桜色の午後、ジャムの甘さとスコーンの香り~いちごとチェリー~
春の昼下がり。昼休みの鐘が鳴る少し前、教室の空気はまだ静かだった。
人の流れに乗らず、僕は机の中から布に包んだ弁当箱を取り出す。
廊下は思ったより混んでいた。だから裏の通路を選ぶ。
止まらずに歩けるだけで、少し安心する。
窓の外の桜は淡く揺れ、春風に舞う花びらが光を反射していた。
中庭の端にあるベンチに腰を下ろす。少し傾いているが、昼の木陰は快適だ。
風が頬を撫で、花の香りが混じる。遠くで生徒たちの声が聞こえるが、ここは静かだった。
そっと膝に置いて、弁当箱を開く。
白身魚の焼き物。青菜の和え物、卵焼き。かぶと豚肉のやわらか煮。
ご飯は少し多めで、控えめな彩り。
一口目、ご飯を噛む。ふんわり甘く、口の中で少しほぐれる。
二口目、魚。香ばしい皮とほろほろの身が、春の午後の空気に溶けるみたいだ。
三口目、青菜。少し苦味が残るけれど、あとにすっきりと残る。
卵焼きを口に含むと、自然に小さな笑みが浮かぶ。
かぶはじゅわっと、出汁の優しい味が広がる。
木の葉が風に揺れ、カサカサと音を立てる。
誰かと話していたら気づかないかもしれない。
ゆっくり、一口ずつ味わう。
最後にご飯を少し残し、かぶの欠片と一緒に口に入れる。
弁当箱を閉じ、布で包み直して膝の上で形を整える。
昼休みはまだ終わらない。ここにいる理由もないし、別の場所へ行く理由もない。
(どうしようか)
立ち上がり、校舎へ戻る。
授業まで少し時間がある。
空いている教室に入る。
窓を開け、椅子に座る。
春の柔らかい光が差し込み、カーテンをそよがせる。
外の風は少しひんやりして、日差しで温められた空気と混ざる。
雲がゆっくり流れ、木々がそよぐ。時間は静かに進む。
窓の外を見ながら、ふと思い出す。
家政魔術部でマフィンを焼いた日のこと。
*
春の光が窓から差し込む午後、レリーナさんの長いピンクブロンドの髪が揺れていた。
カイルさんがぶっきらぼうに入ってきて、マフィンを食べながら、僕に名前を訊いた。
――「おい、お前」
――「はい?」
――「名前だ」
短く、でも確かな声色。
僕は少し間を置き、答えた。
――「あ、ウィンです」
空気が少し変わった。
レリーナさんは小さく、でも柔らかく尋ねた。
――「ウィン先輩と呼んでもよろしいでしょうか?」
――「うん、いいよ」
ほんの少し、距離が縮まった瞬間だった。
空いている教室で窓の外を見ながら、僕はその時の温かさを思い返す。
マフィンの香り、窓際の光、そして少しだけ心が弾んだあの感覚。
*
午後の授業が終わる。
人の流れがまた動き出す。
家政魔術部へ向かう廊下は静かで、この時間にここを通る人はほとんどいない。
鍵を開け、扉を押すと、いつもの匂いが広がる。
洗剤、木材、かすかに残る甘い香り。
窓を開け、棚を見る。器具は揃っていて、向きも昨日のまま。
床に視線を落とす。気になる汚れはないが、モップを手に取る。順番だ。
床を拭き、机の角をなぞり、調理台の表面を確かめる。
途中で手が止まる。レシピ帳が目に入った。
前回焼いたマフィンの配合を確認し、少し砂糖を減らす案と焼成時間を調整する案を書き足す。
閉じて、元の位置に戻す。
ここ数日、二人は此処に来ていなかった。
理由はわからないけれど、少し寂しい気持ちが混ざる。
その分、また顔を見られるかもしれない時間を、想像して少しワクワクする自分もいた。
控えめなノック。
「……失礼いたします」
扉の向こうに立っていたのは、レリーナ・エルフィオ、彼女だった。
「こんにちは、作業中でしたか?」
「うん、もう少しだけ」
「そうですか……それでは、少しだけお邪魔してもよろしいでしょうか?」
静かに中に入るレリーナさん。
そっとぼくの横に立つ。
棚や器具を確かめる仕草は自然で丁寧だ。
「……こうして見ると、作業台も器具も、気持ちよく使えそうですね」
「ありがとう。いつもこうして整えてるんだ」
作業を終えたあと、僕はスコーンを用意した。
春の光に透けるようにテーブルに置き、イチゴとサクランボのジャムを添える。
ジャムは色鮮やかで、甘酸っぱく、香りも春らしい。
「……ジャムの香りが、なんだか春そのものですね」
レリーナさんが目を細め、笑みを浮かべる。光が髪を透かし、柔らかく輝く。
「よかった。少し焼きすぎたかと思ったけど」
僕は小さく笑い、スコーンを手に取る。
「……おいしい」
僕も一口。
ジャムの甘みがスコーンの香ばしさと混ざり、口の中で溶ける。
「このスコーン、ほんのり甘くて、ジャムと合いますね」
レリーナさんの言葉は自然でやわらかい。
「そうかな? 良かった」
少し照れくさく、笑みを返す。
二人で静かにスコーンを食べていると、控えめな足音が廊下から聞こえた。
「……失礼」
声は短く、でも確かに聞き取れる。
扉がゆっくり開き、カイルさんが入ってきた。
黒髪を少し乱し、いつもどおりのぶっきらぼうな表情だが、肩の力は少し抜けている。
「……お、いたか」
短く言うだけで、笑顔は見せない。けれど、その視線は自然と僕たちの方に向けられていた。
「カイルさん……」
思わず声をかけると、彼は小さく頷く。
「……久しぶりだな」
ほんの少しだけ、間があって、でもその声に安心感が混じる。
レリーナさんもふわりと微笑み、静かに礼をする。
「お久しぶりです、カイル…先輩」
三人がそろうと、空気が少しだけ柔らかくなる。
僕はスコーンをもう一つ取り、カイルさんの前に置く。
「よかったら、どうぞ」
彼は一瞬、眉を寄せるように見えたけど、黙って手を伸ばし、スコーンを取る。
本当はお菓子が苦手なのだろうか。
ひと口噛むと、静かに小さく頷く。
「……おいしい」
二人の反応を見ながら、僕ももう一口。
イチゴとチェリーのジャムの甘酸っぱさが、スコーンの香ばしさと混ざり、春の午後の光と一緒に口の中で溶けていく。
「やっぱりこのジャム、春らしいよね。イチゴとチェリー」
僕が言うと、レリーナさんはにこりと笑い、
「はい、優しい甘さで、とても食べやすいです」
と、ふんわりと返してくれる。
カイルさんは相変わらず短い言葉だけれど、目の端で笑みを浮かべているのが見える。
こうして三人で、静かにスコーンを食べる。
会話は少なくても、自然と心地よい時間が流れる。
外の光が徐々に柔らかくなり、窓の外の桜の花びらは夕風に舞う。
甘い香りと春の風に包まれながら、僕たちはただ、穏やかな時間の中にいる。
しばらくすると、レリーナさんが小さく呟いた。
「こうして三人で、同じ時間を過ごせるのは、なんだか不思議ですね」
「……まあ、悪くはないな」
カイルさんは短く言うだけ。でも、目の奥に少しだけ柔らかい光がある。
春の放課後。光も香りも、そして小さな胸の高鳴りも、静かに積もっていく。
次に三人が揃うときは、また少し違った空気が待っているのかもしれない――そんな予感だけが、春風と一緒に心をくすぐった。
ウィンの日常に二人が加わって、これから三人。まだぎくしゃく。
葉月百合




