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14/20

また来る、のそのあと~ミルフィーユ~



 午後の家政魔術部室は、薄く曇った光に包まれていた。

 窓辺に置いたガラス瓶の中で、水がかすかに揺れている。

 今日は花は挿していない。


 冷えた生地を取り出し、今度は三ミリほどの厚さに伸ばす。

 フォークで均等に穴をあける。

 そうしておかないと、焼いたときに過剰に膨らむ。

 天板に移し、上からもう一枚の天板を重ねる。

 オーブンへ。

 扉を閉めると、かすかな振動音が始まる。

 しばらくして、バターの香りが立ち上る。

 きつね色になるまで、しっかり焼く。

 途中で一度取り出し、天板を外す。

 浮き上がりそうな部分を、耐熱手袋越しに軽く押さえる。

 再び焼成。

 こんがりと均一な色になったところで取り出し、網の上に移す。

 湯気が立つ。

 ここで挟めば、蒸気で確実に湿る。

 完全に冷めるまで、触らない。

 その間にカスタードを確認する。

 朝のうちに炊いておいたものは、冷蔵庫でしっかり締まっている。泡立て器で軽くほぐし、なめらかに戻す。緩すぎない。絞れる硬さ。

 焼き上がったパイは、完全に冷めた。


 今日はミルフィーユにしようと思った。

 理由は、ない。

 ないはずだった。


(来なくても、いい)


 そう思いながら、耳は扉の気配を探している。

 ばかみたいだ。

 そのとき――かすかな、開閉音。


「……いるか」


 低い声。

 一瞬、呼吸を忘れた。

 心臓が、遅れて強く鳴る。

 振り向かない。

 振り向いたら、待っていたことが、ばれる。

 振り向くまでに、わずかな時間を置いた。

 それでも、声は平静を装う。


「いますよ」


 声が少しだけ硬い。

 それでも、ゆっくり振り向く。

 扉のところに、カイルさんが立っていた。

 変わらない表情。

 整った横顔。

 無駄のない立ち姿。

 けれど、少しだけ痩せた気がする。


(気のせいだ)


 そう思いたいのに、目が勝手に確かめてしまう。


「来た」


 短い。


「……そうですね」

「遅れた」


 一拍置いて。


「……悪い」


 その一言が、胸の奥に落ちる。

 軽いはずなのに、重い。


「別に、カイルさんが謝るようなことではないです」


 言いながら、作業に戻る。 

 絞り袋にカスタードを入れ、一本目のパイの上に等間隔に絞る。

 塗り広げない。点で置く。

 二枚目を重ねる。

 中央から軽く、均等に圧をかける。

 押しつぶさない。

 もう一段、クリーム。

 最後の一枚を乗せる。

 カイルさんが近づく。

 足音は静かだけれど、距離はすぐ縮まる。


「怒ってるか」

「どうして怒る必要がありますか」


 少し早口になった。


「そうか」


 それ以上は言わない。

 説明も、理由も、弁解も。


「何だ」


 視線が台に向く。


「ミルフィーユです」

「層のやつか」

「はい」

「珍しいな」

「気分です」

「切るのか」


 カイルさんが言う。


「はい」


 ナイフを熱湯にくぐらせる。

 水気を丁寧に拭き取る。

 ためらうと、崩れる。

 ナイフを入れる。

 薄いパイ生地は、想像以上に繊細で、刃先が少し震える。

 そのとき。

 手の上に、手が重なった。

 指先が触れる。

 熱い。

 いや、冷たい。

 わからない。


「……離れてください」

「なんで」

「集中できません」

「俺がいると」


 言葉が止まる。


「……崩れます」


 それは生地のこと。

 そのはずなのに。

 カイルさんがほんのわずか、口元を緩めた。

 そして、そっと離れた。


「もう崩れてる」

「崩れてません」


 小さく言い返す。

 ようやく目を上げる。

 目が合う。

 近い。

 胸の奥がほどける。

 崩れやすいのは、層じゃない。

 たぶん、僕のほうだ。


「端、割れてる」


 視線を落とすと、本当に少し欠けている。

 いつもなら迷わない角度が、今日は決まらない。


「切らないのか」


 その一言に、胸が跳ねる。

 カイルさんは黙って見ている。

 視線が、近い。

 見られている。

 手元だけじゃない。

 呼吸も、間も、全部。

 一気に刃を引く。

 パリ、と乾いた音。

 断面がきれいに立つ。

 二切れ目。

 わずかに上の層が横へずれかける。


「あ」


 声が出る前に、横から手が添えられた。

 強くはない。

 ただ、逃げないように止める力。

 刃を最後まで引き切る。

 サクッ、と音がして、きれいに分かれた。


「……待ってたのか」


 不意打ちだった。


「待ってません」


 即答。


「そうか」


 否定されても、追及しない。

 淡々とした声。

 手はもう離れている。

 皿に三切れ並べる。


「嘘だな」


 響く低い声。

 距離が、また近い。

 心臓が止まりそうになる。


「ちがい…ます」


 声が弱くなる。

 カイルさんが何も言わない。

 それがいちばん、困る。

 そのとき、扉が開いた。


「……あ」


 レリーナさんの声。

 一瞬で空気を察する目。

 けれど、何も言わない。


「今日は、もうお揃いですね」


 柔らかく、控えめに明るい。


「レリーナさん。こんにちは」


 僕はすぐ一歩引く。

 カイルさんも自然に距離を取って、椅子を引いた。

 レリーナさんはエプロンを取りながら、にっこりする。


「ミルフィーユですか?」

「そうです」

「層、きれいですね」


 その言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。


「私、最後の粉砂糖かけます」

「お願いします」


 レリーナさんが粉砂糖をふると、白がやわらかく降り積もる。


「……甘そうだな」


 カイルさんが言う。


「甘いです」


 レリーナさんがくすっと笑う。


 皿を並べる。

 一枚、二枚、三枚。

 僕は一瞬だけ迷って、四枚目を出しかけて、やめた。

 その仕草を、カイルさんは見ていない……見ていないはずだ。


「いただきます」


 レリーナさんの声が、部屋をやわらかくする。

 パイはさくりと崩れ、クリームが静かに広がる。


「……うまい」


 カイルさんが言う。

 それだけで十分だ。


「層、ちゃんと重なってますね」


 レリーナさんが言う。

 僕はフォークを置く。


「……崩れかけました」


 思い出すのは、あの瞬間だ。

 層がずれ、指先が迷い、呼吸が乱れた。


「崩れてない」


 カイルさんは淡々と言う。

 レリーナさんが微笑む。


「私、洗い物してきますね」


 ただ穏やかにそう言って、部屋の隅の流し台へ向かう。

 水道の蛇口をひねる音が、静かに響いた。 

 部屋の中にいるのに、ほんの少しだけ距離ができる。


「また作るよな」


 カイルさんが言う。

 あのとき伸びてきた手は、迷いがなかった。

 触れた指先の感触が、遅れて蘇る。


「気分が向いたら」

「向かせる」


 短い。

 それだけ。

 胸の奥が、また少しだけ騒がしくなる。

 僕は視線を落とす。

 素直にはなれない。

 待っていたなんて、言わない。

 けれど。

 三人分の皿が並んだ午後は、思ったより、静かで、あたたかい。

 そして僕の鼓動だけが、少しだけ、落ち着かないままだった。





 進展しました!


 葉月百合


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