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春桜  作者: 久瑠矢簗枝
無垢で無知な桜
2/7

蜘蛛

「それで? その手弱女春(たおやめ はる)という子に恋をしてしまったと」

「どこをどうやったら恋になるんですかねぇ!」


 とある昼休み。サクラと薔子(しょうこ)はクラスの教室で向かい合って弁当を広げていた。だんだんと暖かさが日本を包み込む季節。快適に過ごすにはうってつけの気温だった。これから訪れる灼熱地獄に確実に歩を進めていることを思うと憂鬱になりそうだ。


 教室の中は他にも弁当を広げているグループや、御車高校(みくるまこうこう)にある食堂にこれから向かおうとする生徒の姿があった。

 薔子は箸でミートボールをつまむ。


「でもその子、私たちと同年代なんでしょ? 起業するなんてすごいわね。並々ならぬ苦労があったでしょうに」


 ミートボールをサクラの弁当箱の中に入れる。サクラは軽く万歳をしてはにかんだ。二つ結びのお下げが揺れる。


「そうなんだよ~。親御さんもあてにならないらしくて。はい、代わりに煮豆さんあげる~」


 薔子の弁当箱に三粒の煮豆が入れられた。薔子は煮豆を食そうと箸で(つま)むが、間をすり抜け、中々手中に収めることができない。

 

 ハルとの出会いを、サクラは薔子に話していた。サクラがみっともなく恣意的(しいてき)に語った友情論はもちろん省いてあるが。


「――ハルちゃんすっごく可愛いんだよ~。愛くるしさがあるっていうか。たまに大人顔負けの凄みを感じるんだけど、見た目は中学生くらいで小顔だし、母性本能をくすぐられる可愛さがなんとも言えないの」


 本人は童顔を気にしてるみたいだけど、とサクラは続けた。

 薔子はサクラとの会話を耳で聞き流しながら大豆との格闘に夢中になってしまっていた。煮豆はつるつると薔子を嘲笑(あざわら)う。


「出会ってから三週間くらい経つけど、帰りにハルちゃんに会うのが楽しみでしかたないよ」

「ふーん。そんなにサクラが盲目になるくらい可愛いんだったら私も一度見てみたいわね。そのハルちゃんって子。――くっ。煮豆、私を手こずらせてくれるわね……」


 ふふふふふ、と不気味な声と、少々苛立たしい表情で煮豆に語りかけているサクラの友人がそこにはいた。


「なんでサクラはあんなにも軽々しく捕まえられたの……? 胸の大きさが大豆との激戦を物語っているとでもいうの……?」


 煮豆で苦戦するのも不思議に思うが。頭の片隅でサクラは思った。


「だったら今日一緒に行くー? 可愛さに身悶えると思うよ」

「いや」


 と薔子は否定の意を表した。目線はなぜかサクラの胸部に釘付けになっていたが、話はちゃんと聞いているようだった。


「そんな胡散臭い人に会いたいなんて思えないわ」と彼女は言った。

「え? うさんくさい?」


 訊き返してしまった。まさか省いた箇所があると気づかれたのか、とサクラは内心ヒヤッとしたが、薔子が続ける言葉にほっとした。


「当たり前よ。学校の帰り道に見知らぬ女性に話しかけられて名刺を貰うなんて。普通は怪しいと疑うでしょ。不審者だったら危ないじゃないの。その豊満なバストを狙って変な稼業にでも利用されるんじゃ……とか考えなかったの?」



 やっと捕らえた煮豆でサクラの胸部を示しながら薔子は訊いた。



「ふぇ? 全然まったく……」

「まったく……。そんなきょとーんとした顔してるから狙われるのよ。私が痴漢だったら真っ先にサクラを狙うわね」

「ハルちゃんは女の子だよ? 私もただついて行ったわけじゃないよ。最初は関わりなんて持たないつもりだったし……。そんな簡単に私は捕まえられないよ!」

「何かに追われてるのかあんたは……」



 薔子は煮豆を食べた。豆に染み渡った調味料の味が舌の上に広がる。ほのかに甘い。



「私は希少な生き物なの。だから誰にも心を許さず、独りでひっそりと岩陰で暮らしているの……」

「竿に垂らした苺ショートケーキで釣れちゃうならその警戒も意味ないわね」

「つ、釣れてない! ただ、ハルちゃんがあまりにも見せつけてくるもんだから……」

「入れ食い状態じゃない。サクラ大漁祭りよ。まぁ――」と薔子は言った。



「なんでも屋っていうのにも怪しさに拍車をかけているわね。なによなんでも屋って。漫画やアニメじゃないんだし、自分は詐欺師ですよーって言っているもんじゃない。逆に、そんな怪しい仕事を自分から言うなんて思うわけない、なんていう心理から、わざとなんでも屋なんて言ったのかもしれない。意外性はあるけど、それでなんでも屋というおかしな仕事があることを認めさせてしまうみたいな」


 サクラはミートボールと一緒にご飯を食べて訊いていた。もぐもぐ、といった擬音が出てきそうな咀嚼だった。


「しょうちゃんすごい疑ってるね……」

「疑うに十分すぎるのよ。怪しすぎると思わない? いきなり見知らぬ人に話しかけられて一緒にお茶をして。同情をそそるような話をしたと思ったら、なんでも屋やってますーって名刺出されてさ。なんの目的かは知らないけど、関わらないほうが得策よ」

「んんぅ……。確かにそう言われると……」


 サクラは腕を組んで考えてみた。その異常性と危険性を。この開光映町(さきはえまち)の治安は、ちょっと買い物に行こうと誰もいない家に鍵をかけずに出かけてもなんてことないほど良い。大きな道路が一本あるだけの、なんの変哲もない町だ。観光名所といっても、いつも帰り道に歩く桜並木程度のものしか挙げられない。苦し紛れに川沿いの桜並木を観光名所と言ってしまったが、この街に名所といった名所はない。無理矢理にひとつ挙げるとすれば、それしか見つからないくらいなにもないのだ。住宅街が固まりに固まった、おかしな町だ。それが泥棒を侵入させないための対策になっていると言える。



 そんな町で不審者とは、如何なものか?



 だがしかし、サクラも最初は警戒心をむき出しにしていたではないか。それを今更『この町に不審者はいなぁい!』と宣言したところで、いままで不審者が出ていなかった、もしくは発見されていなかっただけで、不審者が表に出てしまったら宣言も無駄になるではないか。というより、意味がない。

 人がいれば不審者は出る。とまでは言わないが、出る可能性はあるだろう。



「でもなぁ……。あんな可愛い子を不審者だなんて私には思えないし、思いたくないんだよねぇ……」

「どんなに可愛くても不審者は不審者。実際に会っていない私が言うのもなんだけど、会っていないからこそ言うんだけども、会うときには気をつけなよ」


 薔子はいつの間にか空になった弁当箱を片付けながら言った。


「というか、常識的に怪しみなさいよ。疑いたくないのなら、本人に仕事の具体的な内容を訊いて信じるとか、もういっそ会わないとか」

「うぇぇ~。いじわる~。だったら会ってみなよ~。可愛いんだよ~。ときめいておっぱいおっきくなっちゃうかもよ~?」


 サクラは腕を伸ばして机に突っ伏した。駄々をこねる子どものようにバタ足をしていた。


「ならいってみようかな……。なんて思うわけ無いでしょっ! そんなんでおっきくなったら既に私は……。――ハッ!?」



 なにかに気づいたような、失言をした、というような面持ちで薔子は頬を赤らめていた。



「んん? どったのしょうちゃん?」

「と、ととととにかく! むやみやたらに怪しい人にほいほいついていかないこと! もうちょっと疑いなさい。あんたは」

「へいへーい。でも今日も会えるのはちょっと楽しみ……」

「話きいてたのかしら……」


 はぁ、とわざとらしいため息をついて薔子はサクラに呆れていた。


「ちょっとそこのフラワーたち! こいつを見るがいいっ」




 いきなり声がした。唐突に声をかけられた。




 その一言で厚かましさを感じさせる声だった。声はサクラと薔子にかけられていた。その声の人物は二人に対して一枚の用紙を見せていた。顔の高さまで上げられた用紙。二人の目線は手に握られたその一枚の紙に集中した。声の主の顔はその紙で見えなかった。



「5月2日に行われる遠足の班員表?」



 薔子が差し出された用紙の見出しを読んでいた。確かに用紙には4人1組の班が7つ、枠の中に班員の名前が書かれていた。


 サクラはいきなり一体なんの用だと理解が追いついていなかった。脳の中に疑問ばかりが浮かんでいる。



 「そう!」といって、用紙は声の人物の姿をあらわにする。



 右足を重心に左足の膝を少し折り曲げ、二人に対して斜めに立つ。左手は先ほどの用紙を頭上に掲げ、右手の指先で反り返った前髪の先を尖らせていた。そして目を伏せて横顔で構える。



 完璧な体勢だった。完璧に変人だった。



「ちょうど来週の5月2日っ!ゴールデンウィーク前に生徒の親睦を深めるといった名目で行われる、遠足の班員表なのさ」



 すごく真面目な内容をすごくおかしな人間は言っていた。二人は滑稽とも思えるそれを対岸の火事といった風に眺めていた。釣り針のような前髪が目を引く。周囲の生徒も珍しいものでも見るように彼を見ていた。背景にキラキラと煌く光が出てきそうだと、二人は以心伝心でもしているかの如くまったく同じことを思った。



「僕はそんな形だけの遠足の班員分けを司っているわけさ。あと君たち二人だけが決まっていない。さぁ、あとは任せたから勝手にキメるがいいさ!」


 と言って彼は用紙を机に置き、颯爽と姿を消してしまった。

 ただ悠然と歩いて廊下へ出ただけだが。



「…………」

「…………」



 内容ばかりがどんどん進んでしまって一体なにが起きたのか、現実を理解するのに少々時間を要した二人だった。


「なんだかわからないけど取り残されたような気分だわ……。一体なんだったの?」

「あれが不審者じゃないの?」




************************************




 謎の男から受け取った用紙に名前を記入し、担任の教師に提出をした。どうやら男女二人ずつで合計四人の班になるようだった。空欄は二つしかなく、班を編成するまでもなかった。サクラと薔子は同じ班だ。職員室に向かう間、薔子は、



「そもそも私たち二人だけ決まっていないってどういうことなの? ホームルームの時間でみんなで決めるもんでしょ? あのつりばか、わざわざクラスの人間一人一人回ったわけ? てか始業式から一回も見たことない生徒だったんだけど。もう、なにもわからないわよ」

「つりばか……?」



 といった愚痴や不満をサクラにぶつけていた。サクラはというと、あまり気にせずにいた。確かにあのわけのわからない人物は気になるが、今は気にすることではないと直感的に感じていた。いずれ、彼とは仲良くなるかもしれない。そんな気がした



 午後の授業を受けた後、帰りにサクラは薔子に気をつけるよう釘を刺され、帰宅路についた。そして、足早にいつもの河川敷に向かう。このような放課後をここ三週間、サクラは繰り返していた。ハルと河川敷で待ち合わせをし、背の低い雑草が茂った坂に二人で並んで座る。ただすることもなく二人で会話を楽しむだけだ。時間を忘れて夜が遅くなってしまったときは夕飯を食べに行ったこともある。サクラにとってそれらは今一番の楽しみになっていた。


 

 サクラはしばらく河川敷の坂で体育座りをしながら待っていた。



「……ん~?」


 夕暮れ。空が赤く染まり始める。寂しさを燃やして隠そうと、普段の清々しい蒼穹は淡くだんだんと消えてゆく。己を隠す空の韜晦(とうかい)は、何よりも潔白で混じりけのない自身を現していた。


「そろそろ来てもいいはずなんだけど……」


 辺りを見渡す。河川敷の歩道を歩いている男性はいたが、手弱女春の姿はなかった。


「今日は来ないのかなぁ……」


 特に会う約束をしているわけでもないので来ないことは十分にある。一人で坂に座ってただ川を見つめていても面白くない。ハルと連絡を取ろうと携帯電話を取り出したが、ハルの連絡先を知らないことに気づいた。


「今度訊いておかないと……。ふふっ」


 笑ってしまった。なんだか仲のいい友達みたいで思わず笑みを漏らしてしまった。

 

 友達。

 ハルはどう思っているのだろうか。サクラのことを。


 初めて会った時、私が言ったことを聞いて可哀想だと思ったのだろうか。それとも、たかがそんなことでと憐れに思ったのだろうか。彼女の善意で私と仲良くしてくれているのだろうか。



「………………」



 それに、手弱女春(たおやめ はる)とは一体何者なのだろうか。薔子に言われて気になり始めた。確かに怪しい。なぜ私に話しかけたのだろうか。本当に薔子の言っていた通り、身体目当てなのだろうか。彼女の真意が見えない。彼女の仕事のこともある。なにをして生活費を稼いでいるのだろうか。考え始めると疑問ばかりが頭の中に浮かんだ。



 あの時ハルが手を差し伸べてくれたことは嬉しかった。同情であれ善意であれ、少し救われた気持ちになった。優しいと感じてしまった。そんな風に感じてしまったら、信じたくなってしまう。謎めいた彼女だが、決して悪行をするような人間ではないと思う。そう思いたい。



 もし彼女が悪辣な人でもなにか理由があるんだと、私は思ってしまうだろう。なぜそこまで信じられるのか、自分でもわからない。いや、私がそう望んでいるだけだ。



 私が求めているものは、普通は欲しいと望むものではなく、自然と手に入れているものなのだろう。望んで手に入れるものではなく、手に入れるものでもない。お互いがお互いを支え合う、至高の存在。至高は言いすぎかもしれないが、そんな素敵な存在が欲しい。



「……はははっ。いまさらだけど、ばっかみたい」



 彼女がそうだと、信じたい。

 綺麗事、理想論、非現実的。自分でも分かっているのに、望んでしまう。そんな風に望んでしまう自分が醜くて、嫌らしくて、見ていられなくて、嫌だ。綺麗事言っているのに醜いなんて面白くない矛盾だ。

 と考えつつ、サクラは腰を上げた。どうやら今日はハルと会えないと判断し、家路についた。



「そういえば、ハルを待って会えなかった日は今日が初めてだ」




************************************





 空は赤く染まりきり、これから夜の顔へと移り変わろうとしていた。御車(みくるま)高校の生徒たちは放課後の活動を終え、各々が帰宅する準備を始めている。

 


 人気(ひとけ)のない校舎の裏側。ちょうど現在の時間帯は、そこが校舎の影で覆われていた。


 生徒たちの間では、影で覆われた校舎の裏側に踏み入れてしまうと、以前この校舎が建てられる前にこの土地を持っていた地主に呪われる、という噂が流行っていた。当時の地主は、ここの土地が自分の命だと言わんばかりに執拗に(こだわ)っていたらしい。そのため、用地買収に応じなかったそうだ。御車高校の建設のため、地主との交渉が幾度となく行われた。頑固な地主に困り果てた立案者は、とうとう地主を亡き者にしてしまった。その恨みから地主の怨念がさまよっている、といった噂だった。



 そんな曰くつきの場所に生徒が一人いた。



「へ、へへ……。こ、これが報酬だよ……」



 男子生徒は茶封筒を震えた手で対面する人物に渡していた。受け取った人物は茶封筒に中身が入っているかどうかを確認し、着用しているパーカーのポケットにしまった。



「……数えなくていいのか? 僕が金額をがめてるかもしれない」

「そんなへっぴり腰な奴が金額を間違えるはずない」と相手は言った。

 

 男子生徒を鋭い眼光で睨み、淡紅色のパーカーに両手を突っ込む。


 居るだけで背徳感に駆られ、臆病になってしまうような陰鬱とした雰囲気。整理されていない雑草や樹木の深い緑色が不気味さを増幅させる。


「へへ……。そうですかぃ。……しかし、本当に()っちゃうなんてなぁ。ネットでみたときはデマだと思ったけど、現実に本当にあったなんてびっくりだ」

「火のないところに煙はたたないんだよ。目に見えるものが全てじゃない。けど、見えているものは蜃楼であろうとなかろうと、必ずあるもの」

「まぁ、なんでもいいさ。これでやっと、やっとあいつから開放される! 散々僕を馬鹿にしやがって! 殺されて当然だ! 死んで地獄で僕をいじめたことを後悔するがいい!」



 男子生徒は快哉を叫んだ。心の底から出てくる言葉だった。瞳孔が開き、肩を上下させて息を荒々しくしている。



「ありがとう!ありがとう! 君は僕の恩人だ!」



 と言いながら、相手のパーカーに突っ込まれている両腕を引っ張り出し、両手で振り回しながら握手をした。


「………………」

「まさか君みたいな可愛い女の子が殺し屋だなんてびっくりしたけど、腕は確かみたいだね! あいつが死んだことは何週間も前なのに学校側には伝わってないようだし、僕に疑いがかかる心配もない! 最っ高だよ!」


「そっか、おめでと」


 男子生徒の嬉々とした表情にニッコリと微笑み返した。校舎の影は空が暗くなるにつれ伸びてゆく。


「――ところでさ、」


 手を握られたまま、殺し屋と呼ばれた少女は朗らかな声で言った。


「なんで私は後払いだと思う?」

「へ?」

「それはね――」


 握られた手を解き、ゆっくりと腕を自然に下ろす。下ろしきってからの刹那、両手に握りこぶしを作り、両側から男子生徒の頭に勢いよく拳を当てる。右手の拳はこめかみの位置に、左手の拳は顎に当てる。男子生徒は軽い脳震盪を起こし、ふらつきながら(かが)もうとする。かがんだところをすかさず少女は男子生徒の頭を胸の位置で腕をクロスするように抱きしめ、両手で頭を包むように掴む。


「依頼者を殺すためだよ」


 暗色(あんしょく)の声。

 両腕を左右に力いっぱい引く。頭はコマを回す原理と同じように、鈍い音を立てながら回る。

 

 ゴリゴリゴリゴリ。


 密度の軽い物がお互いを削り合っているような音がした。


「ふぅ」と少女は息をついた。


 男子生徒は木製で造られた人形のようにその場に崩れ落ちた。子どもに遊ばれてそのまま片付けられない玩具のように、身動き一つしなくなった。


 空は開光映町(さきはえまち)を薄暗い世界へ(いざな)い始める。夜の顔を現したのは空だけでも、少女だけでもなかった。少しばかりの間、時が止められたかのようにその場に静寂が訪れた。


 少女は空を見上げる。


「……星空なんて見えやしないや」

「まだ星空を見るにはいささか時間が早いんじゃないか?」


 男の声がした。


「……あんたか」



 少女はその渋い声の人物を知っていた。その人物の性格は、声から感じる堅実さとは裏腹に、凶悪かつ険悪であった。光や希望という言葉を知らない人間だ。決して彼の言葉を信じてならない。少女は彼をそう認識していた。



「相変わらず年上に対しての礼儀と畏敬の念が欠けている。光や希望という言葉くらい知っているさ。人間だけが持ち、誰もが(すが)れる、縋ることが許されている、甘く正当化された幻想のことだろう? 潔く清い純白の欲望。大抵の人は闇から目を逸らし偽りだけの光を魅る。それが正義であると信じてな。」


 コツコツ、と念入りに磨かれた傷一つない革靴で、音を立て歩きながらその人物は姿を表した。顎に剃り残した無精髭がだらしなく生えている。地面の土よりも少々薄く明るい色をしたロングコートのポケットから、煙草とライターを取り出した。


「物陰から見物? 相変わらず悪い趣味しているね」

「俺はお前の膺懲(ようちょう)や粛清のほうが、人間の趣味としてはありえないと思うがね」


 男は校舎に寄りかかり、煙草に火を点けて口に咥えた。


「こいつは私が殺したんじゃない。こいつ自身の行いによって自ら殺されたんだ」


 少女はだんだんと夜空に変化してゆく空を見上げながら会話を続けた。


「人を殺すにはそれ相応の覚悟が必要。他人に依頼するもの然り。私という凶器を媒介に、こいつは自分をいじめている人間を殺した。人を殺したわけだから、その覚悟は死によって対等と認識される」

「ふぅー」


 大きく煙を吐きながら男は一息ついた。夜空はぼんやりと星の照明に光を灯す。


「ほざけ。そんな詭弁はどうでもいい。後処理が面倒だろうが」

「自分で片付けないクセに。部下にいつもやらせて。――やっぱ星が綺麗に見えないや」と少女は言った。


「あいつらは部下ではない。俺の仕事は仲間を作った時点で失敗する。ただの協力者だ」

「へぇ、そうなんだ。ま、部下なんて作れるような性格してないしね」



 あまり興味を持っていない声色だった。



「ふん」



 男は煙草を咥える。そしてまた、煙と共に何かを体内から吐き出すように白煙を噴かす。



「河川敷での仕事は随分と面白いことになったそうじゃないか」

「その話か……。あいつらの仕事のやり方は本当に意味わかんない。川に落とすにしても、もっとうまいやり方があったよ。サクラとの接触が少し強引になっちゃったし」

「まぁいいではないか、接点を得られたのだからな。“手弱女 春(たおやめ はる)”さん?」

「っ!?」


 わざとらしく強調した口調だった。手弱女春と言われた人物は夜空から男へと目線を変えた。その瞳は大きく開き、驚きと疑問をまっすぐに男へとぶつけていた。淡紅色のフードと黒のミニスカートが揺れる。


「……………」

「どうした手弱女? 手が弱い女と書いて“たおやめ”さん?」

「……あんた、あの場にいたのか」

「いたもなにも、ちゃんとシュガースティック3袋にガムシロップ2個をミルクティーと一緒に持ってきてやったじゃないか」

「……はぁっ。あんた、ホント悪い趣味してるよ」



 パーカーのポケットに両手を突っ込む。目を伏せて半ば呆れるように手弱女は項垂(うなだ)れた。



「なかなか洒落た偽名を考えるじゃないか。春のように優美でいて決して狂気を感じさせない。自分の本性まで偽る名前とは……。いやいや、これは俺のお前に対する認識を改めなければいけないようだ。手弱女か――。ならば俺は、益荒男(ますらお)といったところかな?」


「うるさい。――だいたい、なんでそんな警官みたいな格好してるのさ? あんたの協力者の真似でもしてるの?」

「変装屋の腕は俺でも真似はできないがね。――いやなに、お前の次のターゲットのことだ。新しい情報が入ったのでね、知らせに来た」


 と言って益荒男は煙草の吸殻を地面に落とした。革靴で踏むことはない。


「最近不審者が開光映町(さきはえまち)に出没するから、まっすぐ家に帰りなさい。特に学生なんか、さっさと家に帰ってぬくぬくゲームでもしてろ。――こんな格好で言えば結構、怪しまれずに学校へ入れるもんだ」

「ついでに人払いか……。そこまでやる必要はない気がするけど」

「失敗の原因は思いもよらない些細なことからできるものだ」


 電源の付いていないテレビのような目で益荒男は言った。


「――同業者が2人、学校に潜伏している。かなりの額を積まれて、な」

「同業者っていうのは、あんたみたいな詐欺師?」

「違う。お前と同類だ」

「2人……か。」


 ハルは右手を左肘の台座替わりにし、顎に左手をついて何かを考え始めた。幼い顔に似つかない真剣な表情だった。


「…………」



 益荒男はその姿を活力のない目で見ていた。



「しかしこうして短身でぱっつん、童顔にミニスカハイソックスを見ていると、やはりお前がケツの青いガキということが信じられない」



「いきなりなにいってんっじゃああああ!」



 ハルは叫んだ。しんと静まり返った夜の学校の校舎の裏。音を遮る騒音はなく、辺りに澄み渡った。



「叫んだことによって興奮状態になり、顔が少し紅潮している。お前らしくもない」

「えっなに? 私がおかしいの? いま私なんか幻聴でも聴いたってこと?」


 両手で耳を塞ぎ、オロオロとしながら(せわ)しなくあたりを見渡した。


 周りには益荒男と死体がひとつ。世間は夕暮れから完全に夜へと移り変わっていた。


「そこの死体を作ったのがこいつだと思うと、俺でも殺し屋になれる気がしてしまう」

「あぇ? え?」

「まだパニック状態なのか。いい加減冷静さを取り戻せ。ケツが青いと言われただけでそんなにも――」

「青くないっ! 私は桃尻娘なのっ!」

「うおっ!」


 150キロメートル級の剛速球だった。ハルは益荒男に脱兎の如く近づき、童顔に似つかないつり目で鋭く益荒男を睨んだ。身長差のせいか、自然と上目使いになっていることで益荒男は睨まれていることに気づかなかった。心なしか、ハルの頬が膨らんでいる。


「頬を膨らましているのか? まるでガキが拗ねるようだ、なっ――!?」


 益荒男の腹部にはハルの握りこぶしがめり込んでいた。グリグリと穴でも開けるように拳に力が入る。


「私はガキなんかじゃないもんっ!」と言ってハルは拳をおろした。

「かはっ、ふっ!?」


 益荒男は片手で腹部を抑え、もう片方の手をハルの肩の上に置いた。しばらく益荒男は呼吸ができなくなった。


「い、いきなりなにをする。痛いじゃないか」

「うるさい。澄ました顔しちゃって。あーあー。なんかもう気分悪くなっちゃった。帰ろうかな」


 パーカーに両手を突っ込み、脚を前に大きく上げて益荒男から距離をあける。益荒男は支えをなくし、校舎にもたれかかるようにしてその場に座り込んだ。


「おい。死体はどうするんだ?」

「ああ、それ? そのまんまでいいよ。誰かが気づくでしょ。あんたが言う、嘘の正義を見てる学生の誰かがこれを見つけて、先生に連絡したり、警察に説明したりするでしょ。正義感を燃やしてね」

「……騒ぎにするのが狙いか?」

「うーん。そうだね」


 ハルは夜空を見上げた。そこにはひとつだけ強く輝いている星があった。明るく眩しく、希望のように(きら)めいている。


「あんたの言うことは嘘ばっかりでひねくれてて胡散臭かったり明るい話とか全くないしむしろ存在自体が怪しくて全然信じられないけど、ひとつだけ、あんたの言ったことを信じてやってもいい」


 夜空を見上げたまま、ハルは続ける。


「――闇から目を逸らして見る正義は偽りのものだ。本当の正義は、闇の中にある。暗く広大な闇の中にぽつんとあるものなんだ」

「そうか。ならその本物の正義感で依頼をこなしてもらおうか」



 益荒男はゆっくりと立ち上がった。



「あいつを中心に、なにか大きなことが起きる」渋く、重みが乗った言葉だった。

「違う。あの子の死によって、でしょ?」とハルは言った。

「ふん。そこまでわかっているのか。――これはレースだ。どちらが先にあいつの首を狩ることができるか。学校という表の世界で密かに行われる水面下でのレース。……勝てよ?」

「言われなくても」


 それを聞いて益荒男は、ふんと鼻息をつく。


「せいぜい今夜のうちに遠足の準備でもしておくんだな」



 コツコツ、と音を立てながら益荒男は歩き始めた。



「ん? 帰るの?」

「もう用は済んだ。俺は意味のないことをするのが嫌いだ」

「そっか。じゃあ最後に一つ」



 と言ってハルは益荒男の後ろ姿を見ながらこう言った。



「今回のターゲット。吉野桜。あの子――あいつは、一体何者なの? 住所不在、戸籍不明、親族は見つからない。挙げ句の果てに、誰から生まれたかすら分からない。どうして学校に通えているのか意味がわからない。おまけにあの、のほほんとした性格。ターゲットがこんなに怪しいと言うか、不可思議なのは初めてだ。いつも彼女が帰っている帰宅路の先は、一体どこなの?」


 益荒男から返ってきたのは、しばらくの無言と、


「俺も知らない。お前はただ、依頼をこなせばいいだけだ」


 という言葉だけだった。



 益荒男が帰ったあと、ハルは気の向くままに校内を歩いた。運が良かったのか、校内で生徒や教員に出くわすことはなかった。


 最終的に、高いフェンスで囲まれた屋上にたどり着いた。ハルは御車高校で一番高度が高い階段の屋根に座った。開光映町が一望できるその風景は、数々の家庭の光が夜景として広がっていた。


 夜空を見上げると、相変わらず星空は見えず、たったひとつの星が煌めいているだけだった。


――闇から目を逸らして見る正義は偽りのものだ。本当の正義は、闇の中にある。暗く広大な闇の中にぽつんとあるものなんだ。


「あははっ。なーに小っ恥ずかしいこと言っちゃってんだか」


 先ほどの自分の言葉を思い返す。


「はは、なんだか今日の夜空みたいだね」


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