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春桜  作者: 久瑠矢簗枝
無垢で無知な桜
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キショウブ



 カレーライスが完成し、いざ四人で実食。薔子の願い通り、普通のカレーライスを美味しく頂きましたとさ。


 ということにはならなかった。


 スプーンでサクラの炊いたご飯を少量転がし、ルーと一緒にスプーンに乗せる。恐る恐る薔子は口を開け、思い切ってぱくつく。


 一瞬、はてなが頭の中に浮かび、咀嚼しながら舌の上でその物体を転がしてみる。そして疑問をそのままに飲み込む。


「なにこれ? なんか味がしな――っ!?」


 開口一番の疑問はどこ吹く風、急に手に持っていたスプーンを取りこぼし薔子はお腹を抱えた。


「なにこれなんか動くんだけど!? 胃でなんか(うごめ)いてんだけど!?」

「うぇ……。ほんとだ、なにこれ気持ち悪い……」


 サクラも同様にお腹を抱えながらコップの水を飲んでいた。


「生命の鼓動、生きることの喜び、俺はここにいると己の存在をこのカレーは高らかに叫んでいる! これはすばら」


 しい、と同時に(しん)はその存在をリバースしていた。大木を加工してできた机にぶちまけるような心配は必要なかった。若干立ちの姿勢で叫んでいたこともあってか、すんでのところで母なる大地に四つん這いになっていた。角の席でよかったとサクラは思った。


「ふ、ふっ……。これぞ、リ・バース。再誕か……」

「むりしなくていいわよ……。なんかあんたのこと馬鹿にしてたけど、好感もてたわ……」


 薔子は賑に水のコップを差し出しながら、気持ち悪そうな顔をしていた。


 みなが一見普通のカレーライスに戦々恐々とのたうち回っているのに対し、ひとりだけ本当においしそうにもぐもぐと食べている人物がいた。


「んー? 僕はおいしいと思うんだけどなぁ」

河原大和(かわはらやまと)、あなたルーになにいれたのよ……」

 

 眼鏡の位置を直しながら薔子は大和に人差し指を刺した。その手は震えている。胃が気持ち悪くて元気がないのか、それとも怒りに震えていてのことなのか、それはどちらも含んでいるようだった。


「ふつうにルーのもとと、おいしくなると思っていろいろ持ってきた具材」

「その具材がいらなかったのよ……。はぁ、怒る気力もないわ。サクラ、水」

「はいどうぞー」


 コップに水を注ぎ、薔子に渡す。


「とんだ伏兵がいたもんだわ……。まさかあんたがそんな味覚の持ち主だなんて」


 味覚じゃないけど、と薔子はコップの水を飲む。


「はは、僕は至って(・・・)普通だよ」


 にっこりと片目を半月にして控えめに謙遜する大和だった。





 昼食も終わり、準備ができた班から各自登山を開始する。七班全員の準備も終わり、いざ出発と登山道を登り始めた。土のにおいとともに、足元にはイワハゼがちらほらとみえる。白くまるっとした鐘形の花を吊るし、小さく顔を並べている。無愛想な山道に可愛らしく華を添えて、登山者を歓迎しているようだった。


 さほどきつくない勾配を足裏で感じながら、一歩ずつ山を登ってゆく。


 サクラは心の中で悩んでいた。


「きっかけって、どうすればいいんだ!?」小さくそう叫んだ。


 よくよく考えてみれば、班員で行動するのだから新しく仲良くなろうにも男子二人と薔子しかいない。薔子は既に仲は良いし、他の班の人に話しかけるにもまず見つけなくてはいけない。みつけたところで同じペース――現在はサクラのペースで班員は山を登っている――で歩かなければいけない。体力に壊滅的な意味で自信を持っているサクラにはまず無理だろう。


 ちょっとした絶望が、サクラを襲いつつあった。食事の時間にカレーのルーを分けてもらう名目で、誰かに話しかければよかったと後悔する。ふたつ結びのお下げとともに肩を落とす。


「ちょっと、サクラどうしたのよ」ひそひそ声で薔子は心配そうに訊いてきた。

「ちょっと己の不甲斐なさにうちひしがられてる……」

「なにつりばかみたいなこと言ってるのよ。バスの時の威勢はどこいったのかしら。親友つくるんじゃなかったの?」


 歩きながら会話は続く。男子二人は前を先行している。


「うえぇぇ……。その相手がいないことに気づいたの」

「相手ならいるじゃない。ほら」と言って前方の楽しそうに会話している二人を薔子は指さした。


「えっ、男子?」

「まぁ異性はハードル高いと思うけど、仲良くなるくらいならできるでしょ?」

「う~ん」


 サクラは腕を組んで考え込むように唸る。


「仲良くなるためにはまず相手を知ることから、そして自分を知ってもらうことが大切よ。ふざけてるだけでもなにかしら相手のことわかるんじゃない?」後押しするような口調で薔子は言った。


 考え込もうとしたサクラだが、考えてしまうから行動できないんだと無理やり納得し、薔子の教え通り二人と会話してみることにした。


「でもどうやってあのふたりの中にはいるのおぉ……」

「……まぁふたりとも変わった人間なのは否定しないわ」


 賑は見ていて楽しい人物ではあるが、どこか掴めない性格をしている。声をかけてもらう分にはいいのだが、こちらから声をかけづらい独特な雰囲気を持っている。幻をみているような、蜃気楼をつかもうとしてしまうような、ある意味不安定なものを相手にしているような、うつろう感覚。


 サクラは彼の快活奔放な姿をみてそのように感じていた。


 須冷賑(すれい しん)と関わった人間は、まずサクラの感じたようなことは思わない。


 初対面ならば変人、少し鋭い人間や少し彼を知った人間なら、ふざけていながらも根は真面目なやつ。


 彼という人間を一言で表すとすれば、“いいヤツ”。


 そんな風に言うだろう。


 サクラという人間は、そこに得体のしれない“不安定さ”と“違和感”を覚えていた。それをなぜ感じたのか、なぜそう感じるのかはサクラ自身には皆目見当のつかないものであったが、ひとつ分かってしまったのは“自分と似ている”ということである。


 はたからみればまったく系統の違う人間のタイプ。


 内向的で自分の本心をあまり表に出せない独りぼっちのサクラ。


 みんなの中心で騒いでは周囲を明るくさせるシン。


 自然と自分の周囲が賑わう菊重(あきしげ)かなたとはまた違った存在だった。


 彼女と自分には決定的な“違い”をサクラは感じたが、賑に対しては同族をみているような感慨があった。


 なにかがあって、なにかが、ない。


 そういう同族としての意味でなら賑とは仲良くなれるような気がする。


 直感、というやつだろうか。


「吉野さん、大丈夫?」大和が足を止め、心配そうにこちらを振り向いていた。


 サクラは河原大和(かわはら やまと)という人間の性格に対して、なにも感じなかった。彼はどんな人間なのか。その問には応えられない。


 それはそれというもの。そうあるべきもの。自然の理とも言い換えられる。当たり前という、よく考えれば異常なことを普通にそういうものだと感じていた。


 なにも感じない。虚無。


「あ、うん。大丈夫」


 自分のペースに合わせてもらっている身としては申し訳ないと思いつつ、頑張らねばとやる気を起こす。登山再開。


 同時に会話のチャンスだと思い、サクラは話題を振ってみる。そんな頑張っている姿を薔子は口を緩ませながらみていた。


「みんな中学の時とか運動してたの?」

「うん? いきなりだね。僕は特になにもしてなかったかな。転校とか多かったし」


 大和は相変わらず前髪で片目が隠れていた。見づらくないのだろうかとサクラは思う。


「転校多かったんだー」

「まぁね。両親の仕事が忙しくてね」

「大和はさぞ寂しかったろう。仲のいい友ができても離れなければならない辛さ。子ども心にはざくっと刺さる」うんうん、となぜか頷きながら賑は相槌を打っていた。


「つりばかはなにか部活とかやってたの?」ついでのような感覚で薔子は訊いた。

「ぼくかい? ぼくは皆の瞳を釘付けにするバレーボールをやっていたさ。今はもう辞めてしまったが、あの輝かしい日々は忘れられない」両手を広げ、胸を張りながら賑は応えた。


「バレーボール? 男子のってなんか球がはやくて怖いよね」

「なにを言っているんだいサクラ君。そこには漢の魂が宿っているのさ。魂を込めた一球入魂のスパイク。そこに人間は魅力を感じ、魅入ってしまうのさ」


「あら、意外と熱いとこあるのね」

「ああ! いま思い出すだけでこの身が熱く焦がれるよ! あの球が身体に当たった時に感じる衝撃! 漢の魂を感じる痛覚! たまらない!」

「……ちょっと感心した私がバカだった」はぁ、と薔子はため息をついた。


「ふっ。薔子も想像して漢のバレーボールの魅力に取りつかれてしまったのかな?」

「気安く名前で呼ぶな!」

「あっはっはっは、まったく照れてかわいいなぁ」

「こんのっ!」


 といって薔子は賑の鳩尾に正拳突きを入れた。それだけでは満足できず、さらに様々な追い討ちを仕掛けている。


「あはは、ふたりとも楽しそうだね」大和はサクラの隣に並んで言った。

「ふふっ。そうだね」ちょっとだけ須冷君が可哀そうだけど、とサクラは続ける。


 ちょっとした昂揚感がサクラにはあった。少し楽しい。


「吉野さんは中学の時、なにかしてなかったの?」

「私?」


 ちょっとした不意打ちをくらったような気分だった。自分のことを訊かれるとは思っていなかった。


「あはは、ごらんのとおりなんにも。こんな山登りに必死になるくらい運動音痴だし。ごめんね、私体力なくて」

「はは、大丈夫だよ。そんな急ぐことでもないから」

「まったくよ。体育の時間にパートナーを任される私の身にもなってほしいものだわ」


 ちょっと満足げな顔をした薔子が帰ってきた。その後ろにはボコボコにされた賑が倒れている。


「ふ、ふっ、か弱き乙女に是是非非の気遣いは男として当然。疲れたら歌えばいい!」


 そういうと賑は立ち上がり、おもむろに拳を口元にあてがい喉を鳴らした。


「えっ、歌うの?」驚いたのは大和だった。誰だって驚く。

「では一曲。んっんー。――あるぅひ~。もりのなか~。くまさんにぃ~であぁたー」


 無駄に抑揚の効いた発声だった。


「幼稚園児かっ。騒いでないで先を急ぐわ――よ?」


 野次を飛ばした薔子は目の前に突如として現れたそれをみて硬直した。


 黒く毛深い大きな巨体。黒い瞳に禍々しく大きい爪。そして喉を鳴らし、低く唸る。


「熊……」


 道を遮るように両腕を広げ、熊がこちらをみつめていた。班員全員、四人の動きが止まる。ひそひそと薔子は賑に耳打ちをする。


「ちょっと! あんたのせいでほんとに熊でちゃったでしょ!」

「ぼくのせいだっていうのかい?」

「ど、どどどどどうすればいいの!」サクラは慌てふためく。

「まぁまぁ、騒いだり危害を加えなければそんな危なくは――」


 皆を落ち着かせようと大和は説得をしようとしたが、それは賑の叫びによって無意味に帰してしまった。


「ふっ! クマ相手だろうがこの僕がっ! この危機的状況を打破してみせる!」

「グオガアアアアアアアアアアアアアアァ!」

「ばっかなにやってるのよおお!」


 熊が襲ってきた。選択の余地はなく四人は走って逃げる。進行方向とは真逆になってしまうが仕方がない。来た道を走る。


「こっちだ!」


 大和は山道を外れた横の獣道へと皆を誘導する。比較的地面の整っている道だ。大和はこのまま山道を遡っても他の生徒にも危害が及ぶと考え、瞬時に道を外すことを決断した。


 大和は先導し、それに三人は続く。


「ふむ、怒らせてしまったか」走りながら賑は肘をつく。

「あったりまえでしょなんで叫んだのよ!」薔子は賑の背中を思いっきり叩く。

「吉野さん! 大丈夫?」

「ふぁ、……ふぁい、なんとか」


 そして少しの間、四人は一心不乱に走った。


 そんな非日常的出来事を茂みの影からみている三人がいた。


「姐さん、完全に出るタイミングあの熊に取られましたね」

「いやいやなんでこんな山に熊がいんだって! あたしらが用意した着ぐるみ意味ねぇし!」

「……太田さん。かわいかったなぁ」



***************************



 熊の姿が見えなくなって四人は一息ついたあと、もとの山道に戻ろうとしばらく歩いた。しかし、完全に道を見失ってしまった四人はあろうことか迷子になっていた。


 山の勾配も少しきつくなってきた。景色は相変わらず木々が生い茂っている。そして、バスガイドの言っていた通り点々と人工物のようなものがみえてきた。岩でできた崩れた灯台。朽ちた立て看板。ちょっとした神秘的な雰囲気を放っているような気が、サクラにはした。


 迷子という状況もあってか、不気味なものを感じる。どこをどう歩いたらいいのか分からない不安。これからどうなってしまうのだろうという気持ちが、サクラに焦燥感を煽っていた。怖い。


 そんな胸中不安のサクラとは裏腹に、三人はとりたて慌てるような様子もなく非常に落ち着いていた。


 現在は道なき道で休憩兼これからの行動について話し合っていた。


「さてさて、どうしたものかしらね」腕を組み薔子は木にもたれる。

「まぁ最終的に目的地である山頂付近の集合場所に間に合えばいいわけだし、もとの道に戻らなくてもいいよね」

「緑生い茂る迷宮(ラビリンス)。中々面白いじゃないか。これを踏破した時、ぼくはまた新しいなにかを得るだろう」

「…………」


 自分だけ不安がっている状況が馬鹿馬鹿しくもあり、不安ではあるがサクラはある程度は冷静になれていた。というより周りが大人すぎて怖い。


「や、休んでていいのかな……」なんとなくサクラは思ったことを訊いてみた。

「いつまでも休んでるわけにはいかないけど、もとの山道に戻るかここから集合場所に向かうか決めるべきね」

「う、うん。わかった」


 これは私の出る幕はないな、と思いサクラはそそくさと会話から抜け出す。


「さて、どうしようか」大和は潤滑に会話を進める。

「ま、さっさと決めちゃいましょ」

「――よし! ちょっと待っていてくれ」


 といって賑は上をきょろきょろと見始め、一本の木に視線が止まるとその木を登り始めた。


「賑、どうしたんだ?」

「ついにばかを極めて猿になったのかしら」


 二人の言葉は賑に届かず、早々と木を登りきる。そして少し静かになり、そしてまたガサガサと木を揺らしながら降りてきた。


「なにしてたの?」サクラは賑に訊いた。

「ふっ。なに、迷子は平面的にではなく立体的にみれば簡単に解決するのさ!」


 自信満々の顔で賑は続けた。


「木の上からこのあたりを俯瞰して見てみたが、近くに頂上へと続く道があった。さっき歩いていた道とは違う古道のようだった。ふっ。自分の機転の良さが恐ろしいよ」





 賑が見つけた古道を登って山頂へ目指すことになり、七班一行は比較的近くにあった一本の古道へと出た。先ほど歩いていた山道は道が平坦で、ごつごつと隆起した部分はない適度に整備されていた道だったが、サクラ達の眼上に続く険しい道は簡単に歩けるという先入観をぶち壊していった。


 大木の根でいくつもの複雑な段差がある。そこにちょっとでも足を躓けば、大小さまざまな形をした、苔の生えた岩が道外れに並んでいて牙を光らせている。


 まだ午後の二時の時間帯なのに、ほんのりと薄暗く静かで、神妙な雰囲気を漂わせている。大木の枝葉のせいで太陽の光が差し込みづらいのだろう。サクラは頭上を見上げた。


 はるか遠くに感じる大木の枝葉が、ちらほらと悪戯に光の姿を現させる。決して慌てずに、静かに、光を晒し、隠す。


「……この山の木って、こんなに背が高かったっけ?」サクラは見上げながら呟いた。

「さぁ、私にはよくわからないわ。なんか雰囲気に呑まれてるんじゃない? ここ薄気味悪いし」


 行くわよ、と言って薔子はサクラの両頬を両手で引き伸ばし、前を向かせた。


「現実逃避してたのに」

「逃げててもなにも始まらないわよ?」


 頬を膨らませるサクラに対して薔子は言った。


「過去古くに使われた古道、いまは見る影もなく、ただ幽玄なる神秘と閑静を残してここに佇む。――っは、僕はなんて道をみつけてしまったんだろうか!」


 両手を広げて賑は目をふせ、かっこつけているようだった。


「サクラはサクラでぽかんとしてるし、あんたはあんたでばかだし、ホントため息しかでてこないわ」はぁ、とため息をつき冗談交じりで薔子は呆れた。

「みんな元気だね、この調子なら山頂まで大丈夫そうかな」


 大きな岩に寄りかかって大和は腕を組んでいた。それを解き、山頂へと続く道へ一歩足を出す。


「そろそろ登りはじめようか。さっきの道とはうってかわって険しいから、足元を確認しつつ、しっかり登って行こう」




****************************



 そして、三つ子山大津山南に位置するサギリ山、その山頂。空模様は段々と赤みを帯び始めていた。


 眼前に広がる壮麗な景色はどこまでも突き抜けていて、反対側に位置する北のサズチ山が見える。まだ五月というのに夕焼けのような景色になっていく山頂の眺めに、サクラの気分は秋の憂いを感じるようなそれだった。


 あれから、といっても古道に出てから山頂を目指してからのことだが。特になにごともなく道なりに進んでいたら山頂へと着いた。通常のルートより古道のほうが距離は短いようで、先に出発していた班よりもはやく7班は到着した。


 集合場にはブルーシートを大きく広げて景色を堪能している2年担当の先生たちが談笑していた。サクラたちが通常の道ではなく、いきなり林から現れたことについては目を丸くして驚いていたが、特に咎められることもなく穏便に終わった。


 というより生徒そっちのけで、魔法瓶を片手に景色を楽しんでいるようだった。


 到着から時間が経過し、そろそろ山を下りなくてはいけない時間。サクラは柵に手をつき、じっと景色を眺めていた。


 定まらない目でぼーっとサズチ山を見る。


「いよっす。サクラ」


 小さく見えるサクラの背中に、フレンドリーな声がかけられる。その人物は白のパーカーに中蘇芳なかすおう色のミニスカートを履いていた。


「ハルちゃん」


サクラは振り返り、ボブカットでつり目のハルの顔を見た。少しはにかんでいる。あどけなさが残る童顔に微笑みが相乗して可愛さ二倍だった。



「おまたせ」

「――うん。まってた」


 ハルはサクラの隣に立ち、柵に肘をつきながら景色を眺めた。赤いスカートが風で少し揺れる。


「こんなにきれいな山でもゴミはいっぱい落ちてるもんだね」

「そういえばハルちゃんはゴミ拾いのボランティアやってたんだっけ」

「うん。まったく。あのおばさん三人衆、作業中でも私にちょっかいだしてきてさー」


 いつも放課後に一緒に帰っているときのように、ふたりで談笑する。


 山登りで熊に遭ったこと、迷子になったこと、この山に古道があったこと、結局友達をつくろうにもできなかったこと。ハルは時に相槌をうってくれながら、そういえばゴミ拾いをしている最中にかわいい熊の着ぐるみを拾ったことを話した。そんな風にいつも通りに会話をする。


「でもさ、ちゃんと親友をつくろうって思って行動にしたのは偉いと思うよ」


 ハルは柵に腰をかけ、空を見ながら言った。


「いままではなんにもしてなかったじゃない、サクラはさ。今日はただ男子と会話したってだけだけど、ちょっとは前進し始めたんじゃないかな」

「そうかな」


 ハルの声はちょっと真面目だった。なにかを覚悟しているような、例えば、誰かを殺しでもしようというような、そんな密かで強い感情が隠れているような気が、サクラにはした。


「まずは第一歩だよ。そこからどうするか。前へと進み続けるのか、諦めちゃうのか」

「…………」

「そこが大事だと思うよ、私」


 サクラは黙っていた。よくわからない漠然としたもやが胸に溢れかえる。そして同時に、あることを思い出していた。


「サクラ?」


 いつのまにかうつむいていたサクラを覗き込むようにハルは窺った。


「――えへへ。ちょっとへんなことを思い出してね」


 サクラは騙すように笑った。


「どうしたの? なんか今日のサクラは変」

「まぁ、私にも色々あるんですよ」

「色々って?」

「……ぅぅ」


 サクラは本気で困った様子だった。ふたつ結びのおさげが揺れる。


「まずは一歩、だよね」


 サクラはそう小さく呟いた。


「ちょっとした昔話を、きいてよ」


 そういったサクラの表情は笑っていたが、悲しみのような、後悔しているような顔は隠しきれていなかった。その表情は、ハルにとって親しみのある人物を想起させた。


「――昔々あるところに、ふたりの姉妹がおりました。その姉妹はとある国の主君の娘たちで、姉は不思議な力を持っており、その力を巡って様々な争いが起きました。対する妹は誰をも魅了する端整な美貌の持ち主でしたが、病弱であまり世間には顔を出せずにいました」


 ハルはなにかを言おうと、相槌でも打とうかと口を開けたが、それはなぜかできなかった。


「そんな姉妹ですが、姉には許婚がいました。姉の不思議な力を巡って政略結婚や暗殺など企てる輩がたくさんいましたが、その結婚によって抗争も落ち着くだろうと両親は考え、姉を嫁に出そうとしました。案の定、その関係を公にすると大規模な抗争の数は徐々に減っていきました」


 ひんやりとした風が二人の肌を撫でる。


「二人の結婚も間近のある日、姉の許婚は妹である娘に見舞いに参りました。自分が義兄になることを含め、挨拶に参ったのです。日本家屋の別館にある寝室に静かに眠る妹。彼は彼女を一目みた瞬間、なんと恋に落ちてしまったのです」


 そういってサクラはニコニコと、本当に嬉しそうにはにかんだ。さっきとはうって変わって、明るい表情だった。まるで誰かに告白をされて照れているようだ。


「彼はその刹那にすべてを忘れ、婚約者の妹である彼女に求婚しました。でもそれは叶うはずもなく、約束通り姉と縁を結び、両家の両親は嬉々と祝砲を打ち上げました。しかし、彼はいくら日が経っても妹のことを忘れられない。悩んでいました。そして姉との生活に不満を覚えた彼は忘れられない妹のもとへ、姉を捨ててまいりました。たとえ病弱であろうとあなたを愛する気持ちは変わらない、そんな言葉とともに」


「なんか、熱いね。ドラマみたい」


「うん。――そして、捨てられた姉は彼が妹のところへ行ったことを知り、妹を恨むようになりました。自身の不思議な力で妹を呪いました。妹にかけられた呪いはどんなものか分かりません。姉は愛していた夫が妹に奪われ、嫉妬に狂い、半狂乱になってすべてのものを呪い始めてしまいました。自分ではもう止まれません。妹は姉に対して良くない感情を持ちました。しかし、姉を止められるのは私だけだ、と妹は思いました」


 今度は考え込むような、神妙な顔つきになっていた。


「そして、妹は姉を止めました。終わり」


「えっ」


 唐突に話は終わった。


「ちょちょちょっどーゆうこと! どうやって止めたの! 姉の不思議な力を病弱な妹がどうやって!」


「ま、まあまあ。なんか思いつかなくて」

「思いつかないって! ただの作り話なの!? サクラには関係ないの!?」

「え、えっとおぉ……」


 サクラはおもむろに顔をそらし、背中を縮こませて頭を掻いた。


「……サクラ?」

「ご、ごめんなさい。私には姉妹がいて、おねぇちゃんが豪快な人だから羨ましいなぁって思ってたってことを言うのが、そ、その……」

「なにもじもじしてんの」

「そのぅ……」

「そのぅ……?」

「は、はずかしくて……」


 その声は消え入りそうなほど小さかった。サクラの顔は空よりも真っ赤に染まっていた。


「ぶふっ」


 そんなサクラをみてハルはなぜか笑いをこらえきれなかった。爆笑した。お腹を抱えて笑った。抱腹絶倒というものを体現していた。


 笑ったことに特になんの意味もなかった。なぜこんなにも純真無垢な少女が様々な殺し屋に狙われているのか。こんな人物を殺したところで特になんの意味もないような気がする。そんな風に滑稽にみえたのかもしれない。


 たしかにそこには何かしらの理由があるのだが、ハルにとって目の前の吉野桜という人物は、既にただの目標物としてではなく、一人の友人として見え始めていた。


「うっぅぅぅ。笑わないでよー」サクラは手で顔を隠しながら、まだ笑っているハルをたしなめた。

「あっはははははは。ごめんごめん。なんか真剣な顔だったからそんなことだったんだと思ってさ」


 お腹をまだ抱えながらハルは立ちあがった。


「なんかちょっと、私も苦労したときのこと思い出してたから真剣に聞いちゃった」


 そして、兄のことを思い出した。


「サクラー」


 かけられた声のほうへ振り返ると、薔子が腕を組みながらこちらに近づいてきていた。


「あっ、しょうちゃん。どうしたの?」

「どうしたの、じゃないわよ。そろそろ山降りるわよー」

「りょーかいっ」


 ふぅ、とため息をついた薔子は、サクラの隣に並んでいる短身の人物をいぶかしげな眼で嘗め回すように見た。


「……かわいい」

「えっ」


 眼鏡越しの薔子の目とややつり目のハルの目があった。


「えと、こちら私のクラスメイトの春日井薔子さん」

「どうも」


 サクラがハルに紹介すると、薔子はお辞儀をした。


「で、こっちが手弱女春さん。いつも話してる子」

「ど、どうも……」


ぺこり、という擬音が出てきそうなお辞儀をする。


「えへへ……」


 そしてサクラは照れた。


「…………」

「…………」


よくわからない微妙な空気が三人を取り囲む。


「って、照れてどうする。山そろそろ下りるんじゃないの」

「そうよ。男子はもう準備終わったからあとはサクラだけよ。はやく準備してきなさい」

「えー。しょうちゃんのイケズ。三人でお話したかったのに」


 ぶつくさいいながらもサクラは荷物の準備をしにその場を離れた。


 残された二人。


「…………」

「…………」


 訪れたのは沈黙という金縛りだった。空はほんのり薄暗くなり始めている。風で枝葉がゆったりと揺れる音。ハルの背後には見晴らしのいい景色。一見すれば心地よい絵面だが、当の二人にとっては銃を向けられた人質のような心境だ。


「私は」


 先に口を開いたのは薔子だった。


「何でも屋をやっている、なんていう人を信じることはできないわ」


 腕を組みながら、眼鏡の位置を直す。


「サクラは純粋な子よ。うしろ向きなところが多いけど、ちゃんと自分から踏み出そうと頑張れるところもある。だから貴女が彼女を騙してなにか害のあるようなことをしたら」


 薔子はハルの目をみた。それはにらみつけるというより威嚇しているような、


「許さないから」


「……はい」


 鋭い瞳、だった。


 対するハルは縮こまっていた。親に叱られているような気分だ。彼女の瞳をみたからではなく、その人物自体の雰囲気に先ほどから怖気づいていた。薔子という人物の、第一印象は怖い、だった。


 そばにいるだけで食べられてしまいそうな、身体の危険をハルは感じていた。薔子がなにを言っているのか、実際はよく分かっていない。なんとなく怒られたような気がして適当な返事をしてしまった。そんな感じだ。本人は至ってまじめな話をしているのだろうが、ハルにとっては早くこの場を立ち去りたくてどうでもよかった。


「……ま、かわいいから許すけど」

「えっ? いまなんて?」


 薔子はぼそっと吐き捨てるようになにかを呟いたが、ハルの耳には届かなかった。


「しょうちゃーん」

「あら、サクラ。準備は終わったの?」

「うん。忍者のごとくささっとしてきたよ!」


 リュックサックを背負ったサクラが手を組んで忍者の物真似をする。それを見て薔子は腕組みを解き、ハルに向き合った。


「それじゃあ手弱女さん、私たちは山を下りるわ。また機会があれば今度はゆっくりお話しましょう」

「は、はいっ。それよりさっきはなんと?」


 ハルの疑問に応答はなく、そういって二人は踵を返し、男子たちと合流して山を下り始めた。別れ際、ほんのり薔子の頬が赤くなっていることにハルは気づかなかった。



***************************




 ――夕方の山頂。


 だんだんと冷え込みは増し、肌に冷たさが張り付く。日も落ちかけ夕闇の暗さになると、さきほどまで瑞々しくも閑静だった森林たちはざわざわと騒ぎ立てる。あくまで静かに、ひそひそ声で会話をしているかのように。幽玄な雰囲気と静けさが相まって、ハルの呼吸音がその辺り一帯にまで聞こえるような錯覚をおぼえる。


 ぽつんとひとり残されたハル。


 ハルは特に寂寥感や虚無感を、その場の雰囲気に呑まれて感じているわけではなかった。


 むしろ感じているのは焦燥感。しかし冷静でいる。


 腕を組み、肘をついて考え事をしていた。


 春日井薔子との接触。あの短い時間で彼女のことをただ怖がっていただけだったが、それとは別に、違うなにかをハルは感じたような気がした。


 どこかで感じたことのあるような、デジャブのような感覚。


 暗闇の中の一本の絹糸を探し当てるように記憶の中を探る。


「うーん」


 時間を気にせずゆっくり考えてみたが、結局どういったものなのかは分からなかった。それよりも、今日サクラが話した内容にどうしても注意がいってしまう。


 ――ただの作り話なのか?

 姉とその婚約者とサクラを巡ってのドタバタ劇、という風に捉えることはできないか?

 それに、はじめてサクラの身辺情報を得られたような気がする。


 内容はかなり誇張されたものだったが、ハルにとっては笑い飛ばせるような内容でもなかった。


 兄がああなってしまった原因。それと少し似ている。


「…………」


 ぼんやりと、その時のことを思い出してはため息をつく。やるせない気持ちと、自分を言い聞かせる言葉が何度も頭をよぎる。


 白のパーカーポケットに両手を突っ込み、空を見上げる。目線の先には埃のような大きな雲が、星々を覆い隠していた。昼頃は晴れていたのに、とハルは肩を落とし落胆する。


「あ、今日の仕事忘れてた」




*********************



 いつもの帰り道。サクラはすっかり暗くなった桜並木の道を薔子と一緒に歩いていた。薔子と一緒に帰るのは初めてだった。


「ねぇ、サクラ。今日一緒に帰らない? 色々と話したいこともあるしさ」


 遠足から学校へと戻り、学校で薔子にそう誘われた。特に断る理由もなく、サクラは二つ返事で応えてしまった。


「今日はなんだかんだで楽しかったね~」


 ふたつ結びのお下げを揺らしながら、サクラは薔子に語り掛けた。


「そうね。私はまたトラウマを軽く植え付けられたけど」

「あのカレーはなんかもう、人の食べ物じゃない。生命体だよ」


 二人は昼食に食べた胃で動くカレーを思い出し、優しく自身のお腹をさすった。まだ得体のしれない気持ち悪さが腹部に残っている。


「まさか河原くんがあんな味音痴だったなんて。普段は大人しくて頼れる人なのに」

「私はあいつを許さないわ。料理だけは失敗したくなかったのにあのやぎ男は」

「でもしょうちゃん、須冷くんとは結構仲良さそうだったね」


 そういわれた薔子の顔は呆気にとられたような表情をしていた。


「なに馬鹿なこと言ってるのよ。あいつはほっといたら面倒を起こすだけ」


 薔子は腕を組んでそっぽを向いた。


「うっふっふっふ」


 サクラはわざとらしく手のひらを口元に置き、にやにやしながら薔子の顔を覗き込む。


「な、なによ」

「いやぁ? しょうちゃん、ひょっとして、須冷くんに気があるんじゃないのかなぁって」


 その言葉をサクラが発した瞬間、薔子はこれでもかといわんばかりに目を見開き、全身の身の毛を逆立てた。


「ばっ、そんなわけないでしょ! なんで私があんな馬鹿で面倒であほのこなんかを気にかけなきゃなんないのよ!」

「必死で抵抗するところがまた……」

「私は小学生かっ!」


 困惑する薔子をみながら、サクラは考えていた。


 こんな風に、笑いあえるのって楽しい。なにげない会話だけど、こういう何気ない会話が幸せに感じる。遠足に行ってよかった。普段知ることができない、人の側面を知れた。須冷くんは意外と頼りになるところがある。河原くんは料理が苦手、しょうちゃんは……。


 いつまでも、この時間が続けばいいのに。


 ふと、サクラは思った。親友って、薔子のような人なのかな、と。


 自分がただ気づいていないだけで、自分の望んでいたものはもうそこにはあるのかもしれない。


 気づくきっかけがないだけで、本当は既に持っているもの。


 サクラにとって、喉から手が出るほど求めてしまうもの。


 求めずにはいられないもの。


「…………」

「……サクラ?」


 薔子の呼びかけに気づかず、サクラは思いつめた表情で歩く。


 ――最も欲しいものがいま、手に入ろうとしている。しかしそれは、得ることで満足感や幸福感を得られるようなものではなかった。むしろ、サクラにとっては不安になる要素。


 たしかにそれは欲しいが、手に入れてしまったら今度はそれを失うのが怖くなる。昔のようなあの気分(・・・・・・・)はもう二度と味わいたくなかった。それを思い出すと、胸が抉られる。


 ただ欲しがっていたい。追いかけているだけでいい。


 なあなあの自分。中途半端な自分。過去を引きずっている自分。


 それでいいと、自分を正当化していた。


「ねぇ、しょうちゃん」

「どうしたのよ?」


 真っ暗な夜空の下、表情を隠すように空を見上げながらサクラは言った。いまは顔を見られたくなかった。


「今日ね、ハルちゃんに山頂で言われたんだ。なにもせずにいるよりは第一歩から、そしてその次が大事だって」

「うん」

「私は親友が欲しいって言ってたけど、いままでは追いかけるだけで満足しちゃってた」

「欲しくなかったのかしら?」

「ううん。親友は欲しい。けど、大切な人をもう作りたくない、失いたくないっていう気持ちがあって」


 自分の人生の道のりにいるのが自分ひとりだけ、それは寂しい。


 でも同時に私は大切なものを失って傷つきたくない。


「欲しいのに失いたくないって臆病になってた」

「……そう」

「もし、もしさ」


 サクラは震える唇で言った。


「しょうちゃんが親友だったら私はまた不安になるのかな?」


 変な質問だった。


 サクラにもそれはわかっていた。昔を思い出して混乱していたのかもしれない。ただ不安になって、大丈夫だっていう言葉が欲しかったのかもしれない。


 ただ私を安心させて、そんな醜い心の表れ。


 薔子はそれを聞いて、怯えているこどもを見ているような気分になった。


「はぁ、あんたはなにをいっているのよ」


 薔子はため息をついた。


「大丈夫よ、もう不安にならなくていいのよ」


 こどもを安心させるように、背後からサクラを抱きしめる。


「もうサクラは大切なものを失わないわ」


 首に腕を回し、身体と身体を密着させる。ほのかな体温が、互いに互いを伝える。


「しょうちゃん……」

「だって、あなたはここで終わるのだから」


 薔子の言ったその声は冷たかった。


 薔子は右手に握っていたナイフをサクラの首元に突き刺し、勢いよく横へ引き裂いた。


 まだ温かい血液が勢いよく飛び散り、薔子の腕をゆっくりと滴った。


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