レモンの香りのする距離〜白身魚のムニエル〜
夕刻の寮食堂は、昼間とは別の顔をしていた。
高い天井に吊るされた照明が一斉に灯り、長いテーブルの上を白く照らしている。
皿と皿が触れ合う乾いた音、椅子を引く擦過音、あちこちで交わされる笑い声。
煮込み料理の甘い匂いと、焼きたてのパンの香ばしさが混ざり合い、空気そのものが温かい。
僕はトレーを手に列に並び、順番に料理を受け取った。
今日の主菜は白身魚のムニエル。
皮目は薄く香ばしい焼き色をまとい、溶けたバターが表面に艶をつくっている。
刻んだパセリが散らされ、皿を動かすたびにほのかな香りが立った。
横にはレモンのくし切りが添えられている。
スープは根菜のポタージュ。淡い橙色で、表面に浮いた小さな油の輪が灯りを反射していた。匙を入れるととろりと重く、湯気がゆっくりと立ちのぼる。
籠に積まれた丸いパンは、外側がぱりりと硬そうで、指先で触れるとまだほんのり温かい。
トレーを持って振り返った瞬間、背後から軽い声が飛んだ。
「ウィン、そっち空いてる?」
振り向くと、はしばみ色の髪が灯りを受けて柔らかく光っていた。若葉色の瞳が、屈託なく細められている。
「空いてるよ」
そう言うより早く、アルテは椅子を引いてとなりに腰を下ろした。
「今日一緒だろ、点呼。西棟」
「うん、そうだね」
「階段多いんだよな、あっち。オレ、あれ嫌い」
大げさに肩を落としながらも、どこか楽しそうだ。トレーを置く手つきも軽い。
アルテはすぐに僕の皿を覗き込んだ。
「レモンかけた?」
「今から」
「貸して」
言うが早いか、指先でレモンを取り、僕の魚にきゅっと絞る。果汁が弾け、熱に触れた香りがふわりと立ちのぼった。
「ちょっと、多いかな」
「平気平気。酸っぱいの目、覚めるぞ」
笑いながら、自分の皿にも同じように絞る。距離が近い。肩と肩がほとんど触れそうにな位置にアルテは座る。
ナイフを入れると、白身はやわらかくほぐれ、透明な肉汁がにじんだ。
口に運ぶと、外側は軽く香ばしく、中はふわりとほどける。
バターのコクに、レモンの酸味が重なり、思ったよりもさっぱりしている。
「お、うまい」
「うん、おいしいね」
「だね。今日当たり」
アルテは満足げに頷き、パンをひとつ手に取った。
半分に割ると、白い中身から湯気が立ち上る。
小麦の甘い匂いが、ふわりと広がった。
「ほら」
差し出される。
「いいの?」
「オレもう一個あるし」
受け取ると、指先が一瞬だけ触れた。
「まだ、熱いんじゃないかな」
アルテは何事もない顔でスープを飲み、すぐに「熱っ」と小さく声を上げる。
「だから言ったのに」
「待てないんだって」
その様子が妙に素直で、僕は思わず笑った。
しばらくは他愛のない話が続く。
今日の授業のこと、寮の掲示板に貼られていた注意書きのこと、誰が点呼を忘れたか。
アルテはよく笑い、よく身振りを使う。
話すたびに腕が軽く触れたり、肩がぶつかったりする。
そのたびに「わり」と笑って済ませるが、距離はほとんど変わらない。
「最近さ」
スープを飲み干し、ふとアルテが言う。
「なんか雰囲気変わったよな」
「そうかな?」
「うん。前より柔らかい」
パンをちぎりながら、何気なく続ける。
「なんか、機嫌いい日多くない?」
「別に普通だと思うけど」
「そっか」
それ以上は追わない。ふーんと納得していないように目を細める。
食事を終え、トレーを返却口に戻す。
食堂の熱気を抜けると、廊下は少しひんやりしていた。
名簿を受け取り、西棟へ向かう。
「真面目委員、ちゃんと持ってるか?」
「持ってるよ」
アルテは隣に並び、歩幅を合わせる。
階段の手前で、背中を軽く押される。
「先行け」
「びっくりした」
「わり。ま、いいじゃん」
笑いながらも、手はすぐに離れる。
西棟の廊下は静かだ。灯りが等間隔に並び、床に白い帯を落としている。
足音だけが、規則正しく響く。
最初の部屋の前で立ち止まり、アルテがノックする。
「自治委員でーす、点呼でーす」
扉が開き、名前を確認する。
名簿に印をつけるウィンの横で、アルテは軽く壁にもたれた。
次の部屋へ向かう途中、アルテが肩で僕にぶつかってきた。
「硬い顔すんなよ」
「してないよ」
「してるって」
言いながら、背中をぽんと叩く。手のひらは温かい。
何部屋か回り、階段を上る。
途中で僕はわずかに足を踏み外しかけた。
「おっと」
すぐ横から腕が伸び、肘のあたりを掴まれる。体勢が戻ると、アルテはあっさり手を離した。
「危な。ちゃんと前見ろよ」
「見てたんだけどな」
「怪しいな」
軽く笑う。その声に緊張はない。
点呼は順調に進み、最後の部屋を終える。
「西棟終了。優秀優秀」
アルテが名簿を覗き込み、肩に肘を乗せる。体重はほとんどかかっていないが、距離は近い。
「助かったわ。ウィンとだとほんと楽」
「特に変わったことはしていないけど」
「それな。それができる人が少ないの」
軽く拳を差し出され、一瞬何かわからない。
あ、と気づき、僕もアルテの拳に合わせる。骨が小さく当たる感触。
廊下の端で立ち止まる。
「今日はオレが提出しとくよ。ウィンは戻っていいぞ」
「ありがとう」
アルテは数歩後ろ向きに歩き、くるりと体を反転させた。
「ちゃんと寝ろよ」
「アルテも。おやすみなさい」
「おやすみー」
ひらひらと手を振り、足取り軽く去っていく。
灯りの下に残ったのは、静かな廊下と、僕だけだ。明るい彼がいないだけで、こんなに静かになってしまう。
僕は窓の外を眺めながら、ゆっくり部屋へ戻った。
アルテ初登場です。
葉月百合




