キクノハナ
1学期が始まってから1ヶ月が経とうとしていた。真っ白な羊の綿毛のような雲が、安穏とした動きで今日も空を漂っている。生徒たちは新しいクラスにも慣れ始め、授業中の睡魔と闘う日々を過ごしていた。
「はぁ。だるいわ」
女子更衣室のロッカーを閉めながら薔子はため息をついていた。身体の全身からだるさを吐き出しているかのようなため息だった。
「しょうちゃん着替えるのはやっ!」
制服の上着を脱ぎながらサクラは言った。
「サクラはノロマなのよ。さっさと体育着に着替えなさいよ」
「う~。体育やだなぁ」
2年2組の次の授業は体育だった。御車高校には男女別に更衣室が用意されており、体育の授業前ではそこで体育着に着替えることになっている。
薔子は更衣室に設置されているベンチにどっさりと腰を下ろした。
「はぁ。なんで明日の遠足が登山なのよ。遠足とは名ばかりじゃないのよ」
喉に溜まったけだるさのようなものを吐き出すように小さく嘆息する。
「あはは、また薔子がグチグチ言ってる~」とポニーテールのクラスメイトは、制服のYシャツのボタンを開けながら言った。
「うっさいわね、毎年近くの山に登山に行く学校行事ってなんなのよ。それを遠足なんて言わないで欲しいわ。」ポニーテールのクラスメイトに向けて薔子は言った。
「薔子は去年に転校してきたからね~。知らなかったのも無理ないか。私は結構楽しかったよ? 去年登ったとき」
「うぇ~。あんなのどこが楽しいの?」別のクラスメイトが薔子の隣に座ってそう言った。
「ふたりとも運動神経いいから別にいいじゃん。私、去年の遠足のあと筋肉痛で3日くらい動けなかったんだから。」とふてくされたような声を続けてだす。
「わ~いやだ。俄然やる気が出ないわ。明日の遠足がヨーロッパとかだったらいいのに」
嫌々となにかを振り払うように薔子は頭を振る。
「私もヨーロッパのほうがいい! ヨーロッパで美味しいもの食べたり、街中を並んで歩いてる男性二人をみて色々想像したい!」
クラスメイトは先ほどとはうって変わって嬉々とした声で言った。両手を胸の前で組んでいる。
「ま、街中を並んで歩いている男性ふたり?」
薔子は少し頬を染めて隣に座っているクラスメイトへ素早く首を振った。しげしげとクラスメイトの口の動きを見つめる。
「そうだよ! ヨーロッパは同性愛が認められている聖地だからね! 公共の場で男同士が手を握り合ったり、抱きしめ合ったり、イチャラブしているところが見れるんだよ!」
突然その場に立ち上がり、握りこぶしを作ってクラスメイトは語りだした。政治家の演説のような力強い口調だった。
「ど……う……せい、あい……?」
「親友との寂しい男二人旅。慣れない異国の地で普段は気づかない親友の頼もしさになぜか胸が高鳴る!」
「胸が……たか、な……る?」
「今までにないこの感覚、原因は分からないけど不思議と嫌ではない。そして彼に近づくたび鼓動ははやくなっていく!」
「はや、く……なって……!」
「そして夜のホテル、ふたりっきりになった途端何かが外れたかのように親友に抱きついてしまう!」
「だきついて……!?」
「そして親友は彼を優しく包み込む!! こんなことが毎日毎日夜のヨーロッパで行われているのだ!」
「……………!」
拳を胸に当てて薔子は顔を真っ赤にしている。
「はぁぁぁ~! 私もヨーロッパ行ってみたいなぁ!」
「わ、わたしも……」
クラスメイトと薔子はヨーロッパの地へ向かって手を組み、想いを馳せた。目からキラキラとした光が出ている。ふたりの意識は完全に別の世界へ向かっていた。
「おーい、おふたりさーん。ヨーロッパは国じゃなくて大陸だぞーっと」
およそ耳に届かないであろうとは思ったが、ポニーテールのクラスメイトはふたりにツッコミを入れてみた。ふたりの会話の間にYシャツをロッカーに入れ、体育着の上着を着ていた。ポニーテールのクラスメイトがズボンを穿いている最中に
「あ、あの……、ちょっと……」
という声がした。
その弱々しく細い声が三人の意識をサクラに向けた。
「ん? どうしたのサクラ――ってなにそれ!?」
「うわぁお。えろい」
そこには服装の乱れた女子高生がいた。制服のスカートが胸部にまで上がり、片腕がけがYシャツからむき出しになっている。某時代劇にある、肩の刺青を見せびらかすために肌を露出しているかのようだった。さらにリボンの紐が身体を縛り、制服や体育着を絡めている。
「たすけて~」とサクラは涙声で座り込んでいる。
「はぁ。どうやったらそんな風になるのよ」呆れた声で薔子はサクラの服装の乱れを解き始めた。
「スカートのチャックが取れなくて上から脱ごうとしたら脱げなくて……」
「ねぇねぇ、ベンチに片足のっけて『この刺青が目には入らねぇのかぁ!?』ってやってみて?」とクラスメイトは言った。
「私は将軍様じゃないよ!」
「微妙に違うし……」
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ダム、ダム、と一定のリズムが体育館内を震わせる。普段の教室よりもはるかに高い天井は、ちょっとした開放感を生徒に与えていた。
今日の体育の授業は、一年生と合同でバスケットボールをするという内容だった。体育館には2クラス分の女子生徒が集まり、一年生と二年生とで分かれて練習している。練習内容は特に指示されておらず、各々が自由に練習していた。友達とバスケットボールでパスの練習をしたり、リングにシュートをするといった活発な人もいれば、数人で固まっておしゃべりを楽しむ生徒や、体育館の端に座ってバスケットを傍観している消極的な生徒もいた。
とても授業と呼べる雰囲気ではなかった。というのも、体育を担当する男性教師はズボラで有名な人物で、授業でもそのズボラさは遺憾なく発揮されていた。基本的にその先生の授業は自由時間のようなものだ。
薔子とサクラは二人でボールのパス練習をしていた。
「ホント奈良坂の授業は楽でいいわねっ、と」薔子はサクラにゆったりとしたパスを出した。
「わわっ、と。逆に男子に申し訳ないよね。サッカー担当の芝埼先生って運動の鬼って言われてるくらい運動に対して厳しいんでしょ? ――そいや~っ!」
ふたつ結びのお下げが揺れる。
上半身のバネを最大限に生かし、全身全霊でサクラは薔子にパスを出した。しかし、サクラの全力投球はゆらゆらと弧を描いた後、明後日の方向に転がっていってしまった。薔子はため息をつく。二人の距離の半分も超えていない。
「あ、あはは、ごめんごめん」サクラは苦笑いを浮かべながら、どこかへ転がっていくボールを拾いに行く。
「……らしいね。さっそく男子は外周走させられてるみたいだし。サクラも参加して体力でもつけてきたら?」腕を組みながら薔子は言った。
「人間は長距離走をすると死にます」
「死にません」
床をコロコロと転がっていくボールを見つめながら追っていると、不意にボールが宙に浮いた。サクラがボールを追って目線を上げると、そこには一年生が立っていた。ズボンに1本の青いラインが入っている。二年生であるサクラのズボンには赤いラインの刺繍が施されている。
その一年生は透き通るような白い肌をしていた。見ているだけで雪を連想させるその艶やかな肌は、彼女の雰囲気に落ち着きと物寂しさを付与していた。
「あ、ありがとう。拾ってくれて。それ、私のなんだ」
サクラはニコッと笑顔をつくって感謝の意を表した。対する一年生は無表情でそれを受けた。肩までまっすぐと伸びた髪が、彼女の無表情に冷たさを増幅させる。サクラは笑顔の裏、内心はこう思っていた。
(ふふふふふ、ボールを拾ってくれたこのチャンス、一年生に友達を作れという神の思し召しか!? 同級生や先輩はちょっと怖いから、まずは年齢の低い後輩から友達をつくってコミュニケーション能力を高めるという作戦! 後輩で練習だ! 私ってば頭いい~。まずは笑顔! 笑顔から! そうすれば相手もフレンドリーに返してくれるはず!)
「………………」
しかし、サクラの胸中の思惑通りにはならず、一年生はサクラを怪訝な目つきで睨みはじめ、沈黙するだけだった。端整な顔立ちに似合わない目付きをサクラにむけている。
バスケットボールの体育館を震わせる音だけが周りに響いていた。
「え、ええっとぉ……」
「………………」
一年生はバスケットボールを持ったままサクラを睨み続けている。怪しいものを嫌々確認するような目つきで顔をまじまじと見られ、サクラは混乱気味になる。手で後頭部を掻いて困り笑顔をつくり、なんとか場をもたせようと試みる。
(ど、どういうこと!? 私なにかした!? えっそのままボールを私に返してもらえばいいんだけど、なに、私なにもしてないよ? なんなのこの子? 微動だにせず私のことにらみ続けてるよ。もしかしてボールを転がしてくるなってことかな? よくも邪魔してくれたなこの先輩野郎っ! とか内心で思ってるのかな。……えぇ、私が悪いのかな。私が邪魔したせいで友達どころか、2年生に悪印象を与えてしまった……。ごめん、ごめんなさいぃ。後輩で練習とか思ってすみませんでした。後輩怖い、怖いよぅ。というかハルちゃんと初めて会った時より怖いよこの人。)
「――ちょっとそこのあなた、いつまでこの私を待たせますの?」
サクラが内心怯えている中、唐突にかけられた声がふたりの硬直状態を崩す。そのあどけなさが残る声は騒がしい体育館の中でもはっきりとサクラの鼓膜を震わせた。
「え?」突然のことにサクラは先ほどの怯えた感情をどこかへ放り投げた。
「あなたですわよ、あ・な・た!」とサクラを咎めるように声の主は指をさす。
「この子からさっさとボールを取って相手のところまで戻れば、私もここまで歩いてくる必要はなかったのに。うじうじうじうじともったいぶっているからなにも解決しないんですわ」
フン、と腰に手を当ててサクラを一蹴するかのように威張る。冷ややかな雰囲気を放つ一年生は、そんなことを気にもせず無表情でまだサクラを見つめていた。サクラを咎めた人物もズボンに青いラインが入っている。腰まである長髪を後頭部で一本にまとめ、それが彼女の凛とした雰囲気、高潔さに拍車をかけていた。
いきなりのことでまだ頭の中で整理が追い付かないサクラだが、他人の持っているボールを無理やりひん剥いて奪い返すようなことは、あまり褒められたことではないということは分かっていた。
「で、でも、勝手にボールを取っちゃうなんて乱暴じゃないかな……」ともじもじ手遊びをしならがサクラは言った。
そんな態度をみて彼女は
「うるさいですわ! 自分のものなのだから、やり方はどうあれとやかく言われる筋はありません!」と自分の行いが正しいといわんばかりに胸を張った。
ひぃっ、と肩をすくめると同時に怯えた声をサクラは出した。その言葉と彼女の高圧的な態度に完全に萎縮してしまった。
彼女のような、自分に自信を持ち、思ったことをしっかりと言葉で発せる人間はサクラの苦手なタイプだった。自分のやりたくないことや間違っていると思っていることもそのタイプの人に堂々と言われてしまうと、それが間違っていると言えず、その人を正当化して自分の中で飲み込もうとしてしまう。簡単な話、影響されやすい性格なのだ。胸にもやもやとした不快なものを抱えたまま相手の意見を承諾する。
だから、押しの強い人には弱い。
「はい、これでよろしくて?」
彼女は一年生から豪快にボールを引き剝いて片手に乗せ、サクラに差し出した。自身に満ち満ちた表情だった。
「あ、ありがとう……」
いきなり現れて何だか分からない人だが、自分の苦手なタイプだと分かったサクラはさっさとボールを返してもらい、足早に薔子のところへ戻ろうと考えた。
おそるおそる両手を伸ばし、ボールを取ろうとする。しかし、つかもうとした手は空振ってしまう。サクラがボールを取る寸前に、彼女がボールを上げた。目を閉じ、ふるふると身体を震わせている。完全に怒りに耐える表情をしていた。
「……あー。あなたを見ているとイライラしますわ。二年生が一年生にとる態度とは思えません」サクラの怯えた態度に彼女は苛立ちを覚えていた。
「紫穂、あなたもそう思うでしょ?」
「…………」
「ふん、あなたも変わりませんのね」
返ってくる返事が分かっていたかのように、彼女は無言を気にも留めていなかった。
「ボール、お返ししますわ。」呆けていたサクラにバスケットボールが投げつけられる。
「あいたっ」サクラはその場にヘたれこんだ。
「ちょっとちょっと、なにしてるのよ」
薔子がサクラの傍に駆け寄ってきた。
体育館の中は相変わらずボールのドリブルの音や生徒の会話によって騒がしい。
「あ、しょうちゃん……」サクラの声は少し明るくなった。
「遠目から見てたけど、サクラがなんか後輩にいじめられてるようだったわ。遊んでいたボールを取られちゃった小学生みたいだった」薔子はサクラに手を差し伸べた。
「小学生……。うぐっ」
「こらこら、泣くなー」薔子は泣きじゃくるサクラの頭を撫でる。こどもを慰める親のようだった。
「あーらあら、ひとりではなにもできないんですの? 本当に憐れな人ですのね」
その光景を見ていた一年生は、手の甲を口元に置き厭味ったらしく言い放つ。薔子の表情が一瞬厳めしくなったのをサクラは見逃した。
「ちょっとそこの後輩、いくらサクラが情けないといっても、それは先輩に対する態度じゃないわよ」と薔子は言った。語気をなんとか強めないように努力した声だ。
「そうですわねぇ。確かにそのとおりですわ」
片手で腕を組み、それを肘の置き場にして人差し指を頬にあてがう。目線は体育館に取り付けられているバスケットゴールに向いていた。
「ですが私は、敬語の必要ない人間に敬語を使うほど落ちぶれてはいませんわ」
その言葉に思わず薔子は冷静さを失った。薔子は我慢できず、一年生の胸倉をつかむ。
「あんたいい加減にしなさいよ!」
その声は体育館じゅうに響いた。先ほどまでの喧噪は静寂へと一瞬で移り変わった。
そしてだんだんと周りの生徒たちはざわざわと騒ぎ立てる。
「おいおい、なにしてるんだ」
短髪で幸薄そうな顔をした男性が駆け寄ってきた。一年生の胸倉に掴まれている薔子の手を解く。
「喧嘩はやめろ。お前らもう高校生だろ。めんどくさいことになるのは分かってるだろうに。喧嘩なら休み時間にでもやれ」体育担当の奈良坂だ。
「先生、この子サクラのこと馬鹿にしたんですよ!? しかも初対面の年上に対してバスケットボールを投げつけたんですよ?」と薔子は言い放った。
「しょ、しょうちゃん、いいって……」
「菊重、またお前か。ちょっとは反省したらどうだ」
奈良坂は呆れ声で一年生の菊重と呼ばれた彼女に向き直った。
「あら、奈良坂先生。この菊重かなたが反省もせずなにも成長しないとでもおっしゃるんです?」胸を張って菊重は言った。なにか企んでいるような怪しい表情だ。
「その通りだよ。お前と出くわすたんびにめんどくさいことが起きてるんだからな」
「今回は心配いりませんわ。手間はかけさせません。――先輩方、バスケで試合しませんか?」菊重はしたり顔で薔子達に言った。
「は? いきなりなにいってるのよ」
「言った通りですわ。バスケットの試合をして今回の一悶着をすっきりさせようということですわ。私が負けた場合は素直に謝ります。ほかの生徒にも迷惑はかかりませんし、これが最善の手ではなくて?」
菊重がそう言うと、物静かな一年生、三村紫穂は無言で手を挙げる。
「ほら、紫穂も賛成してますわ。」
「いいじゃない。受けて立つわ!」
薔子は意気揚々と答えた。サクラが馬鹿にされたこと、馬鹿にしたことをおくびにも思わない菊重の態度に憤怒していた。
「おいおい、ふたりともそれでいいのか?先生としては面倒じゃなくていいんだが……」
と奈良坂は一応の確認をする。
「いいですよ。舐めきった後輩にちょっと人生教育してあげますから」
「しょうちゃん!?」勝手に暴走する薔子をサクラは止めようと話しかける。
「人生教育……? ふっ、いいですわ! それが必要ないことを証明してあげましょう!」
「ええ!?」
しかし、春日井薔子と菊重かなたの間に隙いる暇はなく、とんとん拍子に話は進んでいった。
「齢十六,七の娘が何をいってるんだか……。まぁいい、適当にやってくれ」
奈良坂は呆れつつ体育教官室に戻ってしまう。
「なんでこうなるのー!」
サクラの肩にそっと、三村の手が置かれた。
「あなたもなんとかいってよー! 私を無視しないでー!」
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「ルールは三対三のハーフコート、先に十五点以上入れたほうが勝ち。ゴールやファウルなどがない限り試合は続行、ゴールに入れたら攻守交替。こんなところでよろしくて?」
バスケットコートの中央に立つ菊重は淡々とルールを説明した。
「コート半分でいいの?」
薔子はバスケットボールをダムダムとつく。
少々冷静さを取り戻しつつあった薔子は大声をあげてしまったことに気づき、落ち着いている菊重を見てちょっとした虚勢を張っていた。年下は落ち着いているのに自分だけ昂ぶってしまったことが恥ずかしい。なぜこんなにも菊重は妙に落ち着いているのだろうか。
「私たちの喧嘩にはハーフで十分ですわ。周りに迷惑もかかりますし」と菊重は冷淡に言った。
三対三ということで、サクラは薔子の他に運動神経のいいクラスメイトに協力を頼んでいた。
「なんであたしも出るんだよ……」クラスメイトはポニーテールを結びなおす。
「ごめんねー。しょうちゃんが引いてくれなくて……」
「はぁ。まぁいいよ。あたしもさっきの見ててなんとも思わなかったわけじゃないし」
「私のせいで迷惑かけてごめんね」
「でも、薔子があんなにキレるなんて珍しい。なんか後輩に嫌な思い出でもあるのかな?」
「後輩、そっちが勝ったらどうするのよ?」コートの中央に立ち、薔子は言い放つ。
「愚問ですわ。私はなにも求めません。思ったことをただ言っただけですわ。なにかしてほしくてバスケットをするわけではありません」
「……騒ぎをおさめられればいいってことね。それを負けた時の言訳にしないでよね!」
「そんなことで手加減なんてしませんわ。いきますわよ!!」
そして二人の試合が始まった。
「それで? その試合はどうなったの?」
時刻は夕方、いつもの川沿いにある桜道。サクラは帰り道に今日あったことをハルに話していた。桜の花びらも残り僅かとなり、春の終わりを匂わせる。麗らかな日々は川の流れとともに次の季節へと移り変わりつつあった。川に流されてゆく桃色の小さな欠片たちが夕焼けに照らされ、個々が淡い煌めきを放つ。
二人で頬を赤く照らされながら、散りゆく桜道を歩いていく。
「それがね~、決着がつかなかったの。二人ともすごく運動神経が良くて、試合のほとんどがしょうちゃんと菊重さんの対決。私たちの出る幕がなかった。っていうより誰も二人のスペースについていけなかった!」
ふたつ結びのお下げを揺らしながらサクラは楽しそうに話す。にぱにぱと口角をあげているサクラをみていると、ハルは胸の奥から絡み合ったなにかが生じるのを感じた。
なぜこんなにも明るく無垢な存在が、命を狙われているのだろうか。
真っ当に生きていそうな人間なのに、詳細がまったく分からないという奇妙さ。
疑問と困惑が絡み合いながらハルを飲み込もうとする。そんな心の内の辟易はおくびにもださずにハルは普段通りに会話を進める。
「そうなんだ。私も運動はけっこう自信あるからふたりとバスケやってみたいぜ」
「えぇ~。ハルちゃん背ちっちゃいからバスケだと不利なんじゃない?」
「う、うるさい! バスケは身長がすべてじゃないんだぞ!」
「あはは。はいはい」
いつも通りの帰り道。一ヵ月ほどこのような日々を送っていた。二人でなんてことないことを喋り、川を渡る橋まで歩いてそこで別れる。時間が遅くなった日は近くにある屋台でご飯を食べてから帰路についたりもした。
変わりのない日常。だが、それがハルにとっては異常だった。
「くっ。私のすごさがわかってないんだから。――そういえば最近、この付近で物騒な事件が起きたそうだよ」
先日行った学校内での仕事を確認するべく、ちょっとした鎌をかけてみる。
「えっそうなの? なんにもない辺鄙なところなのにねぇ」
「なにか学校で気をつけるように言われなかった? 近くらしいけど」
「全然。いまはじめて事件があったこと知ったし。学校で知ってる人がいても、友達いないから……」
逡巡と落ち込んでいくサクラ。どうやら騒ぎにはならなかったようだ。
なにものかが死体を隠したか。それか学校側が隠蔽工作を行って生徒に知らせていないだけなのか。単純に生徒の混乱をさけるために学校が生徒に知らせていないだけなのか。
ハルは学校に同業の関係者がいるかもしれないという予測を立てていた。大金の積まれた二人の同業者。学校の介入は少なからずあるだろう。根拠となる証拠はないが、金額の動きからみてそこらへんのセミプロではないことはたしかだった。
「おいおい、友達をつくらないとまず親友なんてできないだろ?」
しかたない、と嘆息しサクラを元気付けようと語りだす。
「なんというか、サクラはもっと自分から動かなきゃ。今日のことにしたって薔子さんと練習するんじゃなくて違う人誘ってみるとかさ。望んでいるだけじゃなにも得られないよ」
「うぇぇ……。無理だよそんなの。私には無理無理」
「無理だと思うからなにも変わらないんでしょ? まったく……」
真紅のパーカーポケットに両手を突っ込み、おおげさに脚をあげながら歩く。ミニスカートであることも忘れ。
「サクラはなにか変わろうとした? 親友が欲しい。だから? それを得るためになにか行動をしなければ、なにも変わらないよ」
「…………」
叱られた子どものようにサクラは押し黙る。
痛いところを突かれたのだろう。ただ願うだけの自分に、幼稚さと欺瞞でしかない自己主張が愚かであることを理解し嫌悪感を抱く。
自分は言葉だけの人間だ、と。
「…………」
ハルは自分がサクラに言った言葉を反芻すると、励ましの言葉でなく現実を突きつけた言葉になっていることに気づいた。
しまった。言う内容にしても、こんな辛辣な言い回しよりもっとうまい言葉使いがあったはずだ。斟酌のない言葉になってしまったのはなぜだろうか。もっと違う言葉で元気づけるつもりだったのに。
川の潺が、ふたりの耳をくすぐる。
「……まぁ、これから頑張ればいいんじゃないかな? チャンスなんていくらでもあるだろうし」
道なりの続くままに道を見つめ、後頭部で手を組む。
「……チャンス、かぁ」
サクラはつぶやく。
赤く萌える夕日が二人の顔を紅く照らす。
「よし! 分かったよハルちゃん!」
サクラは意気込むと声高に声を張って言った。
「明日の遠足で新しい友達をつくる! 誰からの援助も受けず、自分の力で仲良くなる!」
歩みを止め、心新たにサクラは誓った。夕日はさらに明るくサクラの顔を照らす。
「そっか。がんばれよ、サクラ」
優しく微笑みながらハルは応えた。夕日はハルを照らし、顔に影を生み出す。
「っていうか、遠足なんてあるの?」
「うん。なんかね、うちの高校、毎年今ぐらいの時期に遠足で登山しにいくんだよ」
「なんか珍しい学校だね。――ひょっとして登る山の名前って大津山?」
「そうだよ! ちょっと遠いとこにある山だね」
「偶然だ! 私も明日、大津山にゴミ拾いのボランティアでいくんだよ」
「ほんと!? 明日会えるかもね!」
その後、いつも通り橋までサクラを見送り、ハルは帰路についた。
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日が落ち、常闇の中の町をマンションの光や街灯が照らしだす。なにかに導かれたかのようにゆらゆらと虫たちは光に集う。
目的もなくただ本能で動き、電灯に身体をたたきつける。その虫の行動がハルには滑稽に見えた。そして、自分もなんらそれらと変わらないことに失笑する。
古ぼけたアパート。その錆びついた鉄格子の外階段をハルは登っていた。老朽化が進んだ鉄の階段がパリパリと悲鳴をあげる。ハルの家は最上段のすぐ目の前にある。
二○三号室のドアノブに手をかけた。その部屋から光は漏れていない。
今夜の月は濡れているように輝いている。
「ただいまー」
真っ暗でなにも見えない。目が暗さに慣れないうちに電気のスイッチを手探りで探す。手に凸の感覚を感じ、指で凸の方向を切り替える。2Kの我が家が、消えかかった丸型蛍光灯によって薄暗く照らされる。
ハルが自宅に帰ってくるのは三日ぶりだった。主に情報収集や裏の仕事で家に帰れずにいた。本当なら五日ほどかかる予定のところ、急いで三日で片づけたので心身ともに疲弊している。靴を脱ぎ、まずは冷蔵庫を開ける。なにか飲み物はないかと探すが、冷蔵庫にはタッパーに入れた料理のみだった。
台所からガラスコップをとり、水道水をいっぱいに入れ、喉を潤す。
ふぅ、と一息。
しばらく意味もなく呆然と立ち尽くす。なにもない我が家を定まらない目の焦点で眺める。
その目に閉め切った襖がとまった。
コップを机に置き、襖の前へと向かい、そこで一瞬とまる。襖の奥から微かに腐臭がする。ただの変哲もないその扉が、ハルには牢獄の鉄でできた頑強な扉に見えた。
重々しい襖を開ける。真っ暗な暗黒が視界に広がる。すると同時に鼻を劈く腐臭が襲い掛かってきた。しかし、ハルは鼻を覆うこともせず、部屋の明かりをつける。
明かりのスイッチを入れようと一歩足を踏み入れると、音とともに足になにか感触が走った。なにか踏んだようだ。それが何なのか、明かりをつけることでその答えは照らし出された。
ペットボトルだ。
空になったペットボトル。蓋を閉められていないペットボトル。
そしてそれは、このひとつの部屋に無数に蔓延っていた。
腐臭がさらに強くなった気がした。
数えきれないほどのペットボトル。様々な形のペットボトル。その数だけ散らばっているキャップ。無数に横たわっているペットボトル。集めればゆうに人ひとり埋めてしまう数のペットボトル。
蛍光灯が点滅する。
狭い部屋に犇めきあっているペットボトル。
全身の鳥肌が立った。
ハルは状況を理解しようとよく部屋を見渡す。
すると、そのペットボトルの存在で自身を韜晦している人物が存在していた。
カーテンの閉められていない窓ガラスにもたれかかっている。痩せこけた四肢。荒んだ髪。無秩序に生えた髭。虚ろな瞳。人は一目でそれを、廃人と呼ぶに違いない人間だった。何年も放置された人形がそこに座っている、そんな表現さえできてしまう。
「兄貴……」
ハルはそう言った。ペットボトルを掻き分けるように、兄と呼んだその人物のもとへと駆け寄る。
「冷蔵庫に入れたの、食べろって言ったじゃん。水だけじゃだめだよ……」
それに優しく語り掛ける。それはなにも答えなかった。焦点の定まらない兄の目を見て、ハルは視界が曇った。
「ちょっとまっててね」
そういうとハルは一旦部屋を出て、ゴミ袋を取ってきた。彼を取り巻く楔を取り払うように、ゴミ袋にペットボトルをいれはじめる。
震えそうな喉を抑え、作業を続けながらハルは語り掛ける。
「なぁ兄貴、聞いてくれよ。今日もさ、サクラと一緒に帰ったんだ。今日は授業でバスケしたんだって。でも運動神経のいい人たちについていけずになにもできなかったんだって」
「…………」
「私ならきっといい試合したと思うんだー。昔と違って運動神経よくなったじゃん? えへへ」
「…………」
「でさ、そのあとにね、なんだかんだで友達がいなくて凹んだサクラを元気づけようとしたんだけど、言い方が強くなっちゃった」
「…………」
「なんでだろ。望んでいるばっかでなにも変わろうとしないサクラにイライラしてたのかなぁ?」
それはなにも言わなかった。
それからしばらくしてペットボトルの掃除が終わった。四十五リットルのゴミ袋一枚では足りず、中々時間がかかった。部屋はすっかりとなにもなくなり、畳の姿があらわとなる。
「兄貴、蛍光灯きれそうだから買ってくるね」
頬を緩ませ、返事をしない兄にそう伝えると、靴を履き玄関を出る。
はぁ、と溜めていたなにかを吐き出す。ハルは立ったまま玄関にもたれてしまった。
「――くくっ。毎度毎度お疲れさんだな」
暗色の声。
「……思ってもいないことを言うな。なんだよ、私忙しいんだけど」
ハルは小さい声で憤然と言った。角部屋である二○三号室に向かって右側の行き止まり、鉄格子に益荒男は煙草を咥えて佇んでいた。黒のスーツに身を包み、スマートな恰好でいる。朴訥としたサラリーマンを彷彿とさせる外見とは裏腹に、雰囲気はそれとは常軌を逸脱していた。表現しがたい恐怖を感じる。
「――ふっふっふ、小娘、なーにをそんなイラついてんだい?」
このアパートに三階があれば踊り場にあたる、外階段最上段からの声。
「いけませんねぇ。すぐイラつくのはカルシウムが足りてない証拠ですよ?」
アパートの屋根、頭上からの声。
「にぼし、食べる?」
ハルのすぐ隣にいる、下からの声。
「久しぶりだな!」
「久しぶりですね」
「久しぶりだねぇ」
三位一体に合わさる挨拶。
「おまえら! 集合!」
「いいですとも! とうっ!」
「よいしょ、ふぅ……」
そして外階段の最上段に集まる三人。
「我ら変装屋! 忘れさせたとは、言わせないっ!」
「我ら変装屋! 忘れさせたとは、言わせないっ!」
「我ら変装屋! 忘れさせたとは、言わせないっ!」
そして決めポーズ。戦隊ものによくある、真ん中にリーダー、そこから左右に並んで登場するといったことを、ハルの目の前で行われていた。
恐らくリーダー格である真ん中の人物、長髪のロングヘアーに学校のものであろう制服を着てガッツポーズをしている女性、田代華音与。
そしてハルから見て右隣にいる人物、長身の眼鏡をかけた細身の人物。眼鏡のブリッジ部分に中指を当て、いかにもハルを見下している男性、嵐野奏也。
その反対側、ハルから見て左側に位置する人物、瓢箪のような腹が特徴的な肥満体。手に煮干しが入っている袋を持っている男性、栓良太。
唐突に、その三人が現れた。
「お前らなんだよ! 忘れさせたって! 肝心なとこで噛んでんじゃねぇよ!」
ロングヘアーをふわっと漂わせ、後ろを振り向く華音与。
「ご、ごめんなせぇぇえ。煮干しあげるから許して」と良太は言って煮干しを差し出す。
「んなもんいるかっ!」
「ですが姐さんも言っていたような気がしますが」奏也は眼鏡を光らせる。
「そっ、それはお前らが間違えたから、機転を利かせて合わせただけだろうがっ!」
「…………」
ハルはいきなりのことで沈黙していたわけではなかった。訝しげな目で益荒男を見つめる。
「おい、お前ら。つまらない漫才はやめろ。こいつが呆れているぞ」と益荒男は言った。
「だぁれが漫才師かっ! ――まぁいい。仕事の話だ」
華音与が益荒男のほうへ、またいきなり向いたことによってロングヘアーが宙を舞う。
「……姐さん……」
それによって良太の丸々とした顔にロングヘアーがかかり、まりものようになっていた。
「仕事の話?」
気づけよ、という心の中で突っ込みをしておきながら、ハルは疑問符をあげた。
「明日の遠足、こいつらも同伴する」
益荒男は煙を吐き出す。眼鏡をかけた男性は太った男性から髪を剥がしている。
「え。なんで……?」
「そんな嫌そうな声で言うなよ! だからこいつはいけ好かないんだよ」と華音与は言った。
「遠足は大勢で行ったほうが楽しいだろ? 田代はガイドとして、嵐野は添乗員として、栓は運転手としてソメイを見張る」
「まぁ僕らがいれば、あなたなんて要らないでしょうけどね」奏也は不敵な笑みを浮かべていう。
「……久しぶりに会うと腹立つなぁ」と小声でハルは言った。
「くくっ、まぁせいぜい仲良くやれよ。遠足は皆で仲良くがモットーだからな」
益荒男は煙草を吹かす。
「――明日は必ず仕掛けてくる。ただそれをさせずに終わらせてしまえばいい。……桜の季節はもう終わりだ」