また来る、のそのあと~ミルフィーユ~
午後の家政魔術部室は、薄く曇った光に包まれていた。
窓辺に置いたガラス瓶の中で、水がかすかに揺れている。
今日は花は挿していない。
冷えた生地を取り出し、今度は三ミリほどの厚さに伸ばす。
フォークで均等に穴をあける。
そうしておかないと、焼いたときに過剰に膨らむ。
天板に移し、上からもう一枚の天板を重ねる。
オーブンへ。
扉を閉めると、かすかな振動音が始まる。
しばらくして、バターの香りが立ち上る。
きつね色になるまで、しっかり焼く。
途中で一度取り出し、天板を外す。
浮き上がりそうな部分を、耐熱手袋越しに軽く押さえる。
再び焼成。
こんがりと均一な色になったところで取り出し、網の上に移す。
湯気が立つ。
ここで挟めば、蒸気で確実に湿る。
完全に冷めるまで、触らない。
その間にカスタードを確認する。
朝のうちに炊いておいたものは、冷蔵庫でしっかり締まっている。泡立て器で軽くほぐし、なめらかに戻す。緩すぎない。絞れる硬さ。
焼き上がったパイは、完全に冷めた。
今日はミルフィーユにしようと思った。
理由は、ない。
ないはずだった。
(来なくても、いい)
そう思いながら、耳は扉の気配を探している。
ばかみたいだ。
そのとき――かすかな、開閉音。
「……いるか」
低い声。
一瞬、呼吸を忘れた。
心臓が、遅れて強く鳴る。
振り向かない。
振り向いたら、待っていたことが、ばれる。
振り向くまでに、わずかな時間を置いた。
それでも、声は平静を装う。
「いますよ」
声が少しだけ硬い。
それでも、ゆっくり振り向く。
扉のところに、カイルさんが立っていた。
変わらない表情。
整った横顔。
無駄のない立ち姿。
けれど、少しだけ痩せた気がする。
(気のせいだ)
そう思いたいのに、目が勝手に確かめてしまう。
「来た」
短い。
「……そうですね」
「遅れた」
一拍置いて。
「……悪い」
その一言が、胸の奥に落ちる。
軽いはずなのに、重い。
「別に、カイルさんが謝るようなことではないです」
言いながら、作業に戻る。
絞り袋にカスタードを入れ、一本目のパイの上に等間隔に絞る。
塗り広げない。点で置く。
二枚目を重ねる。
中央から軽く、均等に圧をかける。
押しつぶさない。
もう一段、クリーム。
最後の一枚を乗せる。
カイルさんが近づく。
足音は静かだけれど、距離はすぐ縮まる。
「怒ってるか」
「どうして怒る必要がありますか」
少し早口になった。
「そうか」
それ以上は言わない。
説明も、理由も、弁解も。
「何だ」
視線が台に向く。
「ミルフィーユです」
「層のやつか」
「はい」
「珍しいな」
「気分です」
「切るのか」
カイルさんが言う。
「はい」
ナイフを熱湯にくぐらせる。
水気を丁寧に拭き取る。
ためらうと、崩れる。
ナイフを入れる。
薄いパイ生地は、想像以上に繊細で、刃先が少し震える。
そのとき。
手の上に、手が重なった。
指先が触れる。
熱い。
いや、冷たい。
わからない。
「……離れてください」
「なんで」
「集中できません」
「俺がいると」
言葉が止まる。
「……崩れます」
それは生地のこと。
そのはずなのに。
カイルさんがほんのわずか、口元を緩めた。
そして、そっと離れた。
「もう崩れてる」
「崩れてません」
小さく言い返す。
ようやく目を上げる。
目が合う。
近い。
胸の奥がほどける。
崩れやすいのは、層じゃない。
たぶん、僕のほうだ。
「端、割れてる」
視線を落とすと、本当に少し欠けている。
いつもなら迷わない角度が、今日は決まらない。
「切らないのか」
その一言に、胸が跳ねる。
カイルさんは黙って見ている。
視線が、近い。
見られている。
手元だけじゃない。
呼吸も、間も、全部。
一気に刃を引く。
パリ、と乾いた音。
断面がきれいに立つ。
二切れ目。
わずかに上の層が横へずれかける。
「あ」
声が出る前に、横から手が添えられた。
強くはない。
ただ、逃げないように止める力。
刃を最後まで引き切る。
サクッ、と音がして、きれいに分かれた。
「……待ってたのか」
不意打ちだった。
「待ってません」
即答。
「そうか」
否定されても、追及しない。
淡々とした声。
手はもう離れている。
皿に三切れ並べる。
「嘘だな」
響く低い声。
距離が、また近い。
心臓が止まりそうになる。
「ちがい…ます」
声が弱くなる。
カイルさんが何も言わない。
それがいちばん、困る。
そのとき、扉が開いた。
「……あ」
レリーナさんの声。
一瞬で空気を察する目。
けれど、何も言わない。
「今日は、もうお揃いですね」
柔らかく、控えめに明るい。
「レリーナさん。こんにちは」
僕はすぐ一歩引く。
カイルさんも自然に距離を取って、椅子を引いた。
レリーナさんはエプロンを取りながら、にっこりする。
「ミルフィーユですか?」
「そうです」
「層、きれいですね」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。
「私、最後の粉砂糖かけます」
「お願いします」
レリーナさんが粉砂糖をふると、白がやわらかく降り積もる。
「……甘そうだな」
カイルさんが言う。
「甘いです」
レリーナさんがくすっと笑う。
皿を並べる。
一枚、二枚、三枚。
僕は一瞬だけ迷って、四枚目を出しかけて、やめた。
その仕草を、カイルさんは見ていない……見ていないはずだ。
「いただきます」
レリーナさんの声が、部屋をやわらかくする。
パイはさくりと崩れ、クリームが静かに広がる。
「……うまい」
カイルさんが言う。
それだけで十分だ。
「層、ちゃんと重なってますね」
レリーナさんが言う。
僕はフォークを置く。
「……崩れかけました」
思い出すのは、あの瞬間だ。
層がずれ、指先が迷い、呼吸が乱れた。
「崩れてない」
カイルさんは淡々と言う。
レリーナさんが微笑む。
「私、洗い物してきますね」
ただ穏やかにそう言って、部屋の隅の流し台へ向かう。
水道の蛇口をひねる音が、静かに響いた。
部屋の中にいるのに、ほんの少しだけ距離ができる。
「また作るよな」
カイルさんが言う。
あのとき伸びてきた手は、迷いがなかった。
触れた指先の感触が、遅れて蘇る。
「気分が向いたら」
「向かせる」
短い。
それだけ。
胸の奥が、また少しだけ騒がしくなる。
僕は視線を落とす。
素直にはなれない。
待っていたなんて、言わない。
けれど。
三人分の皿が並んだ午後は、思ったより、静かで、あたたかい。
そして僕の鼓動だけが、少しだけ、落ち着かないままだった。
進展しました!
葉月百合




