ハナズオウ
闇夜に揺れる花の散った桜の木は、寂しさを紛らわせるように枝を揺らす。光のない桜並木の道に、枝の揺れる音だけが響く。暗く静かに、ただ音だけが存在する世界。そこにいるハルの存在を飲み込もうと、暗闇に潜むなにかは静かに牙を光らせる。
ハルは山を下り帰宅しようと考えたが、自然と足がこの道へと赴いていた。
いつもサクラと一緒に帰っている道。
――特に理由はなかった。
ただ、この道にくればサクラが待っているような気がした。いつものように体育座りでにやにやしながら川をみてハルを待っているサクラの姿が脳裏に浮かぶ。こちらに気づくと本当に嬉しそうに、満遍の笑顔で語りかけてくる。そんなサクラの顔をみるのが、もしかしたらハルにとって楽しみのひとつになっていたのかもしれない。
真っ暗な道を一人で歩く。その先の果てには、なにがあるのだろうか。前をみても、ハルの目にはただの暗闇が映るだけだった。果てしなく続く闇。その先が見えなくともハルは進む。山の清掃で疲弊しきった身体にはうんざりする光景だ。引き摺るようにだらだらと脚を前に運ぶ。
白のパーカーのポケットに両手を突っ込む。
元々はサクラを見張るための口実として参加したボランティア活動だったが、変なおば様たちに拘束されるわ、変装屋は仕事しないわで散々だった。
仕事の失敗、だろうか。
もし、潜伏している二人の殺し屋が彼女になにかしらのアクションをとっていたら、もう手遅れかもしれない。
その殺し屋は誰なのか、もっと動いていれば目処をつけられたかもしれない。
やれることは沢山あった。
しかしあまり褒められたことではないが、ハルはあまり反省していなかった。
また次のチャンスはあるだろう。そのときに頑張ればいい。
――また、次に。
そんな風に――なにかに言い訳をするように――考えながら歩いていると、暗闇の先にふたつの人影らしきものをみた。
かなり先のほうだったが、確かにふたつだ。
それをみた瞬間、ハルはなぜか嫌な感覚をおぼえた。目を細めて凝らしてみてもあまりよく見えない。黒く小さな人影が二つ。得体のしれない不安感が胸の中に生じる。いままでの緩慢な動きは緊張感へと変わり、その一点へと歩き出す。
鼓動とともに足どりもはやくなる。距離が縮むにつれ、緊張感は増していく。
そして、その人影が誰なのか分かったときには、全速力で走りだしていた。
「サクラ!!」
開口一番、ハルは叫んだ。
「ん?」
返事をしたのは、サクラではなかった。
彼女は後ろを振り向く。
「春日井薔子……」
彼女――春日井薔子は血まみれになったサクラと肩を組みながらこの道を歩いていた。もっとも、サクラのほうは完全に薔子に引きずられる形になっているが。
サクラの首には大きな切り傷。かなり深い具合をみるに致命傷は決定的だ。
そこからサクラの身体をなぞるように赤い線が服を染めている。
正直、みるのも憚られる。
「手弱女春さん、だったかしら。久しぶり――というほどでもないけど。こんばんは、かしら?」
薔子は口元を緩ませた。その表情に、山頂で会った時の春日井薔子は存在していなかった。
「なるほど……。ひとりはあんただったのか」
山頂で感じたデジャブのような違和感の理由がいま、はっきりとした。
私達と同じ臭い。同族の臭い。つまり、殺し屋。
「ふぅん? ということはあなたもこちら側の人間ということかしら?」
薔子は特に驚く様子もなく、かけていたアンダーリムの眼鏡を外す。
「悪いけどこの子はもらっていくわよ。不思議なことに、”殺して遺体を持ってきてほしい”という変な要請だからね。あなたももしかして同じ内容かしら?」
薔子はさも仕事仲間とちょっとお喋りをするかのように、気軽な面持ちでハルに訊く。
そんな薔子に対して、ハルの腸は煮えくり返っていた。手のひらに自分の爪が食い込む。自分でも不思議なくらいだった。
「……違う! 私への依頼は、あんたたちからサクラを護ることだ!」
我慢できず、ハルは怒りをのせて言った。深夜の閑静な夜道にその声は響き渡る。
しかし薔子はそんなことは意にも介さず、顔をあげて大笑いし始めた。
「あっはっはっはっは! 殺し屋がターゲットを護る? 面白いわねぇ。そういえば何でも屋をやっているんだったわね。なら別段おかしなことはないのかしらねぇ?」
「そんなことはどうでもいい!」
薔子の言葉を遮るようにハルは怒りをぶつけた。
「なんで殺した!? あんたはサクラの友達じゃなかったの? 山頂でサクラを大切に想っていたような口ぶりは嘘だったの!? 殺さなくてもよかった!」
あの時はあまり考えなかったが、薔子のサクラに対する目線はどこか優しげで、それをみたハルはサクラにもちゃんとした友達はいるんだと安心していた。
それなのにどうして。
「なにいってるのよ」
冷徹な声。
「依頼だから殺した。サクラはたしかにいい子よ? 友達だと思ってる。後ろ向きだけど真っ白で、私たちのような汚れた部分は持っていない純粋な子よ。転校してこの学校に潜伏してから一番仲良くなった、大切な友達。もちろん、山頂でのことは嘘じゃない。――だから?」
挑発的な眼差しで薔子は言う。
「友達だから殺さない? ばかげたこと言わないでちょうだいよ。標的はただ、殺す。それがなんであろうと。ただそれだけ。――あなた本当に殺し屋?」
「……っ」
ハルはなにも言い返せなかった。
サクラを護れなかったこと。仕事の失敗に目をそらしていたこと。自分の怠惰によって事態が最悪になったこと。様々なことがハルの中でせめぎ合い、冷静さを失わせていた。
「純粋で、無垢で、無知なサクラ」
薔子は目を閉じたサクラの顎を撫でるように触りながら、呟いた。
「哀れねぇ。自分を護ってくれるはずだった存在が、修羅になりきれず情を持ってしまったが故に、どこか仕事に怠慢を抱き、結果友達と思っていた人に殺されるなんてね」
ハルの拳に、一層爪が食い込む。
「そういえばもう一人同業者がいるなんて情報があったけど、誰だったのかしらね。ま、その人は仕事もできないポンコツだったということね。サクラの周りに該当しそうな人物なんていないもの。――言葉は尽くしたかしら、私はこのまま遺体をもっていくわ。じゃあね」
一方的に話を区切り、薔子はサクラだったものを引きずり、踵を返そうとした。
その時、背後のハルは薔子に急襲した。
*********************
河川敷。背の低い緑の雑草が艶やかに光る。河川敷に沿った桜並木の桜にも、深い緑の新葉が生い茂っている。
突き抜けるような青い空は、どこまでもその先を見渡せる。雲ひとつない清々しい空だった。
「いい天気だな」
「ああ……」
蒼穹の桜並木の下、芝生に腰をかけて川を眺めている白髪交じりの男性が二人いた。
「お前の孫はまだ来んのか?」
丸い顔で年齢の割にはいかつい顔をしたその人物は、眼鏡をかけた隣にいる相手の顔を見ずに言った。
「もうそろそろだろう」
さして気に留めているような感じではなく、眼鏡の奥にある瞳はゆっくりと麗らかに流れる川をみていた。
孫を見ているような、優しい目だった。
「そういえばお前の孫はもう高校一年生か」
「ああ、元気に育ってくれたよ。昔は外出ができないせいか、内気で物静かだったが、いまは元気が有り余っているくらいだ」
「元気というか、私には生意気になったとしか思えんがね」
丸顔の男性は鼻息をつきながら皮肉交じりに口を曲げた。彼女の執刀医を務め、体調が快方に向かったのを誰よりも喜んでいたのは彼だというのに。自然と眼鏡の男性は口元が緩む。
「――だいたい最近の若者は命を粗末にしすぎだ」
彼は厳しい口調で語りだした。
「昨日の急患だってそうだ。大量の出血で瀕死状態だというのにすぐに帰りおって。そんなに死にたいなら病院なぞにくるでない。こちらは老人患者が異常なほど増えていて手一杯だというのに」
彼の言っていることは院会でも問題視されていた。近年、老人患者が異常に増えている事態について。高齢化によって病院の数が足りなくなってきている。新たな患者を迎え入れることのできない飽和状態が続くことによってさらなる深刻化が進む恐れがあると、院会で危惧されている。
「病院は若者のためだけにあるものではないのだよ」
彼は行き場のない憤然とした感情を吐き出した。
最近は特に多忙のせいか、愚痴が多い。この話題は何度も話し合った内容だというのに、何回も繰り返されている。
「それもわかるが、私はむしろ病院は若者のためにあると思う」
その一言に、丸顔の男性の表情が一瞬崩れた。
「お前はまだそんなことを言うのか……」
「いつになったって私の考えは変わらないさ。いまの老人傾護な風潮がおかしい」
その一言に一瞬だけ崩れた表情は瓦解した。
「お前は死にゆく命を放っておけというのか!? その人が生きていた時間を否定し、貶しているのと同義だ!」
「そこまで言ってない。飛躍しすぎだ。――違うさ。これからの未来を考えると若者をこれまで以上に粗末にしてはいけないということさ。それは言わない約束だろう?」
「たしかに少子化問題が重要視されているいま、以前よりも若い労働力を軽々しくみてはいけないが、今の子は考える力がなさすぎる……!」
「そこは我々老人が教育していくべきではないか?」
「教育している最中に逃げ出し、家に引きこもるやつなんかに時間を使ったって無意味だ! 周りのことを考えられず自分の擁護しか考えていない人間が多すぎる!」
いかつい表情をさらに般若のような顔に変え叫んだ。
「未来を見通し考えられる思慮深い人間なんて若い子にはいない! 何も考えずただ遊びほうけては年上に迷惑をかける。言うとおりにしてればいいのだ!」
それに対して眼鏡の男性は感情の起伏も緩やかに、静かに言った。
「若い子にも少なからずいるさ」
「いたとしても圧倒的に浅いやつが多すぎて意味がない! 若者は流されやすい。思慮深くても浅い連中に淘汰され、結局は表に表せずに悪い結果になる」
「若い子全員に思慮深くなれというのに無理があるのさ。それに、若いころに辛い思いを乗り越えたからこそ、芯を持って強くあろうと頑張る子だっている。私の孫のように。そういう意味で、老人を優先して若者を煩雑に扱ってはならないと思うのさ」
そこまで言い争って、沈黙が訪れた。丸顔の男性と目線を合わせようとはせず、眼鏡の奥から緩やかに流れる川をただ眺めていた。
その沈黙を破ったのは眼鏡の男性の孫であった。
「おじいさま、こんなところにいらしたのですね」
「おお、かなたか」
腰まで伸びた長髪を風に晒しながら菊重かなたは前髪を抑えていた。
丸藤さんもお疲れ様です、とかなたは丸藤と呼んだ丸顔の男性に一礼をし、眼鏡の男性に向き合った。
「そろそろ午後の診療が始まりますよ、お戻りください」
「おっと、もうそんな時間か」
眼鏡の男性は腰をあげ、服についたものを払うとかなたへと向き合った。
「ではまた今度。なにかあったら連絡してくれ」
「ふん、せいぜい若い子にちやほやされていろ」
丸藤の言葉を背に受けふっと笑いながら、かなたを連れて眼鏡の男性は院へと戻った。