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幽霊部長と鈴の花~シュークリーム~


 午後の家政魔術部室は、静かすぎるほど静かだった。

 廊下の足音も、遠くの笑い声も、ここまでは届かない。

 窓から差し込む光だけが、机の上に淡い影を落としている。

 甘い匂いが、ゆっくりと部屋に満ちていた。

 白いスズランが、小さな花瓶の中で揺れもせずに並んでいる。

 可憐で、慎ましくて、それでいてどこか誇らしい。

 ――幸福が戻る。

 そんな花言葉を、教えてもらったことがある。

 鍋に水とバターを入れて火にかける。溶け合う音が、静かに室内へ広がる。

 小麦粉を一気に加え、木べらで練る。生地はやがて、つややかにまとまる。

 卵を落とし、丁寧に混ぜ込んでいくと、やわらかく、すこし重たい艶が生まれる。

 今日はシュークリーム。

 特別な理由はない。

 けれど、空洞を抱くお菓子が作りたかった。

 絞り袋から丸く落とす。天板の上に、等間隔で。

 数は決めない。決めたくない。

 オーブンに入れて扉を閉めたとき、


「――こんにちは、ウィン」


 カタン、と窓枠が鳴る。

 差し込む光の中に、淡い金が揺れた。

 窓辺に立っていたのは、陽光を溶かしたような金髪と、磨かれた宝石のように澄んだエメラルドの瞳を持つ青年。

 整った横顔はどこか貴族的で――実際、公爵家の子息なのだけれど――それを鼻にかけることはない。

 長い指が窓枠を軽く叩く。


「いい天気だね」

「……クロード先輩」


 めったに顔を出さない幽霊部長。

 そもそも彼がこんな部活の部長をしていることを知っている人はいないかもしれない。

 白いシャツの袖を無造作にまくり、当然のような顔で二階の窓から侵入してくる。

 名前を呼ぶと同時に、胸の鼓動がひとつ余計に跳ねた。

 驚きと、呆れと、ほんの少しの安心が混ざる。

 

「ここは二階です」

「知っているよ。ちょと散歩にね」

「壁をですか」

「足場があったよ」

「ありません」

「侵入大成功」

「失敗です。見つかっています」

「問題はないよ」

「大問題です」


 ひらりと室内に降り立つ。

 着地が無駄に優雅なのが腹立たしい。

 靴音すら静かで、まるで舞台の上の役者みたいだ。


「うん、変わらずいい部室だね」

「第一声がそれですか」

「景色もいい。侵入経路として最適だ」

「侵入経路を評価しないでください」


 僕は窓を閉めながら言う。

 外気の冷たさが一瞬入り込み、甘い匂いを揺らした。


「扉がちゃんとあります」

「もちろん知っているよ。でも扉はノックが必要だ」

「してください」


 とぼけた顔で言っても、余計に絵になる。


「今日は予告なしで君の反応を観察したかったからね」

「観察対象にしないでください」

「おや。心拍数が、やや上昇してる」

「測らないでください」

「顔色は、わずかに動揺」

「動揺していません」

「扉。を今見た」

「誘導しましたね?」

「した」


 悪びれない。涼しい顔で肯定するところが、この人らしい。


「部長としての仕事だ」

「部長は部の運営をしてください」

「今しているじゃないか。部員の体調の確認」

「僕一人ですが」

「十分だね」


 即答だった。迷いがない。

 その言葉だけは、冗談の色が薄い。


「本当に幽霊部長ですね」

「幽霊は壁を抜けるが、私は窓だ」

「誇らしげに言わないでください」


 先輩は部屋を見渡す。

 棚に並ぶ器具、白いスズランの鉢、作業台の上のボウル。 

 視線がゆっくりと巡る。


「甘い匂いがするね」

「シュークリームです」

「今日は私の歓迎会かな」

「違います」

「では送別会か」

「はぁ……」


 思わずため息が出る。けれどそのため息は、さっきまでより少し軽い。


「本当に心臓に悪いです」

「そんなに?」

「今ので五拍は無駄に跳ねました」

「健康的だ」

「原因は先輩です」

「では責任をとろうかな」

「どうやってですか」

「味見を引き受けよう」

「責任の意味を履き違えています」


 先輩は、ふっと僕を見た。

 からかいの奥に、観察する静かな光が宿る。


「今日はよく喋るね、ウィン」

「先輩が無茶を言うからです」

「少しだけ、余裕がない顔だ」


 空気が、ほんの少しだけ静まる。

 オーブンの中で、生地がふくらむ微かな音がする。

 甘く焦げる匂いが、部屋を満たしていく。

 僕は、オーブンの前に立ちながら、扉を見た。

 自分でも無意識だったのに、視線は勝手にそこへ吸い寄せられる。


「ほら、今日は三度も扉を気にしている」

「なっ、見ていません」

「今見た」

「数えないでください」

「四度目もあるかな?」

「ありません」

 

 と言いながら、視線が勝手に動く。

 扉は、静かなままだ。外の気配もない。ただそこに、閉じられている。


「あったね」

「……」

「誰か待っているのかい」


 からかいの色が、少しだけ薄くなる。

 僕は木べらを握り直す。

 手のひらに残る熱が、やけに現実的だ。

 理由はない。

 今日は来る、と言われたわけでもない。

 それでも、胸の奥のほうが落ち着かない。

 時計の針の進みが、やけに遅く感じる。

 音もないはずなのに、時間だけが重たい。


(……部長が来なくても、こんなふうにはならないのに)

 

 めったに姿を見せない人だ。

 ただ、来なくても、会えなくても、不安にはならない。

 でも、カイルさんが来ないのは、違う。

 あの人は「また来る」と言った。

 その言葉が、胸のどこかに小さな灯りみたいに残っている。

 約束じゃない。

 義務でもない。

 それなのに。

 どうして、こんなに気持ちが沈むのだろう。

 オーブンの中で、生地がさらに大きくふくらむ。

 胸の奥も、同じくらい落ち着かなく膨らんで、行き場を失っているみたいだった。


「……待っている、というほどでは」

「そう」


 否定しない。ただ、受け止める。


「その子は来ない日が続いてるだけ、だよ」

「また来る、と言っていました」


 先輩は静かに僕を見る。

 口にしてから、少しだけ後悔する。


「“また来る”と言ったのだろう?」


 僕は頷く。


「ならば、来るだろうね」

「……そうでしょうか」

「社交辞令のように、約束を軽く扱うような子なのかい?」

「違うと思います」


 先輩はふっと微笑んだ。



 オーブンの音が止まる。

 扉を開けると、ふわりと甘い香りが広がった。

 丸く膨らんだシュー生地が、きつね色に並んでいる。


「うん、見事だ」


 先輩が、心から感心したように言う。

 粗熱を取り、底に小さな穴をあけ、カスタードを絞る。

 とろりと満ちていく。


「空洞があるから、甘いものが入る」


 先輩がぽつりと呟く。


「君の胸の空洞も、悪いものじゃない」


 手が止まる。


「……空洞、ですか」

「寂しさ、と言い換えてもいいね」


 言葉は柔らかい。


「それはね、何かを大切にした証だよ」


 責めない。

 慰めすぎない。

 ただ、整った声音で、事実のように置く。

 僕は皿にシュークリームをふたつ並べる。

 自然に、三つ目にも手が伸びかけて、止める。

 スズランが、わずかに揺れた。


「誰かの分も、こんなに作るようになったんだね」


 先輩が静かに微笑む。

 僕の胸の奥が、少しだけほどける。

 先輩はシュークリームを手に取った。


「いただいても?」

「どうぞ」


 一口かじり、上品に頷く。


「素晴らしい。外は軽やかで、中はきちんと甘い」


 そして、少しだけ目を細める。


「君の味だ。ウィン。待つ時間も、悪くない味になるんだよ」


 僕も、自分の分をかじる。

 薄い生地が崩れ、甘いクリームが広がる。

 窓辺のスズランが、白く光る。

 鳴らない鐘が、胸の奥でかすかに響く。


「先輩」

「なんだい」

「もし、戻ってきたら」

「うん」

「そのときは、ちゃんとお皿、四枚、並べます」


 先輩をじっとみる。


「そのときは、私は遠慮しよう」


 冗談めかして微笑む。

 家庭科室――家政魔術部の部室に午後の光が満ちている。

 

「私は、また幽霊になるからね。それに部長は君に譲ろう」

「部長は、ずっと部長です」


 思わず言うと、部長は目を丸くして、それから優雅に笑った。


「それは光栄だ」


 スズランの白い鐘は鳴らない。

 それでも、確かに胸の奥で、小さく響いていた。

 幽霊部長は、僕を見て静かに微笑む。

 そしてまた静かに、窓の外の光の中へ溶けていった。


 




 実は部長がいたんです。


 葉月百合

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