ソメイヨシノ
そこには一本の桜の幹が泰然と聳えていた。夜の薄暗さと相まって、桜の花は一種の不気味さを醸し出していた。人々を魅了する花。普段の顔が美しいほどその不気味さを増していく。そんな桜の木の下に、誰かが佇んでいた。右手でそっと幹に触れ、目を閉じる。そして恋人に寄り添うが如く、身体を幹に委ねる。その姿は悲しんでいるようにも、喜んでいるようにも見えた。桜の木は呼応するように枝を揺らし始める。
――花びらの無い枝葉を。
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学校のチャイムが校舎に鳴り響く。その音は誰もが学び舎と認識する合図であり、象徴だ。
本日、四月一日は、御車高等学校始業式である。校舎内のある教室で椅子に座り、頬杖をついている人物がいた。その目線は無意味に宙を泳ぎ、目の前の席にいる生徒を捉える。いや、無意味にその生徒に目線がいったわけではない。その少し大きめの燦爛とした双眸と、目が合ってしまったのだ。生徒は少しぎょっとした。
「こんにちは! 私、吉野桜っていいます。これから一年間よろしくね!」
「えっ、あ、うん……」
生徒は女子生徒にいきなり自己紹介されたことに面をくらっていた。
なんだこの子は。新学期早々、初対面の人と面々と向かって挨拶をしてきたぞ。 彼女は椅子の背もたれに両手をつき、はにかみながらこちらを見ていた。今時こんな律儀な女子校生がいるのかと吃りながら、現代っ子の風潮はもしかして迷信なのかもしれないと考えた。
「あなたの名前はなんていうの? きっとショートカットが似合ってるから~しょうこって感じ?」
「本当にこの子初対面の人に抵抗ないな……」
今度は口に出してしまっていた。正直驚いていた。椅子に座っているが、一歩立ち退いた気分だった。今までの人生の中でこんな人物とあったことがない。見ず知らずの人にこんなに気さくに話しかけてくるなんて、きっと善人と呼ぶにふさわしい性格をしているのだろう。私なんて頭を上げてはいけないくらいこの吉野桜は偉人なのだ。そうにきまっている。
と、生徒は吉野サクラを甘美賞賛していたが、この生徒はまだ生まれて十数年。数々の出会いはまだ無限に広がっている。 当然、心底から思ったのは『この人変わってるなー』くらいのことで、吉野桜を善人だ偉人だとこれっぽっちも感じていなかった。
「――てか名前を当てられたことにショックを受ける……」
「え!? 本当にしょうこなの?」
「……ええ。私は、春日井薔子という名前よ。よろしくね」
「これで名前当てた人初めてだよ。よろしく!」
肩まで降ろした二房の髪の束を揺らしながら、サクラは右手を薔子に差し出してきた。本当にこの子は人と仲良くなるのが上手いなとおもいながら、握手を交わした。
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始業式の帰り道、新たな友達もできてサクラはひとりで沸々と滾っていた。歩道の横に咲く桜の木々はうっすらとピンクに染まり、見頃を迎えている。太陽が数多の陽だまりをつくり、桜の花びらは陽だまりを求めるようにひらひらと踊る。そんな川端の歩道を歩きながら、サクラは今年の目標について雄志を決していた。
今年こそ、今年こそ必ず、心から親友と呼べる人を作りたい。そんな思考を脳内で巡らせている。サクラは自然と目を瞑って高めのガッツポーズをしているが、本人は気づいていない。思考に熱中し、自分のとっている行動について理解することを忘れている。親友、それが今現在、サクラの最も欲しているモノだった。
そんな物珍しい格好をした女子校生を、歩行者は物珍しく見ていた。歩行者は目を奪われ前方不注意となり、向かいから走行してくる自転車に乗った男性と激突。自転車に乗っていた人物は自転車と共に倒れ、歩道からはずれる。歩道のはずれは坂になっており、川沿いの土手まで続いている。男性は坂をそのまま転げ落ちていく。
その先には花見をしていた学生のカップルが座っていた。カップルの男は人が転げてくることに気づき、受け止めようと両手を広げ、待ち構える。しかし、自転車に乗っていた人物の体型はかなりの重量級であった。戦車のような、猛烈で迫力のある勢いに男は止めることを諦め、そのままの体勢で激突する。その衝撃で上半身が仰け反り、背面から地面へと落ちてゆく。
しかし、あろうことか、男の落下点には小柄な女性が待ち構えていた。女性は驚きで身体が硬直してしまっている。ふたりがぶつかる瞬間、女性は身を前方にかがめて、男を避けようとした。当然、それでよけられるはずもなく、男は背中から女性の背中に衝突してしまい、下半身も宙に浮いてしまった。女性は痛さからその場にしゃがみこんだ。その角度が滑り台のように作用し、男は頭から川へと落ちていった。
こんなに身近に起きた事件にまったく気づかないほど、サクラは思考に没頭していた。
小さい頃からの憧れだった。”親友”という言葉に、サクラは憧憬の念を感じられずにはいられなかった。
高校2年となった現在の身で、親友と呼べる者はいない。いままでの交友関係において、共に語らい、なんら変哲のない話で笑い合える友達はいた。今思えば、あの頃一緒にいた友人は、サクラのことを親友だと思っていたのかもしれない。サクラ自身もその友を親友かもしれないと思った時があった。
サクラが中学生の時に出会った人物のことである。彼は夢と現実の狭間に囚われているような人物だった。愚直だったが故に中途半端に夢を追いかけ、現実を直視して夢を捨て、それでも夢は捨てきれなくて追いかける。そんな無限回路の中を走り回っている男だった。サクラは玉石混交、不純物の混ざった中途半端な大人たちよりも、ダイアモンドで創られた彼の純粋な理念を尊敬した。彼とは心から言葉を投げかけ合い、お互いがお互いを認め合う存在になっていた。
はずである。
サクラは心のどこかで、彼を含め、いままでのその友たちを、親友と認識したくないという思いがあった。
はっきりとした理由はわからない。サクラが思い描く”親友像”と食い違っているだけで、ただの友達になってしまう。そう言い切ってしまいたいが、それだけではない気がする。そうではない。”友達”か”親友”か、それぞれの認識の捉え方が根本的に違っている。サクラにはそうとしか考えられなかった。
友達はいくらでも作れる。いなくなったところで自分にはなんら影響はない。あったとしても”それくらい”のものだといわれる。非常食のように、あっても困るものでもない。賞味期限が切れれば新しいものを買えばいい。それだけのことだ。
対する親友は、――作れない。作ったことがない。だから分からない。きっと、たぶん、そんな枕詞を付けて妄想するほかない。きっと、自分にとってかけがえのない存在であり、忘れることはないのだろう。たぶん、家族同然に扱って、なんの気兼ねなく内心を打ち解け合えるのだろう。それができかかっていた彼とは親友なのだろか。自分の胸に問いかけてみる。なぜか答えはいつも否定的なものしかでてこない。
親友が欲しい。そんな親友と共に成長し、社会に出て愚痴を投げかけ合ったり、幸せを祝い祝われ、楽しい時間を過ごしてみたい。
「どうせ理想だよね」
自虐的に、ただ望むだけの自分を苛む。肩をすくめて、いつもどおりの思考と、いつもどおりの帰宅路に還る。憧憬は羨望であり羨望は憎悪であり憎悪は殺意である。なにを殺したいのかわからないが。
馬鹿なことを考えず慙愧せねばと、サクラは少し脚をはやめようとした。その時、
「理想? 理想のなにがいけない? 理想を持つからこそ人間は改革や革命を起こして来たんだぜ?」
道を塞ぐ、小柄の女性が目の前に佇んでいた。サクラの足は止まる。
淡紅色のパーカーを全開にして、ポケットに両手を突っ込んでサクラを見ていた。つり目の眼光が、サクラの視神経に突き刺さる。全体的な威嚇の意思を伺えることができるが、それは彼女のボブカットヘアーによって緩和される。その身長と相まってか、随分と幼く見える。
女性は口を緩ませた。
「…………」
スタスタとサクラは歩き始める。
「ちょいまてぇぇぇえ!」
突然の叫びにサクラはビクッと身体を縮めたが、歩みを止めなかった。しかし、背後から肩が引っ張られることによってその歩みは止められてしまった。
「すみません急いでいるので……。肩の手どけてください」
「いやいやいやいやいや! 今いい感じで私、登場したじゃん! 明らかになにかある雰囲気だったじゃん!? 意味深な言葉でかっこよかったじゃん!? それをスルーするなんてあ・り・え・な・い・よ!」
「うわぁ……」
サクラは引いていた。昆虫の巣穴に落とされたような気分になった。昆虫生物の幼虫にある特有の粘液質が身心を覆いかぶる。女性との距離を今すぐにでも空けたかったが、その小柄な体躯のどこから出てくるのだろうか、身動きがとれないほどの腕力で肩を掴まれていた。
この女性は明らかに不審者だ。サクラは、このハイテンションで異質な女性を知らない。知っていたとしても関わりを持ちたくない。それに、サクラの独り言に対して応えるという常識的にありえない行為をする人に嫌悪感を抱かずにはいられない。実際にサクラは気味が悪くて鳥肌が立っていた。
「じゃ、そういうことで……」
「私の話をきけぃ!」
サクラは目の前のことをなかったことにしたかったが、現実はそうはならなかった。はやく逃げなければ捕まって蜘蛛の糸でぐるぐる巻きにされてしまう。
「まぁまぁまぁ、いたいけな少女を救うために、ね?」
女性はサクラの肩に指を食い込ませる勢いで手に力をいれた。表情はこれまでにない笑顔だった。
「痛い、痛いですってば。……私に一体なんの用ですか。大した理由じゃなかったら警察呼びますよ?」
しかたなく、というよりは諦めて、話を聞こうと振り返る。サクラの肩はもう彼女の糸によって完璧に縛られていた。
「警察はおいといてだよ」彼女は糸を解きながら続ける。
「君はなんで悩んでいたの? 随分と熱く考えていたじゃないか」
彼女は顎を上げて見下すようにサクラを眺めた。そこで初めて彼女の目を見た。その目線は冷気とは違う意味で冷えていた。人を見る目ではない。冷めきった、白々しい目でサクラを眺めている。
いきなり近づいてきてこの態度とは一体全体、サクラには理解し難いものがあった。先ほどとのテンションのギャップにも驚かざるをえないが、質問内容にも疑念を感じる。侮蔑の意を込めて言葉を投げられたのだろうか。見知らぬ人の独り言に、いきなりそんなことをするだろうか?
サクラは女性の顔を見つめた。あどけなさが抜けきれていない顔だが、つり目のせいだろうか、瞳の剣呑さに幼稚とはかけ離れた凄みを感じる。それと同時に、その瞳の冷徹の中に、少しばかりの熱をなぜだか感じることができた。
「華の女子高生があんなガッツポーズしながら歩いてたら、話しかけちゃうじゃないか」
「それで呼び止める人間は変態です。そんな御託はいらないので要件だけを述べてください」
冷め切った声でサクラは一蹴した。
サクラはなるべく仲良くならないように警戒していた。今この現状を頭の中で整理してみると、それは至極当然のことで、関係を持たないことが最善の選択であった。目の前の人物の目的がなんであろうと、この状況は早く脱却したほうがいいだろう。見知らぬ人が言い寄ってきている。それだけで危機感は頭をいっぱいにしてくれる。
たとえ彼女がサクラにとって莫大な有益を与える存在だとしても、それは与えられたものであって、生きるために必要なものではない。もし彼女がサクラに100万円を現金で手渡ししたとしても、サクラは贋作だと疑いをかけるだろう。信頼を持たない者が利益を与える可能性はない。
「たしかに私は変態だよ。 でも要件は本当に何もないんだなこれが。暇つぶしに散歩でもしようかと川沿いを歩いていたら学生の男の子が飛んできてビックリしちゃってさ、なんでかと思って歩道を見上げたらなんとなく原因がわかってね」
「え?」
なんのことなのかまったく分からないといった様子のサクラ。
「後ろみてみ」
なんとなくすべてを悟った女性。
サクラはこれまでにない衝撃を目の当たりにした。
背後に広がっていたのは、悲しみを題材とした一枚絵のような光景だった。歩道にはなにかの痛みで寝転がっている男性がいる。楽になるまで時間がかかっているところをみると、相当な負傷だ。その左手、歩道から外れた坂には、前輪についている籠が変形してしまっている自転車が転がっていた。さらに左手には太った男性がぐったりしていた。太った男性のTシャツは、桜の花びらや土によって汚れていた。その少し奥の川沿いを見ると、女学生が叫びながら走っていた。理由はわからないが、とても見ていて悲痛な状態だった。
全体的に、みな満身創痍だった。川の流れる音だけが静かで落ち着いていた。
「え……。なに、これ?」
「君の近くで起きた事故の顛末だよ。すべての元凶は君なんだろうけど、これは事故で済まされるだろうねぇ」
女性は腕を組みながら頷いていた。サクラには変態発言に気を取る隙も、女性に警戒する余裕もなくなっていた。
「私のせい、なの? これ?」
目を見開いて現実を飲み込もうと必死になったが、頭が追いついていなかった。
「やった覚えがないなら君のせいじゃないよ。私はこのあとも散歩をつづけるよ。話しかけたのは君と一緒にこの場を去ったほうがいいかな~と思ったからかな、しいて言えば」
「なんか罪悪感に押しつぶされそう……」
「要するに、一緒に逃げよう。はやく」
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「なんで逃げる必要があったんだろう……。余計に私が悪いみたいになってるじゃん」
「――ふぃー。やっぱコーヒーはおとなの味だね。奥深い苦味と少々の酸味が私の舌をつつみこむよ」
シュガースティック3袋にガムシロップ2個をミルクティーに加えてなにを言うか。苦味も酸味も、甘味にすべてを奪われてしまっているような液体を、女性は恍惚の表情を浮かべながら堪能していた。
サクラと女性は、とあるカフェにいた。さきほどの川端から歩いて20分程度の距離に存在する大通り。その道に隣接するカフェのテラスにふたりは向かい合って商品を注文していた。テーブルに立てられているパラソルの影がサクラの顔にかぶさる。
「それじゃあ砂糖を液状化させて飲んでるのと一緒だよ……。苦味を感じられるその舌がすごい……」
「のむかい?」
「いや……。いいです……」
「そう?」
女性は目を大きくしてサクラに甘汁を勧めたが、はじめからサクラに一滴もあげない気でいた。
サクラは注文した苺ショートケーキをフォークに取り、口へと運んでほおばる。
決して甘さにつられて頼んだわけではない。
先ほどの目の前の光景といったら、表現するにもおぞましいものだった。シュガースティックの袋からザラザラと、砂を口に含んでしまったような不快な音をたて、泥水のようなミルクティーに砂糖を流す。さらにとろとろとしたガムシロップを次々に混ぜてゆく。常人には耐えられない甘ったるさだった。
見ているだけで脳が蕩けてしまいそうだった。しかし、サクラの目にはまったくこれらとは違う光景が映っていた。
女性がシュガースティックの袋をちぎる。そしてティーカップの中に砂糖を、すーっと加えていく。砂糖の一粒一粒を太陽の光が照らし、その反射でキラキラと星屑のように流れる。その上に間髪いれずガムシロップがいやらしく垂れてくる。甘い蜜とミルクティーをからめることによってその飲料はまったく別の飲料に昇華していた。サクラは息を飲んだ。それを惜しげもなく女性は口から喉へ、グビグビと身体に摂り入れる。
「そ、それが、その甘さが、腸によって毛細血管に吸収され、身体をめぐり、皮下脂肪へと蓄積されていくんだからね!! くそうちくしょう! 店員さん! 苺ショートひとつ!」
なにかを悔やむようにサクラは立ち上がり、訴えていた。
以上がカフェに来店してから約5分後の出来事だった。
「私はね、暇人なんだ」と女性は言った。
「年齢は君と変わらないくらい。だから敬語はいらないからね。普通なら学生を職業としているはずなんだ」
サクラは少し不思議な心持ちだった。見た目は可愛らしい少女といったところだが、雰囲気にどこか鋭さを感じていたので、童顔の年上だと思っていた。
「へぇ~! 私より年上かと思ってた。見た目は中学生みたいだけど」
「よく言われるよ~。けっこう大人な雰囲気出してるからねぇ。見た目と雰囲気があってないって」
「童顔だから?」
「童顔は余計だ!」
女性は居合の抜刀をするかの如くサクラの質問に対して反応した。その対応の速さといったら、目の前のショートケーキに乗っている苺が真っ二つになってしまうくらいである。
「し、失礼。ちょっと取り乱してしまったよ」
「でも可愛いからいいんじゃないかな? 私もいま雰囲気とのギャップにちょっと惹かれてる」
サクラの目は女性を捉えていた。その目は奇妙な熱を帯びていた。
「やめて! まだ純白でいたいの! しかも同性なんて自害する!」
「えへへへ。かわいい」サクラはそっと近づいて小さな頭を撫でた。
「だからっ! そんな目で見ないで! こども扱いするなっ!」
女性は顔を苺のように膨らませてサクラの手を払った。
「ったく。こんなんじゃ話しかけなければよかった」
「おっと、そういえばここまで逃げてきた意味ってあるの?」
サクラは先ほどと同じく少し距離を置いた。
「ここじゃなくてもよかったんだけどね。――まぁ、さっきの話の続きをしようよ」
女性はミルクティーを一口含む。目線は宙を彷徨っていた。ぽつぽつとつぶやき始める。
「――私はいま、学生をしていなくてね。なんで君と同じ、学生でないかというと、これがまたよくある話さ」
ティーカップをテーブルに置く。
「理由は家庭が穏やかでないからさ。母親を病気で亡くし、そのショックで父親は酒に溺れるようになった。仕事なんて見向きもせずにただただアルコールを摂取していたよ。――当然、父親は職を無くし、娘である私共々ほったらかした結果、文字通り無一文になっちゃった。当時私は中学生でね。収入はもちろん父親がすべてだった。ま、不幸中の幸いとでもいうかな。お金が底を着く頃にはもう卒業間近だった。――そこで私は中学卒業を期に、就職をして収入を得て生きていかなければなかった。必死に職場を探したよ。どんな安い給料でも雇ってくれるところを探した。でも私は雇われなかった。どこにも」
女性はサクラの目を見た。女性の声は社会の雑踏によって踏み潰された自由のように暗澹としていた。人間がなにかを犠牲にして社会を確立しているのだとすれば、それは自由だ。その社会からも見放された存在となってしまったなら、どう生きていけばいいのだ。
私は、居場所を作るしかなかった。そうして生きる場所を作り出さなければ――。サクラは彼女の目がそう語りかけてきていると感じた。
「だから、自分で会社を創っちゃった」
ほくそえむように女性はサクラをみつめた。サクラの胸は雑巾のように濡らされて、絞られたような心境にあった。なんとも言えない、やきもきとした表情をサクラは浮かべていた。会社を企業したということに驚きはあった。しかし、彼女の目を見ていると、その裏に隠された陰影と押し固められた感情によって、驚きのリアクションを抑えられてしまった。
「私は特に苦手なものとかなかったから、お金が稼げればなんでもよかった。そんな感じで、なんでも屋を起こしたのさ。長ったらしくなったけど」
といってポケットからなにかを取り出す。
「はい、名刺。こうやって顧客をひとりずつ捕まえていかないとやっていけなくてね。話しかけた理由はそんなとこだよ」
「…………」サクラは押し黙った。
「ん? どうした?」
「さっきまでのしんみり感どこいったぁ!?」
サクラは怒号の唸りをあげた。
「小さい時にお母さん亡くして悲しかっただろうな~とか、お父さんの姿なんて見てられないくらい辛かっただろうな~とか、必死に就職先を探してる時もひとりで心細かっただろうな~とか色々考えちゃって軽く泣きそうになってたところに名刺ですかぁ!? 私の同情返せ! いままで辛かっただろうに! ううぅ~。 こんな可愛い子が苦労して……。よしよし」
「あはは……。あ、ありがとね」
サクラは名刺を受け取り、席に座る。そこには女性の名前と事務所の詳細が載っていた。苗字はなんと読むのか、サクラにはわからなかった。
「ま、いまは探偵まがいのことをやっているよ。お悩み相談からさみしいとき、おしゃべりしたいときには気軽に呼んでね。なんでも承ります」
笑顔ではにかむ、そういった重複した表現が一番ふさわしいと思うほどの可愛らしさだった。
「わかった! 私、あなたのために貢ぐね! 」
テーブルに少し身を乗り出して、サクラは意気揚々と両こぶしを胸の高さまであげた。
女性は脚と腕を組み、目を閉じながら手を振った。
「フォークあぶないよ。それは助かるけど、申し訳ないから貢がな――」
「あーん」
「むぐぅっ!?」
サクラはショートケーキをフォークに取り、女性の口へと突っ込んでいた。サクラの口元は緩くほころんでいた。
一口で含められる最大の量をいきなり口に放り込まれたので、女性はしばらくの咀嚼のあと、はぁ、と息をついた。
「いきなりやめてよ! 窒息で死んじゃうよ! ケーキに殺されるよ!」
「えへへへへ。ごめんごめん。でも甘いもので死ねるなら本望でしょ?」
「まだ死にたくない! うら若き乙女を殺さないで!」
どうやら本望のようだ。サクラはなにかがおかしいわけでもないのに笑った。それをみて女性もはにかんだ。ふたりの間に、出会い頭にあった疑心暗鬼の心はなかった。
サクラは先ほどと同じく距離を置く。
女性は脚を組み直した。
「あはは、君っておかしいね」
「あなたほどじゃないよ。いきなり話しかけるなんて」
「お名前は?」
「吉野桜、サクラって呼んで。あ、そうそう。あなたの名字、これってなんて読むの?」
先ほど渡された名刺の中央に位置する漢字を、サクラは指で指した。
「これかい? 手弱女。手が弱い女とかいて、たおやめ、って読むんだよ」
「へぇ~。おもしろいね、なんか。手弱女 春か~。どこから名前なのかわかりにくいね」
「呼び名はハルでいいから。お互い名前でいいよね」
「うん!! よろしくね、ハルちゃん!」
サクラは右手をハルに差し出した。それを見たハルの頬はうっすら桜色に高揚していた。さりげなくハルは周りを見渡したあと、差し出された手を見つめて、それから自分の手でそれを掴んだ。
「よ、よろしく……」
サクラは重なった手を軽く握り返した。ひんやりとした手だった。
「えっへへ! 私たち友達だね!」
「これすごい恥ずかしい……」
ハルの目線はあさっての方向に向いていた。パラソルの影がハルの顔に覆いかぶさる。
「――でも」
といって、ハルは繋がれた手を解く。
「サクラにはやっぱりびっくりするよ。川端で会った時の警戒心が嘘みたいだ。人間、そんなにすぐ疑いを捨てることなんてできないからさ」
今度はサクラの顔を見て、緩やかに頬骨をあげる。落ち着いたような口ぶりだった。疑われることに恐怖を感じていたのかもしれない。それにしては強引だったな、とサクラは頭の中で川端のハルの姿を思い浮かべていた。
ハルの安堵の言葉は、それと同時に油断を生んだ。先ほどとは違う、優しい顔だった。パラソルによって、憂いを帯びたような、少し陰影を含む表情に見えた。そしてやはり、それは童顔に不釣り合いで、不似合いだった。
ハルとは裏腹に、サクラの中に不穏な曇りが広がり始めた。
「態度だってすぐに変えてくれたし。……まあ、さっきの私の話に同情したからなんだろうけどさ」
サクラは沈黙を選んでいた。なにを言われているのかわからないといった態度だった。自分の変わり身にわけがあるから気が悪い、といった理由ではなかった。髪をふたつ結びにしたお下げを、顔と一緒に傾けていた。自分で頭の上に、はてなを置いていた。
「お近づきの印に、ここはおごらせてもらうよ」
ハッとサクラは我に返った。
「え? いいの? 私、払えないほど貧乏じゃないけど」
「いいさいいさ。そのかわり、たまに話し相手になってよ。お金はとらないからさ。基本的にヒマだしねぇ。年齢が近い知り合い、サクラしかいないんだ」
「うん。私も放課後に無意味におしゃべりできる親友が欲しいんだ。部活も入ってないし、お話しようよ」
ハルはティーカップを手に持っていた。中身が空になっていたことに気づく。
「ふふっ。ありがとう。――でも」
仕事柄なのか、ハルは話を掘り下げてきた。
「なんで親友なんて欲しいの?」
「んー……。なんでだろうねぇ~」
少し唇が震えていた。
親友が欲しい理由なんて、誰にも話したことがなかった。そもそもどうして欲しているか、ちゃんとした明確な、的を射た言葉がなかった。漠然とした感覚で、いつも自分の中で考えていた。サクラはとりあえず、次の言葉で会話を続けた。胸の高鳴りが、心臓を熱く焦がす。
「――寂しいから、かな。親友ってさ、どんな時でもそばにいてくれるじゃないですか。楽しい時も辛い時も、お互いを分かち合える存在が欲しい。私の人生の道のりに、私だけしか立っていないなんて悲しいじゃないですか」
敬語になっていた。なぜかはわからなかった。ただ、口が動くままに任せていた。
謎の虚無感にとらわれる。
「私の中に大切なものが欲しい。なにもないのは、なんか、自分を見失いそうで、こわい」
その声にサクラの成分は含まれていなかった。春の夜に誰しれずとそよぐ、ひんやりとした吐息。
ハルの表情はそれに呼応するように曇る。
「最低だよね。自分のために親友が欲しいなんて。相手のことなんにも考えてない。自分のことばっかり考えてて嫌になっちゃう。いつも私はみんなに愛想よくして仲いいふりして。私のほうにだけ壁がある。それなのに心から分かり合える親友が欲しいなんて望んでばっかり。誰かに壁を壊して欲しい、そんな自分勝手なわがままを押し付けて。自分からくずす努力もしないで平気な顔して他人を困らせて」
歯止めがきかなかった。脳みそを口から垂れ流してしまった。溢れる想いがそのまま感情とともに言葉に乗せられてゆく。まだそよ風は夜中を走っていた。
「………………」
「どうすればいいのか、私にはわからない! 友達と会話してる時も、笑い合ってる時も、私だけ胸が苦しくって、でも、勝手に私だけが思い込んでるのもわかってて。私が望んでるものと違うだけで一人で勝手に悲しんでるの。どうして装っちゃうのかも自分のことなのにわからなくて、なにがなんだかわからないよ……」
目を伏せて横に首を振る。前髪がサクラの目を隠す。その姿は考えすぎて憔悴してしまったようだった。
なぜ初対面の人にこんな、心神耗弱を思わせるような辛辣なことを言ってしまっているのだろう。うつろな目をさまよわせながら考えていた。初対面だからこそ、もう関係を持つこともないという安心感から吐き出してしまっているのかもしれない。きっとそうだ、これからハルとの関係を持つことはないんだ。そう思い込みながらサクラは続けた。そのほうが楽だったから。
「親友ってなんでしょうね。わたし、わからないよ……」
ハルにはサクラが憐憫に見えたのかもしれない。しかし、だからこそ、彼女の言葉に辟易することなく、ハルは言葉を紡ぎ出した。
「サクラは努力しているよ。現に、私に対して仲良くなろうとさっきまで頑張っていたじゃないか。ただ、自分の思い込みが自分を縛ってしまって混乱しちゃってるだけさ」
ハルは脚を組み直す。そよ風は夜明けを欲するように追いかけていた。
「――親友が欲しい? ふん、そんなこと言ってもまるで全然、無意味なんだよ。そんなのただの独占欲が強いだけじゃん。寂しいけど自分で作ることができないから言葉にして甘えてるだけ。――私がなってやるよ」
彼女の得意とする幇助の手を、サクラに差し伸べた。
昼下がりのカフェに、温かな風が吹いた。その風は遠いどこかから旅をしてやって来たようだ。
サクラに飛び込む。前髪が風によって舞い、瞳の雫を奪ってゆく。そしてともなく消えていってしまった。
サクラはハルの手をとる。
春風は桜の花を散らし、融合して桜吹雪となる。ダンスを共に踊るように、優雅に舞う。
二人の出会いはそのように美しくはなかった。
しかし、なにかをあてつけて表現するのは無粋なほど、美しかった。