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また来る、のそのあと ②


 ――屋上


 寮へ戻る前に、足が止まった。

 階段を上がる理由はない。

 けれど、引き返す理由もなかった。

 胸の奥に残った言葉が、まだ冷めきっていない。

 扉を押すと、重たい金属音がして、冷たい風が一気に抜ける。

 昼間の熱をすでに失った空気が、頬をかすめた。

 夕方の空は薄く、紫と橙がゆるく混ざり合っている。

 学内が遠くの街がすべてが滲んで見えた。

 ネクタイが揺れる。シャツの裾が鳴る。

 布がこすれる音がやけに大きい。

 ひとりだと思った。

 だから、少しだけ気を抜いた。


「……何してる」


 背後から声が落ちる。

 心臓が跳ねる。

 振り向くより先に、体が反応する。

 振り向くと、カイルさんがいた。

 風に髪を揺らしながら、こちらを見ている。

 夕日の逆光で、輪郭が少しだけ滲んで見えた。

 表情は読めないのに、視線だけがはっきりしている。

 心臓が一度だけ、大きく跳ねる。

 その余韻が、遅れて胸に広がる。


「帰る前に、少しだけ」


 自分の声が、思ったよりも小さい。

 言い訳みたいだと、自分でも分かる。

 カイルさんは何も追及しない。

 ただ、ゆっくり歩いてくる。

 靴音が響く。

 その音が近づくたび、呼吸が浅くなる。

 隣に立つ。

 距離は腕一本分。

 触れそうで触れない。

 互いの体温が届くか届かないか、その曖昧な境目。

 風が強くなる。

 

「寮、戻るんだろ」

「はい」


 短い返事。

 喉が少し乾いている。

 それだけの会話。

 なのに、帰る足が動かない。

 背中に感じる夕日の残り火が、まだ消えない。

 

「……来ないかもしれないって、思っていました」


 視線は遠くへ向けたまま。

 横顔を見られたくなくて。

 風に紛れるように言う。

 声が、空気に溶ける。

 カイルさんは黙る。

 ただ、こちらを見る気配だけがある。


「“また来る”って、言いましたけど」


 あのときの声を思い出す。

 静かで、揺れない声。

 まるで当然みたいに言った、その響き。


「約束、ってわけじゃなかったから」


 指先に力が入る。

 自分でも驚くくらい、素直だった。

 こんなふうに言うつもりはなかったのに。

 カイルさんが一歩近づく。

 足音がひとつ、距離を縮める。

 風で距離が揺れる。

 シャツの袖が、ほんの一瞬だけ触れそうになる。


「約束だった」


 カイルさんの低い声。

 胸の奥に、まっすぐ落ちる。

 はっきり。

 迷いを押し切ったような響き。

 息が止まる。

 肺に入れた空気を、吐き出すのを忘れる。

 視線を上げると、まっすぐだった。

 逃げ場を与えない目。

 でも、どこか必死さも滲んでいる。


「……え」


 聞き返すより早く、続く。


「俺が来るって言ったら、来る」


 言い切る。

 余白を残さない声。

 風が強く吹く。

 二人の間を通り抜ける。

 カイルさんの前髪が揺れ、影が落ちる。

 その影が、こちらの頬にかかる気がした。


「不安になるな」


 命令みたいで、違う。

 わずかな迷いが、声の奥に混じる。

 言い聞かせているのは、どちらなのか分からない。


「……それは、僕の…勝手です」


 思わず返す。

 自分でも驚くほど、小さく反発した。

 声が震えているのが分かる。

 自分は何を口にしているんだろう。

 カイルさんの目がわずかに細まる。

 怒りではなく、戸惑いにも似た揺れ。

 一拍。

 風の音だけが、間を埋める。

 それから、言う。


「余計なことを考えるな」


 空気が変わる。

 目に見えないものが、ぐっと近づく。

 心臓の音がうるさい。

 鼓動が、耳の奥で響く。


「あと、お前が待つのは、俺だけでいい」

「............」


 風の音が遠のく。

 一瞬、世界が止まったみたいだった。

 触れていない。

 腕も、肩も、重なっていない。

 それなのに、体の奥が熱くなる。

 逃げ場がない。

 視線も、距離も、言葉も。


「……それ、は」


 やっと出た声は、掠れている。

 喉がひりつく。

 カイルさんは目を逸らさない。

 まっすぐ、こちらだけを見る。

 夕日が横顔を赤く染める。

 頬骨の影が深くなる。

 その表情が、いつもより少し大人びて見えた。

 言葉の意味が、遅れて落ちてくる。

 胸の奥に、重く沈む。

 待つな、ではない。

 待つなら、俺だけ。

 喉が乾く。

 唇をわずかに湿らせる。


「僕は……」


 言いかけて、止まる。

 言葉の続きを探して、見つからない。

 答えを求められているわけじゃない。

 なのに、逃げたくない。

 風がまた強く吹く。

 その拍子に、肩が触れた。

 布越しの、わずかな熱。

 離れない。

 カイルがわずかに顔を近づける。

 吐息が混ざりそうな距離。


「帰るんだろ」


 低い声。

 けれど、動かない。


「……はい」


 そう言いながら、足はそのまま。

 視線も逸らせない。

 カイルさんが先に一歩下がる。

 距離が戻る。

 急に、風が入り込む。


「行くぞ」


 それだけ。

 けれど、今までと違う。

 “また来る”ではなく“お前は俺だけでいい”。

 背を向ける姿を見つめる。

 夕日に縁取られた背中が、やけに遠く感じる。

 胸の奥が、静かに熱い。

 屋上の風は冷たいのに、

 心臓だけが熱を持っている。

 階段へ向かう足音が重なる。

 響く二人分の音。

 寮へ向かう階段を下りながら、思う。

 ――ずるい。

 あんなふうに言われて、あんな目で見られて、あんな距離で立たれて。

 何も変わらないふりなんて、できるわけがない。

 胸の奥に残った熱が、簡単には冷めそうにない。





 前話の続きです。


 葉月百合

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