髪を結ばなかった日~紅茶~(レリーナ)
今日は、髪をまとめなかった。
正確には、結ってもらわなかった。
朝、椅子に座って鏡を見る。
背後に立つメイドが、櫛を手にしたまま、少しだけ待っている。
「今日は、どうなさいますか」
声は静かで、毎朝と同じ調子。
「……このままで、お願い」
そう言うと、櫛が止まる。
ほんの一瞬。
見逃してしまいそうなくらい。
「承知しました」
それ以上は、何も聞かれない。
本当は、結ってもらってもよかった。
編み込みも、低い位置でまとめるのも、嫌いじゃない。
でも今日は、何も思いつかなかった。
櫛が動き出す。
髪を整えるだけで、結ばない。
鏡の中で、髪が肩に落ちた。
この髪色は、家の中で私だけだ。外でも珍しい色だった。
制服の最後の確認が終わると、メイドは一歩下がって、軽く頭を下げた。
「では、玄関までお送りいたします」
玄関には、すでに馬車が来ている。
扉を出ると、御者と使用人が並んで、同じ角度で頭を下げる。
「いってらっしゃいませ、レリーナ様」
「……いってきます」
馬車に乗り込むとき、自然に手が添えられる。
扉が閉まる音で、外の空気が切り離される。
馬車の中は静かだ。
揺れは一定で、音も少ない。
学校に着くと、また同じように扉が開かれ、送り出される。
「お気をつけて」
「ありがとう」
家の中の作りは覚えているのに、校舎の中は相変わらずわからない。
似たような廊下。
似たような柱。
曲がったつもりで、違う場所に出る。
立ち止まって、少し考える。
戻るのも面倒で、そのまま進む。
結果、遠回りになる。
それでも無事に教室に到着できたことが素晴らしい。
放課後の廊下は、人が多い。
声も多い。
その中を歩くのは、少しだけ楽だ。
賑やかすぎて、私の存在が薄くなる。
「レリーナ様」
軽く声を掛けられる。
振り向くと、知らない男子生徒だった。
いや、顔は見たことがあるかもしれない。
もちろん、名前は知らない。
「今日も、その髪はとても――」
最後まで聞かずに、頭を下げる。
「私、急いでおりますの」
嘘じゃない。
私は放課後、いつも急いでいる。
目的地があるときだけ、ちゃんと歩ける。
家政魔術部の扉の前に立つと、息が少し整う。
以前、ここに来るまで、数日かかった。
道に迷ったわけではなくて。
入部届を持って、廊下を行ったり来たりして。
扉の前で立ち尽くして、そのまま帰った日もある。
家に帰るより、ここに入るほうが、その時は怖かった。
ノックをする前に、扉が内側から開く。
「レリーナさん」
ウィン先輩の声。
穏やか。それだけで、肩の力が抜ける。
「こんにちは」
「こんにちは。僕も、今来たところ」
たぶん、嘘じゃない。でも、本当でもないと思う。
部室の中は静かだった。
外の音が、遠くに感じる。
机の上には、布と瓶と札。
途中で止めたまま、きちんと揃っている。
「今日も備品の整理をするね」
ウィン先輩が机を示す。
「防汚加工前と後が混ざってるから、分け直したいんだ」
少し考えてから、続ける。
「ややこしいのは僕がやるね。レリーナさんは、布の方をお願い」
「はい!」
ここでは返事がつい早くなる。
そんな自分がいる。
棚の奥に、布が詰め込まれている。
色も厚みも、微妙に違う。
触ると、違いがわかる。
防汚加工前と後では、ほんの少し、纏う空気が違う。
集中していると、時間の進み方が変わる。
「それ、裏。加工前」
低い声。
顔を上げると、カイル先輩が近くにいた。
いつ来たのか、わからなかった。
「あ……ありがとうございます」
「…….」
布をひっくり返す。
「そっちの棚は、後でいい」
カイル先輩の短い指示。
「はい」
作業を続けながら、つい口が動く。
「私、方向感覚はまったくなくて、魔法もうまく使えないんです」
手は止めない。
「この棚も、毎回どれがどこに何があるかわからなくて」
言ってから、少し後悔する。うじうじしている自分。
「気にしないで。僕もいるし、カイルさんもいるし。魔法も大丈夫」
ウィン先輩が、記録を取りながら言う。
「そもそも、今日の備品整理だって、間違えても何も問題ないよ。使えなくなるわけじゃないしね」
「……そうですか?」
「うん」
その言い方が、やさしい。
家では、そんな言い方をされない。
間違えたら、間違い。
できなければ、できない。
だから、ここにいると不思議と気持ちが柔らかくなる。
カイル先輩が、何も言わずに棚の備品の位置を変える。
私が取りやすい高さ。
視線も、言葉もない。
でも、わかる。
見られていても、怖くない。
それは評価じゃなくて、気にしてくれているから。
家や外とは違う。全然、嫌じゃない。
ウィン先輩も、カイル先輩も。
「レリーナさん」
ウィン先輩に名前だけ呼ばれて、顔を上げる。
「今日は、帰り急ぐ?」
少し、言葉に詰まる。
「……少し、ゆっくりしてから帰ります」
「うん、わかった」
それ以上、聞かれない。
備品が片付くと、棚の中の雰囲気がまったく別のものに変わっていた。
「じゃあ、ここまでかな」
ウィン先輩が袖をまくる。
「あ、私、お茶――」
「大丈夫。僕がやるから」
穏やかに、当然みたいに。
私は、お茶を淹れるのが下手だ。
ウィン先輩の淹れる紅茶は、他とはひとあじ違う。
香りが先に来て、あとから味が残る。
あと、温かい。
「どうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
「カイルさんも、はいどうぞ」
「……ああ」
受け取って一口飲む。
やっぱり、おいしい。
「毎日、来なくてもいいんだよ」
唐突に、ウィン先輩が言う。
「無理して足を運ぶ場所じゃないし。気が向いたときでいいよ」
カイル先輩は、静かに紅茶を口にしている。
「…はい……」
私は笑顔で返した。
上手に笑えてますように。
そろそろ、迎えの時間だ。
部室を出ると、廊下の音が大きく感じた。
迎えの馬車は、いつもの場所にある。
使用人が気づいて、頭を下げる。
「お帰りなさいませ、レリーナ様」
「……ただいま」
馬車の中は、朝と同じ静けさ。
窓に映る髪が、揺れる。
それでも、帰りの私には、部室の時間が、ちゃんと残っている。
布の手触り。
紅茶の温もり。
名前を呼ばれた声。
窓の外が、もう見覚えのある景色に変わっていた。
レリーナちゃんの笑顔はとても可愛いと思います。
葉月百合




