表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/9

桜色の午後、ジャムの甘さとスコーンの香り~いちごとチェリー~

 春の昼下がり。昼休みの鐘が鳴る少し前、教室の空気はまだ静かだった。

 人の流れに乗らず、僕は机の中から布に包んだ弁当箱を取り出す。



 廊下は思ったより混んでいた。だから裏の通路を選ぶ。

 止まらずに歩けるだけで、少し安心する。

 窓の外の桜は淡く揺れ、春風に舞う花びらが光を反射していた。

 中庭の端にあるベンチに腰を下ろす。少し傾いているが、昼の木陰は快適だ。

 風が頬を撫で、花の香りが混じる。遠くで生徒たちの声が聞こえるが、ここは静かだった。


 そっと膝に置いて、弁当箱を開く。

 白身魚の焼き物。青菜の和え物、卵焼き。かぶと豚肉のやわらか煮。

 ご飯は少し多めで、控えめな彩り。

 一口目、ご飯を噛む。ふんわり甘く、口の中で少しほぐれる。

 二口目、魚。香ばしい皮とほろほろの身が、春の午後の空気に溶けるみたいだ。

 三口目、青菜。少し苦味が残るけれど、あとにすっきりと残る。

 卵焼きを口に含むと、自然に小さな笑みが浮かぶ。

 かぶはじゅわっと、出汁の優しい味が広がる。

 木の葉が風に揺れ、カサカサと音を立てる。

 誰かと話していたら気づかないかもしれない。

 ゆっくり、一口ずつ味わう。

 最後にご飯を少し残し、かぶの欠片と一緒に口に入れる。

 弁当箱を閉じ、布で包み直して膝の上で形を整える。

 昼休みはまだ終わらない。ここにいる理由もないし、別の場所へ行く理由もない。


(どうしようか)


 立ち上がり、校舎へ戻る。



 授業まで少し時間がある。

 空いている教室に入る。

 窓を開け、椅子に座る。

 春の柔らかい光が差し込み、カーテンをそよがせる。

 外の風は少しひんやりして、日差しで温められた空気と混ざる。

 雲がゆっくり流れ、木々がそよぐ。時間は静かに進む。

 窓の外を見ながら、ふと思い出す。

 家政魔術部でマフィンを焼いた日のこと。






 春の光が窓から差し込む午後、レリーナさんの長いピンクブロンドの髪が揺れていた。

 カイルさんがぶっきらぼうに入ってきて、マフィンを食べながら、僕に名前を訊いた。


――「おい、お前」


――「はい?」


――「名前だ」


 短く、でも確かな声色。

 僕は少し間を置き、答えた。


――「あ、ウィンです」


 空気が少し変わった。

 レリーナさんは小さく、でも柔らかく尋ねた。


――「ウィン先輩と呼んでもよろしいでしょうか?」


――「うん、いいよ」


 ほんの少し、距離が縮まった瞬間だった。

 空いている教室で窓の外を見ながら、僕はその時の温かさを思い返す。

 マフィンの香り、窓際の光、そして少しだけ心が弾んだあの感覚。





 午後の授業が終わる。

 人の流れがまた動き出す。

 家政魔術部へ向かう廊下は静かで、この時間にここを通る人はほとんどいない。

 鍵を開け、扉を押すと、いつもの匂いが広がる。

 洗剤、木材、かすかに残る甘い香り。

 窓を開け、棚を見る。器具は揃っていて、向きも昨日のまま。

 床に視線を落とす。気になる汚れはないが、モップを手に取る。順番だ。

 床を拭き、机の角をなぞり、調理台の表面を確かめる。

 途中で手が止まる。レシピ帳が目に入った。

 前回焼いたマフィンの配合を確認し、少し砂糖を減らす案と焼成時間を調整する案を書き足す。

 閉じて、元の位置に戻す。



 ここ数日、二人は此処に来ていなかった。

 理由はわからないけれど、少し寂しい気持ちが混ざる。

 その分、また顔を見られるかもしれない時間を、想像して少しワクワクする自分もいた。



 控えめなノック。


「……失礼いたします」


 扉の向こうに立っていたのは、レリーナ・エルフィオ、彼女だった。


「こんにちは、作業中でしたか?」


「うん、もう少しだけ」


「そうですか……それでは、少しだけお邪魔してもよろしいでしょうか?」


 静かに中に入るレリーナさん。

 そっとぼくの横に立つ。

 棚や器具を確かめる仕草は自然で丁寧だ。


「……こうして見ると、作業台も器具も、気持ちよく使えそうですね」


「ありがとう。いつもこうして整えてるんだ」


 作業を終えたあと、僕はスコーンを用意した。

 春の光に透けるようにテーブルに置き、イチゴとサクランボのジャムを添える。

 ジャムは色鮮やかで、甘酸っぱく、香りも春らしい。


「……ジャムの香りが、なんだか春そのものですね」


 レリーナさんが目を細め、笑みを浮かべる。光が髪を透かし、柔らかく輝く。


「よかった。少し焼きすぎたかと思ったけど」


 僕は小さく笑い、スコーンを手に取る。


「……おいしい」


 僕も一口。

 ジャムの甘みがスコーンの香ばしさと混ざり、口の中で溶ける。


「このスコーン、ほんのり甘くて、ジャムと合いますね」


 レリーナさんの言葉は自然でやわらかい。


「そうかな? 良かった」


 少し照れくさく、笑みを返す。


 二人で静かにスコーンを食べていると、控えめな足音が廊下から聞こえた。


「……失礼」


 声は短く、でも確かに聞き取れる。

 扉がゆっくり開き、カイルさんが入ってきた。

 黒髪を少し乱し、いつもどおりのぶっきらぼうな表情だが、肩の力は少し抜けている。


「……お、いたか」


 短く言うだけで、笑顔は見せない。けれど、その視線は自然と僕たちの方に向けられていた。


「カイルさん……」


 思わず声をかけると、彼は小さく頷く。


「……久しぶりだな」


 ほんの少しだけ、間があって、でもその声に安心感が混じる。

 レリーナさんもふわりと微笑み、静かに礼をする。


「お久しぶりです、カイル…先輩」


 三人がそろうと、空気が少しだけ柔らかくなる。

 僕はスコーンをもう一つ取り、カイルさんの前に置く。


「よかったら、どうぞ」


 彼は一瞬、眉を寄せるように見えたけど、黙って手を伸ばし、スコーンを取る。

 本当はお菓子が苦手なのだろうか。

 ひと口噛むと、静かに小さく頷く。


「……おいしい」


 二人の反応を見ながら、僕ももう一口。

 イチゴとチェリーのジャムの甘酸っぱさが、スコーンの香ばしさと混ざり、春の午後の光と一緒に口の中で溶けていく。


「やっぱりこのジャム、春らしいよね。イチゴとチェリー」


 僕が言うと、レリーナさんはにこりと笑い、


「はい、優しい甘さで、とても食べやすいです」


 と、ふんわりと返してくれる。


 カイルさんは相変わらず短い言葉だけれど、目の端で笑みを浮かべているのが見える。

 こうして三人で、静かにスコーンを食べる。

 会話は少なくても、自然と心地よい時間が流れる。


 外の光が徐々に柔らかくなり、窓の外の桜の花びらは夕風に舞う。

 甘い香りと春の風に包まれながら、僕たちはただ、穏やかな時間の中にいる。


 しばらくすると、レリーナさんが小さく呟いた。


「こうして三人で、同じ時間を過ごせるのは、なんだか不思議ですね」


「……まあ、悪くはないな」


 カイルさんは短く言うだけ。でも、目の奥に少しだけ柔らかい光がある。


 春の放課後。光も香りも、そして小さな胸の高鳴りも、静かに積もっていく。

 次に三人が揃うときは、また少し違った空気が待っているのかもしれない――そんな予感だけが、春風と一緒に心をくすぐった。


 

 ウィンの日常に二人が加わって、これから三人。まだぎくしゃく。


 葉月百合

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ