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18/20

文化祭の準備と、贈り物 ②


 店内は静かだった。

 扉の上の小さなベルが、からん、と控えめに鳴る。

 それだけで、外の喧騒がすっと遠のいた。

 木の床は柔らかく軋み、歩くたびにかすかな音を返す。

 棚には整然と万年筆やインクが並び、ガラス越しに光を受けて静かに艶めいている。

 瓶に閉じ込められた色が、まるで宝石みたいに並んでいた。

 深い紺、透きとおる藍、柔らかな灰色、そして淡い若葉色。

 紙とインクが混じった、少し甘い匂いがする。

 古い本を開いたときのような、落ち着く匂い。

 天井から下がるランプの光はやわらかく、影を濃くしすぎない。

 時間が急かしてこない場所。

 外の通りの賑わいは、扉一枚隔てただけで遠く、ここだけ流れがゆるやかに感じられた。

 レリーナさんが小さく息をつく。


「……素敵」


 思わず声を潜めてしまうのは、この空気を壊したくないからだ。

 カイルさんは店内を一瞥し、それから棚へ視線を向ける。

 僕は、ガラスケースの中に並ぶ万年筆に、自然と足を止めた。

 静けさの中で、万年筆だけが静かにこちらを待っているみたいだった。


「奥の方、封蝋や便箋もありますよ。見てきてもいいですか?」


 振り返った彼女の目はきらきらしている。


「うん、ゆっくり見てきて」


 そう答えると、レリーナさんは嬉しそうに奥の棚へ歩いていった。

 淡いピンクブロンドの髪が揺れて、やがて棚の向こうに隠れる。

 足音が遠ざかる。

 不意に、店内がさらに静かになった気がした。

 隣に、気配。


「……静かだな」


 カイルさんの低い声が、すぐ近くで落ちる。

 さっきまで三人だった空間が、急に二人になった。


「そうですね」


 答えながら、視線を棚へ戻す。

 並ぶインク瓶の中に、若菜色があった。

 芽吹いたばかりの葉のような、やわらかな緑。

 光を受けると、ほんのりと金を含んでいる。

 思わず手に取る。

 ガラス越しに揺れる色は、静かで、それでいて確かな存在感があった。


「いい色だな」


 カイルさんが呟く。

 その声は、さっきより少し低い。


「……はい」


 瓶を棚に戻し、隣の万年筆に目を移す。

 深い藍色の軸。

 角度によって、わずかに緑を帯びる。

 若菜色と並べると、不思議と馴染む。

 気づけば、万年筆を手に取っていた。

 指に吸い付くような重み。

 静かな、落ち着いた感触。

 その様子を、カイルさんが見ている。

 何も言わずに。


「気に入ったのか」


 視線を上げると、目が合う。

 近い。


「……少し」


 そう答えた瞬間、カイルさんは迷いなく顔を上げた。


「店主」


 奥へ向けて声をかける。 

 その声には、ためらいがない。


「これに、若菜色を入れてもらえるか」


 万年筆とインクを差し出す。

 心臓が、小さく跳ねる。


「え、あの……」

「試したらいい」


 短い言葉。

 けれど視線は外さない。

 店主が手際よくインクを吸い上げる。

 ペン先に若菜色が満ちていく。

 その様子を、僕はただ見つめていた。

 胸の奥が、少しずつ熱を帯びる。


「どうぞ」


 差し出された万年筆を受け取る。

 まだ温かい。

 誰かの手の温度が、わずかに残っている。

 白い試し書き用の紙の前に立つ。

 静かな空間。

 奥ではレリーナさんが棚を見ている気配がする。

 けれど、ここはもう、二人だけの空気だった。

 ペン先を紙に置く。

 若菜色が、すっと伸びる。

 その瞬間―― 

 背後に、体温。


「……力、抜け」


 低い声が、すぐ耳元に落ちる。

 振り向けない。 

 近い。

 近すぎる。

 カイルさんの手が、僕の手に重なる。

 包み込むように。


「押すな。滑らせる」


 囁くような声。

 呼吸が、頬をかすめる。

 若菜色が、まっすぐに伸びる。

 春の芽吹きのような、やわらかな線。


「そうだ」


 低く、満足そうに。

 背中に感じる体温が、はっきりする。


「その色、お前によく似合う」


 胸が、強く鳴る。 

 若菜色が、紙の上で静かに光っている。

 芽吹いたばかりの緑。

 背中にあった体温が、ゆっくり離れる。

 けれど、指先の熱は消えない。


「買おう」


 穏やかに、けれど断定的に。


「それは、お前に贈りたい」


 静かな店内に、鼓動だけが響いている気がした。

 若菜色の線が、紙の上で静かに乾いていく。

 やわらかく、それでいて芯のある緑。

 その色を見つめたまま、僕は小さく息を吐いた。


「……でも」


 手の中の万年筆が、やけに重く感じる。


「悪いです……」


 視線を落としたまま言う。 


「そうか。彼女の分も買おう。もちろん、俺が使う用もだ」


 そこまで言ったところで、静かな沈黙が落ちた。 

 顔を上げる。

 カイルさんが、じっとこちらを見ている。

 逃げ場のない視線。

 強くはないのに、逸らせない。


「俺がそうしたいんだ」


 低く、穏やかな声。


「……え?」

「三人分ならいいだろう」


 あまりにも当然のように言う。


「同じ万年筆に、同じ若菜色を入れる」


 その言葉に、胸が小さく揺れる。


「そうじゃなくて……こんな高価なものを…」

「揃いのものが嫌か?」


 ほんのわずかに、目が細くなる。

 からかっているわけではない。

 確かめるような視線。


「い、嫌では……ないです。むしろ……」


 嬉しい。胸の奥が熱くなる。 

 同じ色。

 同じ万年筆。

 けれど、その視線がまっすぐすぎて、落ち着かない。


「なら、決まりだ」


 カイルさんは静かに続ける。

 そのとき。

 一歩、距離が縮まる。


「お前が選んだものを使いたい」


 低く、はっきりと。

 視線が絡む。

 近い。

 店内は静かなのに、心臓の音だけがやけに大きい。


「若菜色」


 カイルさんの指が、紙の上の緑をなぞる。

 触れはしない。

 けれど、すぐそばまで近づく。


「芽吹きの色だ」


 視線が、ゆっくり僕に戻る。

 その目に映る自分を、意識してしまう。


「……お前に似合うと思った」


 まっすぐな言葉。

 からかいも、冗談もない。 

 胸の奥が、強く鳴る。

 視線を逸らせない。


「三人分買う。問題ない」


 断定。

 けれど優しい。


「遠慮するな」


 静かに言われる。

 責める響きはない。

 ただ、包み込むような声。

 僕は、ゆっくりと息を吸う。


「……ありがとうございます」


 それしか言えない。

 その瞬間。


「お待たせしました!」


 明るい声が奥から響いた。

 レリーナさんが、小さな便箋を手に戻ってくる。


「素敵な紙がたくさんあって……あれ?」


 足を止める。

 僕とカイルさんの距離。

 試し書きの紙。

 若菜色の線。


「……はぁ」


 試し書きの紙と、二人の距離を順番に見て。


「なんだか、羨ましい空気です、カイル先輩」


 目を細めて軽くため息をつくと、くすっとレリーナさんは笑った。 

 僕は慌てて一歩下がる。


「い、いや、あの……」

「若菜色のインクにこの万年筆だ」


 カイルさんが平然と答える。


「三人分、これにする」

「えっ、そんな。私までよろしいのでしょうか」

「ああ」


 レリーナさんの顔がぱっと明るくなる。


「ありがとうございます。ウィン先輩、お揃いですね!」


 その言葉に、また胸が跳ねる。

 お揃い。

 カイルさんは短く頷く。

 けれど、その視線が一瞬だけこちらに向く。

 ほんの一瞬。

 けれど確かに。

 若菜色のインクは、紙の上で静かに乾いていた。

 芽吹きの色。

 三人分。

 それなのに、指先に残る熱は、まだ消えなかった。


 店を出ると、少し冷たい風が通り抜けた。

 小さな箱を抱えながら、僕はまだ胸の奥のざわめきを持て余している。

 そのとき。


「このあと、時間あるか」


 隣から落ちた声に、思わず足が止まる。


「……え?」


 カイルさんが、まっすぐこちらを見ていた。


「近くにカフェがあった。寄っていくか」


 一瞬、意味を飲み込めない。

 今、誘ったのは。


「カイルさん……?」

「悪いか」

「い、いえ……そうじゃなくて」


 驚いただけで。

 だって、こういうのは大抵レリーナさんが見つけてくるものだから。

 カイルさんから、なんて。

 言葉が追いつかない僕をよそに、レリーナさんがぱっと顔を上げた。


「えっ、行きます行きます!さっきの白い看板のお店でしょうか?すごく可愛いお店でしたよね!」


 くるりとこちらを向く。


「ウィン先輩、甘いもの食べに行きましょう!ね、いいですよね?」


 目がきらきらしている。

 さっきまで少し離れていたのが嘘みたいに、弾む声。


「私、ショーケースにおいしそうなケーキが見えてずっと気になっていたんです!」

「見てたのか」


 カイルさんが淡く突っ込む。


「もちろんです!」


 胸を張るレリーナさん。


「せっかく外に出たんですし、まっすぐ帰るのももったいないです!」


 理由なんて、たぶんそれで十分なのだ。

 僕は箱を抱え直す。


「……僕も、行きたいです」


 そう言うと、カイルさんがわずかに視線を落とし、それから頷いた。


「じゃあ、決まりだ」


 短い言葉。

 けれど、どこか満足そうに聞こえたのは、気のせいだろうか。


「やった!」


 レリーナが一歩前に出る。


「案内しますね! たぶんこっちです!」

「俺が…」

「大丈夫です!迷いません!」


 明るい声が弾む。


「カイルさん、レリーナさんにここはお願いしましょう」

「……不安だ」


 僕とカイルさんは、その少し後ろを並んで歩く形になる。

 さっきより、距離が近い。


「……そんなに驚くことか」


 ぽつりと横から声が落ちる。


「え?」

「俺が誘ったことだ」


 心臓が、ひとつ跳ねた。


「……少しだけ」


 正直に答えると、カイルさんは小さく息を吐く。


「たまには、いいだろ」


 それだけ。

 それだけなのに。

 胸の奥が、じんわり熱を持つ。

 前を歩くレリーナが振り返る。


「先輩たち、遅いですよー!」


 陽の光の中で、笑顔が弾ける。

 僕は思わず笑ってしまう。

 万年筆と若菜色のインクの箱が、腕の中で静かに重い。

 今日のことは、この色で書き留めておこう。

 隣を歩くカイルさんの歩幅が、ほんの少しだけゆっくりになっている。

 横顔を盗み見ると、カイルさんは前を向いたまま、わずかに口元を緩めていた。





 カイルに素直に伝えるレリーナちゃんが好きです。

 お話もう少しだけ、続きます。


 葉月百合

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