文化祭の準備と、贈り物 ②
店内は静かだった。
扉の上の小さなベルが、からん、と控えめに鳴る。
それだけで、外の喧騒がすっと遠のいた。
木の床は柔らかく軋み、歩くたびにかすかな音を返す。
棚には整然と万年筆やインクが並び、ガラス越しに光を受けて静かに艶めいている。
瓶に閉じ込められた色が、まるで宝石みたいに並んでいた。
深い紺、透きとおる藍、柔らかな灰色、そして淡い若葉色。
紙とインクが混じった、少し甘い匂いがする。
古い本を開いたときのような、落ち着く匂い。
天井から下がるランプの光はやわらかく、影を濃くしすぎない。
時間が急かしてこない場所。
外の通りの賑わいは、扉一枚隔てただけで遠く、ここだけ流れがゆるやかに感じられた。
レリーナさんが小さく息をつく。
「……素敵」
思わず声を潜めてしまうのは、この空気を壊したくないからだ。
カイルさんは店内を一瞥し、それから棚へ視線を向ける。
僕は、ガラスケースの中に並ぶ万年筆に、自然と足を止めた。
静けさの中で、万年筆だけが静かにこちらを待っているみたいだった。
「奥の方、封蝋や便箋もありますよ。見てきてもいいですか?」
振り返った彼女の目はきらきらしている。
「うん、ゆっくり見てきて」
そう答えると、レリーナさんは嬉しそうに奥の棚へ歩いていった。
淡いピンクブロンドの髪が揺れて、やがて棚の向こうに隠れる。
足音が遠ざかる。
不意に、店内がさらに静かになった気がした。
隣に、気配。
「……静かだな」
カイルさんの低い声が、すぐ近くで落ちる。
さっきまで三人だった空間が、急に二人になった。
「そうですね」
答えながら、視線を棚へ戻す。
並ぶインク瓶の中に、若菜色があった。
芽吹いたばかりの葉のような、やわらかな緑。
光を受けると、ほんのりと金を含んでいる。
思わず手に取る。
ガラス越しに揺れる色は、静かで、それでいて確かな存在感があった。
「いい色だな」
カイルさんが呟く。
その声は、さっきより少し低い。
「……はい」
瓶を棚に戻し、隣の万年筆に目を移す。
深い藍色の軸。
角度によって、わずかに緑を帯びる。
若菜色と並べると、不思議と馴染む。
気づけば、万年筆を手に取っていた。
指に吸い付くような重み。
静かな、落ち着いた感触。
その様子を、カイルさんが見ている。
何も言わずに。
「気に入ったのか」
視線を上げると、目が合う。
近い。
「……少し」
そう答えた瞬間、カイルさんは迷いなく顔を上げた。
「店主」
奥へ向けて声をかける。
その声には、ためらいがない。
「これに、若菜色を入れてもらえるか」
万年筆とインクを差し出す。
心臓が、小さく跳ねる。
「え、あの……」
「試したらいい」
短い言葉。
けれど視線は外さない。
店主が手際よくインクを吸い上げる。
ペン先に若菜色が満ちていく。
その様子を、僕はただ見つめていた。
胸の奥が、少しずつ熱を帯びる。
「どうぞ」
差し出された万年筆を受け取る。
まだ温かい。
誰かの手の温度が、わずかに残っている。
白い試し書き用の紙の前に立つ。
静かな空間。
奥ではレリーナさんが棚を見ている気配がする。
けれど、ここはもう、二人だけの空気だった。
ペン先を紙に置く。
若菜色が、すっと伸びる。
その瞬間――
背後に、体温。
「……力、抜け」
低い声が、すぐ耳元に落ちる。
振り向けない。
近い。
近すぎる。
カイルさんの手が、僕の手に重なる。
包み込むように。
「押すな。滑らせる」
囁くような声。
呼吸が、頬をかすめる。
若菜色が、まっすぐに伸びる。
春の芽吹きのような、やわらかな線。
「そうだ」
低く、満足そうに。
背中に感じる体温が、はっきりする。
「その色、お前によく似合う」
胸が、強く鳴る。
若菜色が、紙の上で静かに光っている。
芽吹いたばかりの緑。
背中にあった体温が、ゆっくり離れる。
けれど、指先の熱は消えない。
「買おう」
穏やかに、けれど断定的に。
「それは、お前に贈りたい」
静かな店内に、鼓動だけが響いている気がした。
若菜色の線が、紙の上で静かに乾いていく。
やわらかく、それでいて芯のある緑。
その色を見つめたまま、僕は小さく息を吐いた。
「……でも」
手の中の万年筆が、やけに重く感じる。
「悪いです……」
視線を落としたまま言う。
「そうか。彼女の分も買おう。もちろん、俺が使う用もだ」
そこまで言ったところで、静かな沈黙が落ちた。
顔を上げる。
カイルさんが、じっとこちらを見ている。
逃げ場のない視線。
強くはないのに、逸らせない。
「俺がそうしたいんだ」
低く、穏やかな声。
「……え?」
「三人分ならいいだろう」
あまりにも当然のように言う。
「同じ万年筆に、同じ若菜色を入れる」
その言葉に、胸が小さく揺れる。
「そうじゃなくて……こんな高価なものを…」
「揃いのものが嫌か?」
ほんのわずかに、目が細くなる。
からかっているわけではない。
確かめるような視線。
「い、嫌では……ないです。むしろ……」
嬉しい。胸の奥が熱くなる。
同じ色。
同じ万年筆。
けれど、その視線がまっすぐすぎて、落ち着かない。
「なら、決まりだ」
カイルさんは静かに続ける。
そのとき。
一歩、距離が縮まる。
「お前が選んだものを使いたい」
低く、はっきりと。
視線が絡む。
近い。
店内は静かなのに、心臓の音だけがやけに大きい。
「若菜色」
カイルさんの指が、紙の上の緑をなぞる。
触れはしない。
けれど、すぐそばまで近づく。
「芽吹きの色だ」
視線が、ゆっくり僕に戻る。
その目に映る自分を、意識してしまう。
「……お前に似合うと思った」
まっすぐな言葉。
からかいも、冗談もない。
胸の奥が、強く鳴る。
視線を逸らせない。
「三人分買う。問題ない」
断定。
けれど優しい。
「遠慮するな」
静かに言われる。
責める響きはない。
ただ、包み込むような声。
僕は、ゆっくりと息を吸う。
「……ありがとうございます」
それしか言えない。
その瞬間。
「お待たせしました!」
明るい声が奥から響いた。
レリーナさんが、小さな便箋を手に戻ってくる。
「素敵な紙がたくさんあって……あれ?」
足を止める。
僕とカイルさんの距離。
試し書きの紙。
若菜色の線。
「……はぁ」
試し書きの紙と、二人の距離を順番に見て。
「なんだか、羨ましい空気です、カイル先輩」
目を細めて軽くため息をつくと、くすっとレリーナさんは笑った。
僕は慌てて一歩下がる。
「い、いや、あの……」
「若菜色のインクにこの万年筆だ」
カイルさんが平然と答える。
「三人分、これにする」
「えっ、そんな。私までよろしいのでしょうか」
「ああ」
レリーナさんの顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます。ウィン先輩、お揃いですね!」
その言葉に、また胸が跳ねる。
お揃い。
カイルさんは短く頷く。
けれど、その視線が一瞬だけこちらに向く。
ほんの一瞬。
けれど確かに。
若菜色のインクは、紙の上で静かに乾いていた。
芽吹きの色。
三人分。
それなのに、指先に残る熱は、まだ消えなかった。
店を出ると、少し冷たい風が通り抜けた。
小さな箱を抱えながら、僕はまだ胸の奥のざわめきを持て余している。
そのとき。
「このあと、時間あるか」
隣から落ちた声に、思わず足が止まる。
「……え?」
カイルさんが、まっすぐこちらを見ていた。
「近くにカフェがあった。寄っていくか」
一瞬、意味を飲み込めない。
今、誘ったのは。
「カイルさん……?」
「悪いか」
「い、いえ……そうじゃなくて」
驚いただけで。
だって、こういうのは大抵レリーナさんが見つけてくるものだから。
カイルさんから、なんて。
言葉が追いつかない僕をよそに、レリーナさんがぱっと顔を上げた。
「えっ、行きます行きます!さっきの白い看板のお店でしょうか?すごく可愛いお店でしたよね!」
くるりとこちらを向く。
「ウィン先輩、甘いもの食べに行きましょう!ね、いいですよね?」
目がきらきらしている。
さっきまで少し離れていたのが嘘みたいに、弾む声。
「私、ショーケースにおいしそうなケーキが見えてずっと気になっていたんです!」
「見てたのか」
カイルさんが淡く突っ込む。
「もちろんです!」
胸を張るレリーナさん。
「せっかく外に出たんですし、まっすぐ帰るのももったいないです!」
理由なんて、たぶんそれで十分なのだ。
僕は箱を抱え直す。
「……僕も、行きたいです」
そう言うと、カイルさんがわずかに視線を落とし、それから頷いた。
「じゃあ、決まりだ」
短い言葉。
けれど、どこか満足そうに聞こえたのは、気のせいだろうか。
「やった!」
レリーナが一歩前に出る。
「案内しますね! たぶんこっちです!」
「俺が…」
「大丈夫です!迷いません!」
明るい声が弾む。
「カイルさん、レリーナさんにここはお願いしましょう」
「……不安だ」
僕とカイルさんは、その少し後ろを並んで歩く形になる。
さっきより、距離が近い。
「……そんなに驚くことか」
ぽつりと横から声が落ちる。
「え?」
「俺が誘ったことだ」
心臓が、ひとつ跳ねた。
「……少しだけ」
正直に答えると、カイルさんは小さく息を吐く。
「たまには、いいだろ」
それだけ。
それだけなのに。
胸の奥が、じんわり熱を持つ。
前を歩くレリーナが振り返る。
「先輩たち、遅いですよー!」
陽の光の中で、笑顔が弾ける。
僕は思わず笑ってしまう。
万年筆と若菜色のインクの箱が、腕の中で静かに重い。
今日のことは、この色で書き留めておこう。
隣を歩くカイルさんの歩幅が、ほんの少しだけゆっくりになっている。
横顔を盗み見ると、カイルさんは前を向いたまま、わずかに口元を緩めていた。
カイルに素直に伝えるレリーナちゃんが好きです。
お話もう少しだけ、続きます。
葉月百合




