アザミ
私は私という存在を忘れている。
私は人間ではない。
私はなぜ自分の存在を忘れてしまっているのかさえ、覚えていない。
いや、これは明らかに嘘だ。
私は、私という存在を忘れたかった。だから忘れた。
ただ、それだけだ。
だから私という存在が誰かに露呈することもなければ、自分自身でさえ思い出すことはないはずだ。
でも、それでも、私の身体は、私という存在をこの世に繋ぎとめてしまっていたのだ。
人間が嫌いだ。
私という存在をすぐに忘れてしまうから。だから私は自らの存在を消したい。
だがそれは、当てつけのようなものであり、子どもが駄々をこねていることと変わらない。
誰かと繋がっていたい、孤独でありたくないがために、身体という呪いが私という存在の韜晦を蝕んでいた。
もしかしたらそれは、臆病者である私への罰なのかもしれない。
不安と恐怖から目を反らさないように、現実を突きつけるように神様は私という存在を消してはくれない。
私の欲しているものも決して手に入れることはできない……。
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「お前はクビだ」
開口一番、益荒男が発した言葉はハルを金輪際相手にしないという告げだった。
春日井薔子からなんとかサクラの遺体を奪い、自分の命もからがら病院へと身体を運んだ。救急医療室にサクラが運ばれたあと、事の顛末を電話で益荒男に報告していた。
「……ごめん」
「以前教育した際に言ったはずだ。俺に捨てられたくなかったら失敗はするなと」
病院の無音がその言葉をより一層、ハルの奥まで刺し渡らせた。
「遺体はいまどうなっている?」
「いまは――」
「手弱女さん!? 手弱女さんどこですか!?」
逼迫した女性の声が突如、診察室から現れた。看護師の声だ。彼女の表情は驚いているような慌てているような、どちらにせよ診察室から出てくる表情ではなかった。
「は、はい。なんですか?」
「吉野桜さんをみませんでしたか?」
いささか不可思議な質問にハルは困惑した。
「え? なにを言ってるんですか……?」
「彼女が見当たらないのです!」
詳しい話を聞くと、どうやらサクラにはまだ息が残っていたようで、応急措置をしたあと生命維持装置を使ってベッドで寝ていたそうだ。
しばらく様子をみていたが、他の患者の様子を見に離れて戻ったところ、ベッドの上で寝ていたサクラの姿が忽然と消えていたらしい。
あれだけの重傷を負いながら出歩けるのはおかしい、と看護師は困惑しつつも担当医と話して院内を探し回ることにしたと早口で言った。
話を終えると看護師は慌ててサクラを探し始めた。その背中をハルは呆然と立ち尽くしながら目で追っていた。
……信じられない。
あの状態で息が残っていた?
何人もの人を殺めてきた私が、遺体を取り返した後に確認して完全に死んでいると判断したほどだったのに?
出血さえ、ほぼ止まってしまっていたほどに血が出ていたのに?
現状を理解できなかった。
呆然と立ち尽くすハルを現実に引き戻したのは、携帯電話から発せられた訝しげな声だった。
「おい、どうした」
「あっ、ごめん……」
「? いいか、もう一度訊くぞ? 遺体はどうした?」
その質問に、自分に言い聞かせるようにハルは答えた。
「遺体は……消えた……?」
そしてハルの服装には一切の血痕がなく、真っ白なパーカーに濃い赤色の中蘇芳のミニスカートがよく似合っていたのだった。
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今回の依頼は、はじめから不可思議なことばかりだった。
益荒男が依頼を受ける際は、必ず足のつかない情報屋を通して内容と報酬額を吟味する。ひとりでこなせない内容だと判断すれば、協力者分の金額を追加で提示した上で値段を交渉する。
もちろん、協力者分の追加額を100%丸ごと協力者へ支払うことなどしないが。
拝金主義を自ら公言しているわけではないが、益荒男にとって金銭を稼ぐためなら人を利用することも、騙すことも、殺すことも、陥れることも常套手段に過ぎない。
なんなら、ターゲット側に助力することでより多く利益を得られるのであれば平気で裏切る。
そのほうが稼げるから。
それにあたって依頼主に関する情報収集や依頼経路、身辺調査は徹底している。チャンスを掴むためには何事も準備を怠ってはいけない。特に裏稼業を生業としている者として情報というものは一番の武器であり金塊だ。
それができない者など、ただの盤上の駒でしかない。
だが、吉野桜についてはまったく情報が掴めなかった。
ことのきっかけは、ある案件が終わり次の仕事を探すための情報収集をしている時だった。
灰色のすすけているコンクリートでできた無骨な商業ビルの一角を、益荒男は拠点のひとつにしていた。
質感のいい一人用のソファに腰かけ、マキネッタで淹れたマイルドな香りのするコーヒーを片手にPCの画面を益荒男は覗く。
打ちっぱなしのコンクリートの壁に飾り気のない小さな広間には、ニュースを報道しているテレビの音が誰の耳に届くわけでもなく流れている。
薄暗く室内を照らす暖色の蛍光灯と、テレビからの音だけが空間に漂っていた。
ニュースの内容は、近年全国的に問題となっている人口激減化現象について。
年々出生率が落ちてきていることに加えて、新生児が生まれて数カ月後に原因不明の衰弱死をしてしまうケースが増加しており、人口減少に拍車をかけている。さらに、高齢者の病院利用率が増加傾向にあり、入院患者による病床数の不足によって医療現場が十分に回っていない。
体調不良を訴える高齢者も増えていることで、健康寿命の低下改善が現代の課題になっていることをキャスターがグラフを用いて解説していた。
「……世も末だな」
PCの画面から目を逸らさずに益荒男は呟いた。
特定の地域を除いて全国の人口数の棒グラフは軒並み右肩下がりを表しており、近年は特に減少幅が大きい。
これに影響されてなのか、人類の終末到来を語り、来る滅びに対して救いの道を指し示す、と謳っている団体が現れているらしい。神妙な顔つきでコメンテーターが批判していた。
益荒男はコーヒーを一口啜る。
軽やかな苦みと温かさが舌を触り、香りが鼻を抜けていく。
金銭を稼ぐために必要なことは、嗅覚だ。
人がなにを望み、その望みがどれだけ多く、どれだけ受け入れられる価値観や印象をもっているか。
金とは欲望だ。その匂いを嗅ぎ分ける鼻がなければ、たとえ金に成る原石が埋もれていたとしても掘り当てることはできない。一生、埋もれた土の上で胡坐をかくことになる。
ニュースの人口激減化現象については最近よく耳にするものだが、金の匂いがしない。
原石が埋まっている土地には通常、人が群がっている特徴がある。株式投資の際にも人口がひとつの指標として参考にされるように、人のいない場所に金は集まらない。
もっとも、我々のような仕事の場合は、むしろ需要が高まることもあるのだが。
前回の仕事がその系統で報酬が少なかったため、普段は一応探りを入れる程度はするのだが、今はその気になれない。というよりは、より濃く、より多く匂いのする方向を探せ、と本能が情報を嗅ぎ分けるための指先を動かしていた。
ニュースは続いているが、既に聞く耳をもたずに情報収集に興ずる。
益荒男は、暗号化された情報屋からのメールを一通り復号し、中身を吟味する。
その中に、ふたつ、気になる情報が記載されていた。
ひとつ、とある製造会社から大量に電子医療機器や半導体、普段病院で使われないような機器がどこかの病院へ仕入れられていること。
ひとつ、その同時期に、我々の同業者にかなりの額を積まれて殺しの依頼が入っていたこと。
その殺しの依頼は、ただ殺すだけの内容ではなかったらしい。内々の関係者だけで取り決められたことなので情報屋でも詳細が掴めなかったようだ。
そしてこれらの情報は、とある町でどちらも動いているということだった。
――これは匂う、いや、臭う。
益荒男は自分でも気づかずニィッと口角を上げていた。
町や関連情報についてさらに調べようと、片手に持っていたコーヒーカップを机に置いた。その瞬間、机上の携帯電話がバイブレーションとともに鳴った。非通知電話だ。
非通知でも問題ない仕事用の携帯電話であることを確認し、益荒男は人物設定を思い出しながら電話に応答する。
「もしもし?」
「もし」
女性の声だった。たった二文字だけの発語だが、ゆっくりとした語調で上品さを感じる。
聞いただけで気品という言葉を連想させるような声だった。
「あの……。どちら様でしょうか?」
せっかくこれからの発掘作業が楽しくなりそうなタイミングだったのに、余計な横やりを入れられてしまった。というような苛立ちは声におくびにも出さず、さも威圧感のない下手で聞き上げるような、恭しい態度で益荒男は訊いた。
「ええと……。案件?と言えばいいのでしょうか。依頼申し上げたいことが――」
その言葉を聞いた瞬間、益荒男はすぐさま耳から携帯電話を離し、通話停止ボタンへと親指を勢いよく向かわせた。
――まずい、この携帯電話は案件を依頼されるような使い方はしていない。この声にも覚えがない。裏稼業の情報屋がどこかに漏らしたか? 探知の可能性はあるか? この後の処理を考えて即切りは正解か? いや、不確定要素が多すぎるしこの端末は即刻処分が一番安全なはず。
相手が喋り終わる前に依頼という単語を聞いた瞬間に巡った思考回路は、安全第一という帰結とともに指先を動かしていた。
「ストップ!」
が、その親指は突然の大声に通話停止ボタンの前でギリギリ差し止められた。
「びっくりさせてしまってごめんなさい。あなたにご迷惑はおかけしませんので、とりあえず話をお聞きくださいませんか?」
間延びした上品な女性の声はそう続いた。
――失敗した、反射的に指を止めてしまった。
なぜだ? 普段ならこんな失敗はしない。相手が喋りつづけていたとしても気にせず通話停止ボタンに指を置けばいいだけだ。
しかも相手の言葉を聞いてしまったために、益荒男の応えるターンが発生してしまった。これはつまり、相手の問いかけに対して回答権を持つという、“会話”が成立してしまう。
いや、そんなことよりも驚いていることがある。
この電話先の女性は、ストップ、と言ったか?
「……見ているのか?」
今度は取り繕うこともせず益荒男は応えた。おそらく取り繕う必要がない。
先ほどのストップという言葉。明らかにこちらが通話を切ることを見切っていた。
当然、動作による音は聞こえないように通話を切ろうとしたし、一言も発語していない。
だが、彼女の声はさも指の動作が見えていると言わんばかりのタイミングと大きさだった。
であれば可能性としては、隠しカメラなどでこちらを見ていることが考えられる。
が、この部屋にその類のものはないと断言できる。何より自分の拠点だ。
複数あるといっても易々と人を侵入させることはないし、自ら招き入れたとしても退室させたあとに盗聴器が仕込まれなかったかなどのチェックは必ずしている。
監視カメラなどもなく、ハッキングによって盗撮されるといったこともない。
「はて、さきほどと声色が変わりましたね」
口調は変わらず女性は言った。
「ごめんなさい。本当にあなたに害を為そうといった事は考えておりません。もしよかったらお願い事のお礼として、三石の御饌米を撤饌して差し上げてもいいと思っています」
質問をはぐらかされた、と頭の中をよぎったが、当人の声色は人を騙すようなことなど微塵も考えたことがないような人間性を自然に感じる声だった。
「――お前は何者だ?」
一拍、間を入れて益荒男は言葉を発した。
長年の経験から、人を騙そうとしたり取り繕って付け入ろうとする人間の喋り方は分かる。この携帯電話から聞こえる女の声は、それではない。
むしろ、カモ側の人間の喋り方だ。なのに、状況からして真っ当な表側の人間だと思えない。
「えぇっと……。とても疑われていますね……。あなたにご連絡すれば、何とかなると思ったのですが……」
うぅん、と頭を抱えていそうな声が聞こえた。その間に、益荒男はPCと携帯電話端末を無線で接続し、通話先の逆探知を行うべくPCのソフトウェアを起動しつつ、協力関係にあるハッカーに追跡できないかメッセージを送っていた。通話音声はスピーカーに変更している。
おそらくこの女性は、我々の世界で生きているような裏の人間ではない。
なぜ益荒男まで辿り着けたのか?という疑問は分からないが、行動からして明らかだ。
依頼の連絡手法として仲介を挟まずにいきなり直接電話をかけるという、この世界の掟やルールを守らない不用心さ。
交渉として会話する際の含みのない言葉や喋り方。明らかに場慣れしていない。あえて油断させるために慣れていない喋り方をしているのであれば、それは相手を知らなさすぎる。
女性は悩んだ末に、そうですね、と切り出した。
「開光映町という町は、ご存じですか?」
益荒男は机の上に置いていた携帯電話の画面を凝視した。画面には、非通知という文字だけが表示されている。
それなのに、香る。そこから確かに周囲に広がっているように感じる。
鼻孔の奥を膨らませると、胸が高まるような匂いでいっぱいになる。
「……ああ」
開光映町、それはもちろん知っている。知り得たばかりだ。
なんせ、さきほど調べようとしていた町なのだから。
「ご存じなのですね。であれば、一度来ていただけませんか?」
女性の声は益荒男を疑う余地も持たず、品のある間延びした声色で続けた。
「報酬はいくらでもご用意しますので、とある少女を護っていただきたいのです」
非通知の無機質な画面は飾り気のない静かな部屋を騒がせていたが、つけっぱなしのテレビも引き続きニュースで部屋を賑わせている。
それは、開光映町を人口が減少していない特定の地域として報道していた。
これは、鴨が葱を背負って迷い込んできた、ということではないか?
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「いいか? 必ず遺体を見つけ出せ」
携帯電話から地鳴りをあげるような声で、益荒男はハルを追い立てた。
静かな病院の廊下。完全に夜となった外の暗がりを覗けるガラス窓は存在しない。
真っ白なビニル床材でできた廊下に蛍光灯の光が破線のように反射し、遠く道行く先まで均等に続いている。その道の左右に病室の入口が規則的に並んでいた。
物音ひとつしない静けさに不気味ささえ感じたが、ハルは耳元に携帯電話をあてがいながらお構いなしに全力で走った。強く廊下を蹴る音だけが異様に響く。
「見つけ出すって言ったって、どうすればいいの!?」
病室の入口に扉がないため、走りながら横目で覗いた。寝静まっている老人や本を読んでいる患者しかいない。一室に何台もベッドが並んでいるところをみるに、どうやら今は一般病棟を駆け回っているようだ。
向かっている先はサクラのいた病室だが、病院の広さがどこまであるのか分からず、ただ闇雲に走っている。
「……っち。やけにジジババばっかり……」
サクラを搬送したタイミングでは集中治療室に空きがなく、すぐに移動できるように近場の病室を利用していたと看護師は言っていた。そこからもしサクラの遺体が何者かによって移動させられていたのだとしたら、どこを探せばいい?
ただ闇雲に走って手あたり次第に探しているだけでいいのか?
思い付きのままにサクラのいた病室に向かっているが、本当にそれでいいのか?
頭では分かっているのに、胸に溢れかえる不安のもやが衝動的にさせていた。
それを蹴散らすように、廊下を蹴る。
「変装屋をそちらに向かわせている」
「あいつら!? もっとマシな人呼んでよ!」
口呼吸で荒くなりながらハルは大声をあげた。それを意にも介さず益荒男は続ける。
「今回の件、主要人物に病院関係者がいるはずだ。そいつらに遺体を回収されるのはまずい」
「ちょっと待って! 初耳なんだけど!何にも情報つかめなかったんじゃないの?!」
「ただの推測だ。情報を整理した上での憶測を、俺は情報として提供しない」
「あんたがそういうってことは大体そうじゃん……! 情報共有してよ!」
病院関係者が絡んでいるなら、サクラの遺体を運んでくるなんてことしなかった。
こんなの、敵に塩を送るどころか主将の首を差し出しているものではないか。
廊下の突き当りに階段が見えた。ハルは一段飛ばしでスピードを落とさずに駆け上がる。
「むしろこれはチャンスだ。いままで見ることのできなかった敵の姿を捉えることができる」
「見つけられたらね!!」
切れ気味にハルは言った。踊り場の内側にある手すりに手一杯右腕を伸ばして掴み、勢いづけたスピードと共に身体を引き付ける。振り子のように左に身体を振って遠心力に耐えながら宙に浮き、その勢いとともに階段の上を飛んで上層階に着地した。
「俺は先約があるので失礼する。遺体を見つけたら病院から離れて身を隠せ」
「ちょっ! まっ――」
耳にかざしている携帯電話から通話の切れた音が聞こえた。画面を見ると通話終了の文字が表示されている。
「――んもぅ!」
地団駄を踏みたい気分だった。というか踏んだ。夜の静かな病院だというのに踏んでしまった。
行き場のない怒りが廊下に響いた。その反響音が予想外の大きさになってしまったので、ちょっと申し訳なくなった。
少し負い目を感じながら周りに誰もいないかと首を振っていると、階段を登り切った向かいの壁にフロアガイドを見つけた。四角く区画されたフロアの案内地図にまじまじと目を滑らせると、ICUの文字が刻まれている箇所があった。
どうやらこの階に集中治療室があるようだ。その付近を確認すると個室になっている病室もある。おそらくここだ。
早くなっている鼓動を落ち着かせるために鼻から息を短く吸い、口からゆっくりと吐く。
そしてハルはまた走り出した。
――これ以上、失態を晒すわけにはいかない。
益荒男は、いらないと判断したらすぐに切り捨てる。それが例え、自分が投資してまで育て上げたビジネスパートナーだとしても。そういう男だ。
人を平気で騙し、利用できるなら自分の家族さえも喜んで駒として使いそうな人間だ。持たなくてもいいのであれば、関係など持ちたくない。ハルは常々そう感じていた。
あいつのことは嫌いだ。だが、この世界で生きるためには、あいつとの関係が必要だ。
依頼人の醜い欲望のために人を殺し、そのたびに嫌気がさすような他人の悪感情を目にする毎日。いつしかそれが日常になってしまっていた。
はじめは、救ってくれた兄と平穏な毎日を送るためにやっていたはずなのに。
私はいつか、益荒男に頼らなくても生きていけるようになりたい。
お金を貯めて殺し屋なんてさっさと辞めて、兄貴と平和な日々を過ごしたい。
そのために、今この生き方しか知らない私は、ここにしがみつくしかない。
それに、嫌いだとは言っても恩はある。
恩を返さずに利用するだけ利用して、はい、さよなら。で関係を切るなんて、それこそ嫌いなあいつの手口と同じじゃないか。気に食わない。
先ほど見たフロアの地図を頭の中で思い出しながら廊下を走り、個室のある病室の付近までたどり着いた。下のフロアとは違い、病室の入口に引き戸式の扉がある。
廊下の先をみると、ガラス張りで作られたドアに空間が遮られている。自動ドアの開閉付近にICUと白い文字で記されているあたり、あの先が集中治療室のようだ。
そこから一番近い病室の前にハルは向かった。引き戸の出っ張った白い持ち手部分を握り、はやる気持ちのままに勢いよく開けた。
部屋の中はやけに静かだった。電灯の明かりはついているが、ほのかに薄暗い。個室として利用されている病室のようだが、生活品の類のものは見当たらない。
中を進んでいくと、不自然にカーテンが引かれていた。締め切った仕切りカーテンでベッドが見えない。
「間違えた……? ここじゃない……?」
人が入った形跡も、ベッドから人が移動した形跡も見当たらない。すぐ次の部屋を確認しようと考えつつも、一応この場も確認しておくために、恐る恐る仕切りカーテンに手をかけ静かに横に滑らせた。
そこには、片足のない少年がベッドに横たわっていた。
両足に布団はかかっておらず、右足の部分には足を乗せて高さをつけるための台座が置いてある。その台座に本来乗せるはずの足先はなく、右足の膝から下の部分が無かった。台座に寄りかかる形で、包帯の巻かれた膝の断面が上を向いている。
顔の全体にも包帯が巻かれており、目元も分からない。口元と髪型の見える部分や、青地に水玉のパジャマを着ているあたり、男の子だろうか? 身体の大きさも小学生くらいに見える。
まじまじと見るのも憚られ、目線をベッドのサイドテーブルの上に逸らす。綺麗なオレンジ色の薔薇が花瓶に飾られていた。茎から多数に枝分かれしたスプレー咲きの花。生き生きとしたオレンジの発色を感じる。丁寧に手入れされているようだ。
可哀そう、とハルは思った。
こんなに小さな子に、一体なにがあったのだろうか。見ているだけで胸が痛くなった。お見舞いに来ているだろう家族がこの姿をどんな気持ちで見ているかを想像するだけで、心を抉られたような気持ちになる。
オレンジの薔薇から感じられる手入れの丁寧さが、願いの強さを表しているようだった。
病床に伏している当人が辛いのは当たり前だが、そんな大切な人の姿を見ている側の人間も、辛い。ハルは兄のことを思い出しながら顔を伏せた。
自分はまだ、恵まれているほうなのかもしれない。家で毎日顔をみることはできるのだから。
せめて彼の人生に今後いいことがあるように、と拳を胸に当てながら心の中で祈り、病室を後にした。
続いて廊下を挟んで真向いの病室へハルは向かった。彼の凄惨な姿が脳裏に浮かび、先ほど扉を勢いよく開けてしまったことに罪悪感を覚えて今度は静かに引き戸をスライドさせる。
すると、部屋の中には先客がいた。
「おや? フラワーの残り香に誘われて、蝶が舞い込んできたのかな……?」
ジャージ姿の男の背中が、鼻につくような台詞とともにこちらを振り向いた。
大きくまとまり反り返った前髪。一本の釣り針を横に流しているような特徴的な髪型だった。端正な顔立ちとともに西洋風の情緒を感じる。よくみると、額から汗を流していた。わずかに息も荒い。
病室には彼以外にはおらず、ベッドをみると布団を捲って人が離れたような状態だった。扉を開けた際に彼はそこを見ていたことから、病室を利用しているのは彼ではなさそうだった。
「……あなたは誰?」
「僕かい? 僕はただの愛の守り人。ちょっと目を離した隙に、見失ってしまったフラワーを探しているだけさ」
額に左手をつき、演技がかった困り顔で男は言った。言葉には表れていなかったが、どこか焦っているようなニュアンスをハルは感じた。もしや、ここに駆けつけたばかりでなにかを探していた?
彼の右手には、既視感のある赤いジャージが握られていた。色は違えど、彼が着ているものと意匠が同じだ。
そして、そのジャージを着ていた人物をハルは知っていた。
「そのジャージ……! あんたがサクラを運んだの!?」
「……! なるほど、君か……!」
サクラという言葉を聞いた瞬間、男の演技がかった喋り方が剥がれた。目を見開いて驚いた様子で男はハルを見つめている。ハルはつり目をきつくして見返しながら、いつでも戦闘ができるように身構えた。
「なんなの? サクラがどこにいるか知ってるなら教えて」
「いや、失敬した。申し訳ない。こんな愛らしい少女が彼女についているとは思わなくて」
「――質問に答えて。サクラの居場所を知っているの? それともこの病院の関係者?」
「まぁまぁ、落ち着きたまえ。とりあえず、僕は君の敵ではないことは言っておこう。病院の関係者でもない」
両手を上げて降参のポーズをしながら、男は落ち着いた様子で言った。
「――それに、おそらく彼女は無事さ。居場所も大体検討がついている」
「無事!?」
予想外の言葉にハルは目を丸くした。無事?この男は今、サクラが無事だと言ったのか?
「どういうこと!? 知らないの!? サクラは首を切られて――」
「ああ、承知しているさ。それも含めて大丈夫さ」
男の言葉はハルの動揺を抑えるような口ぶりだった。対して、ハルは余計に事態が分からなくなっていた。
男はハルの戦闘態勢を意にも介さず、ソファに深く腰掛けた。そして話を続ける。ハルの強張らせていた身体は既に弛緩していた。
「その疑問について、これからある程度君に答えよう。彼女に会いに行けば分かることだけどね」
その冷静な姿に、ハルはあっけにとられていた。
護衛対象だったターゲットが殺され、その遺体は首を搔っ切られて完全に死亡したはずなのになぜか息を吹き返し、挙句の果てには姿を消した。しまいには、それが無事だと話す男がいる。
「ちょっと待って……。頭が痛くなってきた……」
君もここに座るかい?と空いているソファを勧められ、ハルは頭を抱えながらボスンと音を立てて座った。
「この話を聞いたら、君には彼女に会いに行ってほしい」
神妙な面持ちで男は語り始めた。
「彼女は今、大津山三つ子山のサギリにある、とある滅びた神社跡に向かっている」
ハルは、訳が分からないまま男の話に耳を傾けた。
「お願いだ。彼女を、護ってほしい」