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YDブレーンとクソ達磨

作者: 氷見山流々

 YDブレーン博士は早朝から不機嫌だった。突然、研究所の窓が割れる音が響き、叩き起こされたからである。

 だがそれだけではない。様子を見に行ってみると、そこには大量のガラス片と、茶色く、丸ぼったい物体が転がっていた。その物体から放たれる異臭と、周辺に飛び散る茶色の飛沫がYDブレーンの機嫌を最底辺に落とした。

 助手のスカーティッシュ・ビーブーが遅れてやってくると、YDブレーンの怒りは彼に向けられた。普段から汚い口調を惜しまないYDブレーンは、止めどなく溢れる罵詈雑言を喚き散らし、その怒りを鎮めようとした。

 ビーブーはYDブレーンのいつもの鳴き声を聞き流し、さりげなく状況を把握しようと努めた。そして、ビーブーも茶色い物体を発見すると、顔をしかめて訝しんだ。

 YDブレーンは血圧が低下してくると、一応の探究心が働き、飛来した物体への興味が湧いてきた。

 近付いてよく観察してみると、その物体の構成物質が簡単に判明した。それは糞で出来ていた。

 糞であることの次に判明したのは、その物体は達磨の形を模していることだった。すなわち、糞で出来た達磨である。

 その糞で出来た達磨、糞達磨は形を崩すことなく、ガラス窓を破って来たのだと推測された。尋常じゃない密度の糞だということだ。

 YDブレーンは近場にあったピンセットを使い、その糞達磨を解剖しようと試みた。糞達磨の腹にピンセットを刺してみた。だが、糞達磨の腹はゾウの皮膚かのごとく、表面が硬く、ピンセットによる割腹を拒んだ。仕方なく表面を削るようにピンセットでなぞると、細く長い植物性の物質がポロポロと落ちてきた。この糞は草食動物の排泄物であることが判明した。すなわち、草食動物の糞が達磨の形になっているということである。

 ビーブーに窓とガラス片の後始末を押し付け、YDブレーンは糞達磨の全容を捉えるべく、実験をしてみることにした。

 まず最初に、強度の実験をしてみた。窓を破っても無事なのだから、とても糞で出来ているとは思えない糞達磨なのだが、その糞達磨がどれほどの硬さを誇るのかを調べたかった。それと、YDブレーンの研究所に何食わぬ顔で侵入してきたこの糞達磨に制裁を与えたい気持ちもあった。

 小手調べにトンカチで糞達磨の脳天を叩き割ろうとした。YDブレーンの貧弱な腕力から繰り出される鉄槌は、糞達磨に糞とは思えない衝撃音を出させただけで何の変化も与えなかった。

 前後左右にふらりと揺れる糞達磨はYDブレーンが挑発と取ってみてもおかしくない挙動だった。YDブレーンは怒りがぶり返し、躊躇いなく糞達磨を掴み、床に叩きつけた。

 すると糞達磨は硬度の高さと相反し、ゴム毬のように跳ねて、YDブレーンの顔面に直撃した。痛覚と嗅覚に甚大な被害を被ったYDブレーンは半泣きになりながら、タオルで糞達磨の残した糞痕を拭った。それだけ糞達磨に良いように扱われているのに、YDブレーンの悪態は衰えなかった。

 後始末を終えたビーブーはYDブレーンの悲惨な状況に、笑いを堪えていたが、跳ねて行方を眩ました糞達磨を探すという題目の下、YDブレーンへの嘲りは隠蔽できた。

 そうして、ビーブーがYDブレーンの元に再び糞達磨を置いてやると、YDブレーンは糞達磨への知的好奇心を放棄し、破壊にのみ注力した。研究所備え付けの、プレス機に糞達磨を粗雑にぶち込み、起動スイッチを必要以上に強く押した。

 およそ1トンの力が糞達磨を圧縮し、YDブレーンの手によって見られなかった糞達磨の変性をプレス機は容易く現してくれた。

 糞達磨はもはや達磨としての原型は留めず、まっ平らな糞、糞のクレープ生地に様変わりした。YDブレーンは高らかに笑い、その無様な糞を嘲った。

 プレス機から取り出された糞生地をYDブレーンとビーブーはまじまじと観察した。やはり、一見しても潰れた糞でしかないそれなのだが、糞としての役割を超えた災厄を研究所にもたらしたという事実はその糞の神秘性を助長させていた。

 YDブレーンはそんな感性を認めず、この汚物を捨てるようにビーブーに命じて、妨げられた睡眠を再び取り戻しに寝室に戻っていった。一方で、ビーブーは本人の若さに基づいた貪欲な好奇心が勝り、YDブレーンの指示を後回しにして、糞生地の解析に乗り出そうとしていた。

 まず取り掛かったのは、この糞生地を元の達磨の形に戻すことだった。とはいえ、原型を微塵も感じさせないただの糞と化したそれを、至高の芸術品に戻す手立てなど憶測でしか試みることはできない。だが、それを後押しするのもまた、ビーブーの若さである。手始めに、沸騰した湯をかけてみることにした。

 ビーブーの無謀な実験は1つ目にして成果を得た。湯気と臭気を燻らせ、平面の糞はみるみるうちに立体に復元されていった。

 次第に元の達磨の形を取り戻し、とうとう初対面した時の顔が現れた。ビーブーは自らの実験が成功したことを喜んだ。そして、まだ解明されていない数多の秘密を暴かんと、糞達磨に触れた。

 ビーブーの指は糞達磨にとっては些細な干渉でしかないと思えた。だが、復元したばかりの糞達磨は年頃の乙女のように繊細だった。ビーブーが触れた瞬間に糞達磨は瓦解していき、粉粒となってしまった。

 それからいくつもの試行を繰り返したが、徒に時間は過ぎていくばかりで、糞達磨は粉粒の姿で落ち着いていた。

 ビーブーも眠気が極限に達したようで、この糞の研究は自らのコンディションを整えた上で再開することにした。

 この粉粒を放置しておくと、YDブレーンから怒声を浴びせられるのはカバでも分かることだった。ビーブーは何か隠蔽に適したものがないかと探すと、丁度使い切ったインスタントコーヒーの容器を見つけた。

 それに粉粒を詰め込み、キッチンの戸棚に隠すと、ビーブーは大欠伸をして、自室に引っ込んでいった。

 それから時間が経ち、YDブレーンが先に目を覚ました。

 ブレックファストには遅い時間だったが、YDブレーンの消化器官はひな鳥のように飢えていた。キッチンへと赴き、パンをトースターにセットし、お供のコーヒーを用意しようとした。

 ポットの側に置いてあるインスタントコーヒーは無に近しい量しかなかった。薄味のコーヒーで、一日の始まりが台無しになるのはまっぴらごめんだった。新しいコーヒーを取り出そうと戸棚を開くと、中途半端に中身が残っている容器を見つけた。YDブレーンは疑うことなくそれを引っ張りだして、カップに粉末を落としていった。

 トーストが出来上がったタイミングで湯が沸き、カップに注ぎ込まれると、やや茶色みの強い液体が仕上がった。

 少しだけ訝しがったが、寝覚めで頭の働かない状態ではそれに対して思考を巡らせるには至らなかった。ただ黙々とトーストを頬張り、その合間にコーヒーと思しき液体を流し込んでいった。

 トーストを食べ終わる頃にはカップの中身もすっかりなくなっていた。こうして遅めの朝食を終えると、テレビを付けて、さしたる興味もないのに情報番組を垂れ流し始めた。

 しばらくテレビに意識が向いていたYDブレーンだったが、不意に腹の奥底から膨れ上がるように痛みが訪れてきた。単なる腹痛とは思えないほどの痛みに耐えかね、YDブレーンは脂汗を噴出させながら、トイレに駆け込んだ。

 YDブレーンの排泄行為が通常のヒトと同じように行われるなら、その排便も一応の形式に沿って行われるはずだ。しかし、今回の例においてはそれが適用されなかった。

 YDブレーンの肛門の機能が正常だったにも関わらず、腹痛の原因となる排泄物は一向に放逐を拒んだ。その拒否反応は腸の蠕動運動に真っ向から立ち向かい、YDブレーンが生体機能の衰えと認識するはずもない異変を起こしつつあった。

 もしYDブレーンがヒトの女性として生まれ、経産していたのならば、この痛みと異変を自らの血を分けた、愛しい子を生み出すための試練に酷似していることに気付いたであろう。だが、悲しくも彼は孤高の気狂いであり、その痛みを知る術もなかったのだ。つまり、この苦痛に耐え忍ぶ方法は彼の知識からは一切引き出すことが不可能であり、なすがまま、なされるがままに、腸より出づるのを待つしかなかった。

 YDブレーンが出来る抵抗は皆無であったが、それは彼がたった1人の見捨てられた老人だったならばの話である。彼には都合よく、助手が同居しているのだ。YDブレーンは孤高ではあるが、辛うじて孤独ではなかった。必死にビーブーの名を叫び、助けを求めた。

 天啓めいた声を聞いて飛び起きたビーブーはそれが介護者の悲鳴であることに気付くと、大きな溜息を吐いて、その声の出処に向かっていった。普段の怒声とは異なる声なのは分かっていたが、それが今朝の糞達磨に関与したものだとは露にも思わなかった。

 鍵の掛かっていないトイレのドアを開けると、そこには便座に座ったまま狼狽し、青ざめたYDブレーンがいた。彼の話を聞いたビーブーは単なる腹痛だと思い、さしずめ朝食が腐っていたのに気付かなかったのだろうという旨を、上司の痴呆っぷりを揶揄しないようにオブラートに包んで言った。

 しかし、それには断固とノーを言い張るYDブレーンだった。自分の摂った朝食は至って普通のパンだったし、コーヒーも少し風味がおかしかったが、味に変わりはなかったはずだと主張した。YDブレーンがコーヒーという単語を出した時、ビーブーの冴え渡る勘が悲報を告げた。

 それを確かめるべく、YDブレーンにそれとなくコーヒーについて聞いてみた。今朝はインスタントコーヒーが切れかけていたから、戸棚から中途半端に残っていたものを使ったと言うと、ビーブーは成る程と言わんばかりに何度も頷いた。

 まさか、自分が隠しておいた糞の粉粒を間違えて飲まれるとは思っていなかった。それは失敗であり、反省すべきことだが、この現状はその糞達磨の研究において極めて貴重な事例なのではないだろうかと考えた。科学の進歩、繁栄には多少の犠牲は付き物である。師匠でもあるYDブレーンを実験台にするのは少なからず、良心を痛める部分があったが、経過を楽しく見届けることにした。

 そんな思慮を巡らせている間に、YDブレーンの容態に変化が表れた。その感覚はYDブレーン自身にとって吉報であることは、脳内に満ちる快楽が示していた。

 膨張した腸内の物質が下り始め、肛門から出立せんとしていた。その好機にYDブレーンは自らの助勢を加えることはなく、ただ身を捩らせて、それの意志に任せた。

 それを排泄させるために、肛門は限界に近しい拡張をした。YDブレーンの人生でここまでの拡張は一度もなかった。一世一代の大拡張に、生体器官一同は固唾を呑んで見守っていたことであろう。そして、肛門が排泄物と排泄欲を一気に吐き出すと、全器官に代わって、YDブレーンが喜びの声をあげたのだった。

 座り込んだまま、苦痛からの解放を噛み締めていると、ビーブーがすぐに立ち上がるように言った。体に力が入らないYDブレーンはビーブーの肩を借りて、ゆっくりと立ち上がった。パンツも上げずに自分の肛門から出た悪しき排泄物に目をやると、それまでの喜びは消え失せ、沸々と血が熱くなっていった。

 そこにあったのは今朝、研究所の窓をぶち破り、YDブレーンをコケにしてきた糞達磨だった。

 YDブレーンは便器の中の糞達磨にあらんかぎりの罵声を浴びせた。それが無意味であろうとなかろうと、彼の怒りは抑えきれなかった。ただ、死闘を終えたばかりのYDブレーンは一声上げるだけでも労を費やした。YDブレーンの息が切れ切れになった隙に、ビーブーが糞達磨を便器から救出した。

 痛烈な視線が向けられていることを承知して、ビーブーは研究室に戻り、糞達磨を観察した。ビーブーは糞達磨の分析以上に、常軌を逸した特異性を噛み締めていた。

 おそらく我々の学では到底及び付かない、不思議な力がこの糞達磨に宿っていると感じられた。何かしらの意図を持って、神が創造なさったのではないか、とビーブーは研究者らしからぬ思想に陥っていた。

 この糞達磨が糞で構成され、達磨の形を断固として保つのは、ヒトが一介の生物種の枠を越えて、地上を制する神に近しい存在、人間へと進化した過程で、蔑ろにされ、削ぎ落とされた業を表しているのではないか。それを今、邪悪で劣悪なYDブレーンという人物に背負わせ、罪を洗い流させようと神が仕組んでいるに違いない。この糞達磨は神の代行者なのだ。ビーブーは今此処に1つの宗教を完成させようとしていた。

 裂傷した肛門に薬を塗布し終えたYDブレーンが研究室に来た時、既に糞達磨は祭り上げられていた。急ごしらえとは思えぬ立派な神棚に、YDブレーンが密かに栽培していた麻の葉を立てた、榊立てならぬ麻立てが配され、中央に威風堂々たる姿の糞達磨が鎮座していた。そして、その前でビーブーが念仏めいた言葉を呟き、虚ろな目で糞達磨を見つめていた。

 YDブレーンは唖然とした。助手が突然イカれてしまったのだから、当然である。ビーブーの肩を激しく揺らして、正気に戻そうとした。ビーブーは瞳以外は至って平常な様子に見えたが、YDブレーンに気付くと、念仏を中断して、糞達磨の尊さと人間の愚かさを学術発表の如く流麗に語りだした。

 ビーブーの語りを呆然と聞いていたYDブレーンだったが、次第に彼の語る業と真実の神の存在に、心がときめいていた。我々はなんとバカげたことをしていたのだろう。全ての人間に代わり、自分が背負うことになった業をYDブレーンは悲しむことも憤怒することもなかった。

 自分にしか出来ない使命を全うすべく、YDブレーンは奮起した。自分の残りの人生、余剰分も含めて、業を洗い流す旅に変換した。そして、その手段として、今まで培ってきた人間の人間たらしめる人智の技をもって行うことを堅く誓ったのだった。

 こうしてYDブレーン研究所は半日にして糞達磨教へと変貌したのだが、数日の内に研究所内に悪臭が立ち込め、蛆が蔓延り始めると、2人は正気に戻り、糞達磨を窓からぶん投げた。

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