留学生として選ばれている方々でございましてねえ、もう出発の期日が決まっていることもですねえ、その期日までにみっちりと、本当にみっちりとお勉強なさらなくてはならないこともよおく判っているんですよねえ?でもそれはそれですよねえ。そんな事情は我々には関係ないですからねえ。我々は非常にあなた方にそうされると困るんですよ」
むむむ、とアーランはカラシュの手の中でもがいた。
カエンの大柄な身体と、幾つか積み上げた椅子のおかげでアーランとカラシュの姿は彼らの目には映りにくくなっていた。
カラシュは再び首を横に振る。
自分達の対応を全く何とも感じてない男に、カエンは再び言葉を投げる。
「そもそもあんたは誰なんだ。正体も言わずに閉じこめるなんて公正じゃない」
「そうですよねえ、公正じゃないですねえ。難しい言葉もよおく知ってらっしゃる。さすがに女の方で留学なんてする方は違いますねえ」
笑いを決して崩さずに、男は一歩、カエンの方へ近付いた。
カエンは慌てて一歩、しりぞく。
瞬間、彼女でも背筋が一気に凍るような嫌悪感を目の前の見知らぬ男に感じた様だ。
カエン、とアーランは叫びたかった。アーランも感じていた。近付かないでよカエンに! 触らないでよその手で!
鼻に、おそらくはその男のらしい香水か整髪料の臭いが入り込んでくる。緊張のせいもあって、アーランは胸がむかついてくるのを感じた。
「とっても御説明差し上げたいんですがねえ…… そんなことすると我々が非常に悪い立場に陥るんですよねえ。そんなこと私だって彼らの上司という立場からしてしたくはございませんしねえ、あなた方だって良心が痛みませんかねえ?」
喋るんじゃねえ、とアーランは叫びたくなっていた。
施設では時々けんかの際に飛び出していた啖呵が飛び出しそうになる。
本当に、生理的に胸がむかついてきていた。
誰の良心が痛むってんだ! そうやっててめえは私達に責任転嫁させようっていうのか!
アーランは、知っていた。
これ程にでないにせよ、こんなに馬鹿丁寧に、そして下手に下手に出て喋る奴は、結局そんな飾り言葉に全く意味なんて持たせていないことを。
彼らにとって、敬語とは相手への敬意から出てくるものではなく、自分の意志を押し通すための手段である。本心からの敬意なんて、一欠片も存在しないことを。
もちろん自分も、かつてそうしてきた。そうしなかったら、世の中を渡ってこれなかった。
だがそうしてきたからこそ判る。
余計に嫌だったのだ。人の振り見て我が身振り返る。
すげえ嫌だ。何て卑屈!何て汚らしい言葉!
次の瞬間、アーランは思いきりカラシュの腕を解いていた。
止める間もなかった。自分をそれまで隠してくれていた椅子の上に身体を乗り出すと、出る限りの声でアーランは叫んだ。
「その汚らしい発音で、喋るな!」
男は、ぴくりとも表情を変えなかった。
「カエンにカラシュに、……私の友人に向かって喋るな!」
叫び――― そしてアーランは、驚いた。心底。
「アーラン?」
驚いたのは呼ばれたカエンも同じだった。
アーランは怒りなのか緊張なのか判らないが、ふるふると震えていた。
それを見たカエンは意外な程大きく見開いていた。
「カエン、そんな奴に何も聞いちゃ駄目! 言うだけ無駄よ! 何も答える気なんて、全く、さらっさらっ、ないんだから!」
「言ってくれますねえ」
「近寄らないで!」
一歩一歩、男は近付いてくる。アーランは身震いがした。
男は手の空いている他の二人の方を見る。へい、とやや若い二人は中に入ってこようとする。
「寄らないでえええええーっ!」
アーランは思わず椅子の一つを持ち上げていた。
は? と声を上げて驚いたのはカエンの方だった。
殆ど泣きそうな顔で、そのままアーランは思いっきり、前に投げた。
「あ、アーラン!」
「近寄らないでーっ!」
悲鳴のような声を上げて、手当たり次第にアーランは物を投げつけた。
椅子だけでない。近くにあった小さな空き瓶、大きな空き瓶、木の空き箱、引き出しまで引き出して投げつける。
中に入っていたものが投げた拍子に飛び散る。何に使ったのか、使い古しの紙や、木炭のかけら。
男の頭には、木炭のかけらがばらばらと降りかかる。払う拍子に頭のセットが崩れたらしい。それまで決して崩されなかった、張り付いた笑顔がやや崩れかかっていた。
「ああ、あんたハゲだったのか」
カエンは普段の調子で、ずばりと言い切った。やばい、と二人のやや若い男達が口に手をやる。
カラシュはそれを見逃さなかった。次の投げ物を用意するアーランを羽交い締めにする。
「アーラン止して!」
「どーしてよおっ! カラシュあんな奴の言うこと聞くつもり?!そ んなのやあよ!」
「そうですよねえ。それが非常に賢いことなんですよねえ? あなたはよく判ってらっしゃりますねえ?」
そして男はつかつかとカエンの前まで歩み寄った。
比べ見ると、男は本当に小さい。嫌悪感と背筋に走る寒気は変わらなかったが、カエンは見事にそれを顔に出すことはしなかった。
「私がハゲ、ですって?」
「そう」
あっさりとカエンは言った。
「もういっぺん言ってごらんなさい?」
「ハゲ」
「もういっぺん?」
次第に男の聞き方には熱がこもってくる。
食虫植物から出るねばねばした液のようだ、と施設で温室当番もしたことがあるアーランは思う。
「何度言おうがハゲはハゲだ。これだけはっきり言って聞こえないのか。あんたの耳は飾り物か?」
若い男達はさらに後ずさる。
「……私をとうとう怒らせましたねえ?」
「その安物の香水臭い頭を近づけるんじゃない」
カエンは男の脅し文句など馬耳東風、とばかりに臭いを避けるかのようにひらひらと手を振る。
「貴族のお嬢さんはいい気なもんですねえ? 香水臭い! 臭い! デリケエトですねえ。そんなことで寄るなとおっしゃるんですかねえ? 知らないんですねえ?」
「貧しいから風呂へ入れない、それで臭いのは仕方ないだろう。だがあんたは風呂へ入ってわざわざべたべたとつけてそれなのか、ということだが」
「この連合のフラジェンカ産の高級品を!」
「ああそれなら適当な言葉があるな。進呈しよう」
何だ、と言いたげに男はカエンを見る。
アーランはひどく危険を感じて声を上げそうになる。が、それは再び塞がれた。それも、今度は手ではなく、抱きしめる腕と、唇で。
「な」
何か、飲まされた。一瞬喉を熱い液体が走ったのに気付く。
「ちょっと、じっとしててね」
がくん、と力が抜ける。目も耳も意識もはっきりしている。だが身体が動かない。
カエンは続ける。
「豚に真珠って言うんだよ」
「!」
ふるふる、と男の身体は震えている。アーランには判る。
無論カラシュも気付いているだろう。
だが彼女は何も感じていないかのようだった。むしろ別のことに気をとられてるかの様だった。
くたくたと、立っていられない程力が抜けている自分を支えている彼女の身体から、そんな様子が伝わってくる。
……と。
こつん、と微かに音がした。
カラシュはアーランをそっと残っていた椅子の上に下ろし、今にもカエンにに殴り掛かりそうな男に向かって声を張り上げた。
「いい加減にしなさいな!」
「そうですよ、いい加減にした方が身のためですよねえ」
「カエンじゃないわ、あなたによ」
何、と彼はそれまではっきりと見ていなかったもう一人の姿を見た。
男の目の片方が、飛び出しそうな勢いでぎょろりと開く。
「何を……」
男が問うより早く、カラシュは上着のボタンを一つ引きちぎる。それを、天窓に向かって思いきり放り投げた。
「そんなもので!」
カラシュは聞いていなかった。投げるが早く、彼女は椅子の上で動けないアーランに覆いかぶさった。
アーランは真っ暗な視界の中で、ガラスが勢い良く割れる音がしたと思った。