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12/20

窓辺のアイリス、揺れる心~ブルーベリーのロールケーキ~


 目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。

 まだ外は明るくなりきっていない。

 薄いカーテン越しに、灰色まじりの朝がにじんでいる。

 しばらく天井を見たまま、息を整える。

 急ぐ理由はないのに、体だけが先に起きてしまう。

 最近、こういう朝が多い。

 枕元の時計を見る。

 予定より、二十分早い。

 起きてもいい時間だ。

 そう自分に言い訳をして、上半身を起こす。

 起き上がり、カーテンを開ける。

 寮の中庭はまだ人影がなく、芝生に残った朝露が光を拾っていた。

 寮の部屋はまだ静かだ。

 廊下を歩く音も、誰かの話し声も聞こえない。

 遠くで水道がひねられる音が、かすかに響くだけ。

 顔を洗って、制服に袖を通す。

 エプロンを手に取ると、少しだけ気持ちが落ち着いた。

 鞄の横には、三つの弁当箱。

 ひとつは僕の。

 ひとつはレリーナさんの。

 そして、もうひとつ。

 深く考えないようにして、三つとも同じように持ち上げる。

 食堂は朝の仕込みの時間帯で、まだ静かだった。

 管理人の先生に軽く会釈して、端の調理台を借りる。

 フライパンを温めると、薄く油が広がる音がした。

 野菜を並べ、塩をひとつまみ。

 その上からベーコンを巻いていく。

 指先で押さえながら、きつくなりすぎないように整える。

 巻き終わりを下にして焼くと、じゅっと小さな音が立った。

 ベーコンの脂が溶け出し、甘い匂いが立ちのぼる。

 朝の空気と混ざると、少しだけやわらかい。

 焼き色がついたところで裏返す。

 中の野菜がしんなりしていくのが、見なくても分かる。

 数日前まで、これを三人で囲んでいた。

 昼休み、弁当を並べて、カイルさんが無言で箸を伸ばして、レリーナさんが「美味しいです」と少し大げさに言う。

 焼き上がった野菜のベーコン巻きを、三つに均等に分ける。

 量も大きさも、なるべく同じに。

 自分の分だけ少なくする理由はない。

 減らすのも、増やすのも違う。

 卵焼きを焼き、少し甘めに仕上げる。

 三つの弁当箱に順番に詰める。

 ご飯をよそい、仕切りを入れ、色を考える。

 赤。

 黄。

 緑。

 蓋を閉めると、同じ重さの音が三回、続いた。

 包み布で結びながら、三つ目の結び目だけ、ほんの少しきつくなる。

 気づいて、指を緩める。

 持っていかない日があってもいい。

 そう思う。

 思うけれど、やめる理由も見つからない。

 包み終えた三つを並べると、机の上にきれいな列ができた。

 窓から朝日が差し込む。

 布の色が少し明るくなる。


「……よし」


 誰に聞かせるでもなく呟いて、鞄にしまう。

 来ない日が続いているだけだ。

 来ないと決まったわけじゃない。

 そういうことにしておくのが、いちばん穏やかだ。

 食堂を出ると、校舎の屋根の向こうに、五月の空が広がっていた。

 まだ静かな校庭を横切りながら、僕は三つ分の重さを、均等に肩に感じていた。





 料理本の棚の前で、背表紙を順に指でなぞっていた。

 読んだことのない本を探している。

 知っているレシピをなぞるより、知らないものを探すほうが、今は少し気が紛れる。

 棚の上段に、まだ手を伸ばしていない一冊を見つけたときだった。


「ウィン先輩?」


 控えめな声が、すぐ後ろから届く。

 振り返る。

 侯爵令嬢、レリーナ・エルフィオ嬢。

 腰まで届くピンクブロンドの髪が、光を受けて静かに揺れている。

 やわらかな蜂蜜色に、ほのかな薔薇色が混ざったような色合い。

 歩くだけで、長い髪がゆるやかな波を描く。

 瞳は澄んだブルー。深い湖の色というより、晴れた日の空を映した水面のような色だ。

 明るく、透明感のある色。

 図書館は静かな場所だけれど、彼女が立つと、ほんのわずかに空気が動く。

 少し離れた席の男子生徒が、ページをめくる手を止める。

 棚の向こうから、ちらりと視線が寄る。

 珍しいことではない。

 見慣れた光景だ。

 レリーナさん自身は、まるで気づいていないみたいに、いつも通り柔らかく微笑んでいる。


「こんなところでお会いするなんて、嬉しいです」

「図書館は、よく来るよ」

「はい。存じています」


 即答だった。

 思わず目を瞬く。


「……どうして?」


「先輩、よく家庭科室のノートに、本の題名を書き留めていらっしゃいますから」


 そこまで見られているのか。

 少しだけ照れくさい。


「今日は何をお探しですか?」

「まだ決めてない。読んだことのないものを」


 そう答えると、彼女は楽しそうに目を細めた。


「新しいお菓子ですか?」

「たぶん。五月っぽいものがあれば」

「五月……爽やかなものが合いそうですね」

「ブルーベリーとか」

「まあ、素敵です」


 声が少し弾む。

 その表情を見ていると、不思議と肩の力が抜ける。


「今日のお昼も、ご一緒していいですか?」


 自然な流れでそう続く。


「うん」


 最近は、だいたいそうなっている。

 寮の食堂で作った弁当を、中庭の端か、家庭科室で、ふたりで食べる。

 以前は、もうひとつ分が並ぶことも多かった。

 けれど、ここ数日はずっと二人だ。

 レリーナさんは、そのことを口にしない。

 けれど、気づいていないはずはない。


「先輩のお弁当、楽しみにしているんです」


 そう言って、少しだけ声を落とす。


「最近は、ふたり分ですね」


 やわらかな言い方だった。

 責めるでも、寂しがるでもない。

 ただ事実をそっと置くような声音。


「そうだね」


 僕も、それ以上は言わない。

 言葉にすると、形がはっきりしてしまう気がするから。

 彼女の青い瞳が、ほんの一瞬だけ僕をまっすぐ見る。

 ――大丈夫ですか。

 言葉にはならない問い。

 僕は棚から一冊抜き取り、ぱらりとページをめくる。

 見慣れたお菓子が目に入った。


「今日はロールケーキにしようと思う」

「中は、ブルーベリーですか?」

「たぶん」

「では、午後が楽しみです」


 嬉しそうに笑う。

 どうしてこんな自分を、先輩と慕うのだろう、とまた思う。

 特別なことをしているわけじゃない。

 ただ菓子を作っているだけだ。

 それでも彼女は、まっすぐに隣に立つ。


「午後、家庭科室にいらっしゃいますよね?」

「うん、行くよ」


 答えると、レリーナさんはぱっと表情を明るくした。

 図書館だというのに、声まで少し弾む。


「その本、先輩が借りるんですか?」

「うん。まだ読んだことなくて」

「珍しいですね。先輩が“読んでない”って言うの」

「そんなことないよ」

「うそです」


 即座に否定して、ふわっと笑う。


「先輩、だいたい知ってる顔してますもの」

「どんな顔?」

「余裕の顔です」


 そんなつもりはない、と言いかけてやめる。

 レリーナさんは本棚の背に指を滑らせながら、少し声を落とした。


「……最近、お昼は静かですね」

「そうだね」


 それ以上は言わない。


「でも、静かなのも悪くないです」


 そう言って、まっすぐこちらを見る。


「先輩とゆっくり食べられますから」


 まっすぐで、自然な好意を感じさせる言い方だった。

 僕は少しだけ視線を逸らす。


「午後、部室にいらっしゃいますよね?」


 レリーナさんが、もう一度同じことを聞いてきた。

 確認というより、当たり前を確かめる声。


「いるよ」

「それでは、またあとで。失礼いたします」


 本を抱え直して、くるりと踵を返す。

 去り際に振り向きざま、


「先輩、ちゃんと待っててくださいね」


 軽く手を振って、図書館の奥へ消えていった。

 腰までのピンクブロンドが光を受けて揺れる。

 視線が集まるのも、無理はない。

 周囲の視線も一緒に動いて、また静まる。

 図書館は、何事もなかったように元の静けさへ戻る。

 棚の向こうへ消えていく背中を見送りながら、僕は少しだけ首をかしげる。

 どうして、あんな人が、僕を先輩と呼ぶんだろう。

 分からない。

 僕は開いた本のブルーベリーのページを見つめた。

 甘さは控えめに。

 酸味は少し残す。

 今日の昼は、またふたり。

 それでも――

 ロールケーキは、三人分巻いてしまうかもしれない。





 午後の授業を終えると、僕は家庭科室に向かった。

 扉を開けると、柔らかく傾いた光が窓際の机に影を落としている。

 誰もいない部屋は、午前中のままの静けさを湛えていた。

 作業台の上に、今日のブルーベリーのロールケーキがすでに出来上がっている。

 生地はふんわりと巻かれ、淡い紫のブルーベリー層が光を受けてきらめく。

 隣には、小さなガラスの花瓶に挿したアイリスが、静かに香りを漂わせている。

 ――気づけば、あっという間にできてしまった。

 思わず笑う。

 自分で作ったはずなのに、まだ信じられない気持ちだ。

 卵を泡立て、牛乳を温め、生地を焼き上げ、ブルーベリーを巻き込む作業を、僕はいつの間にか無心でやっていた。

 手を動かしているうちに、時間はゆるやかに流れ、気がつけば完成していたのだ。


「……ふう」


 小さく息をつき、ケーキを型から取り出す。

 ブルーベリーの層がきれいに見えるように、包丁で端を整える。

 手早くカットした端から、ふんわりと甘い香りが立ち上る。

 紅茶もポットに淹れ、カップに注ぐ。

 湯気が立ち上がり、ケーキの香りと混ざって部屋を満たす。

 椅子を三つ並べ、ひとりで用意した光景を見渡す。

 三人で座ることを想定した並び。ひとつは空いたまま。

 窓の外では、風が枝を揺らす。

 アイリスの花びらもかすかに震え、光を弾く。

 僕はスプーンを取り、ロールケーキの端にそっと入れる。

 柔らかく、ブルーベリーの甘酸っぱい香りが口の中に広がる。


「……僕はずっと一人だったのに」


 小さく呟き、カップを手に取る。

 誰もいない家庭科室の中、ゆっくりとした午後が流れていく。

 作ったものが目の前にあって、香りと光に包まれて、静かに時間が過ぎていく。

 三つ並ぶ椅子は、まだ空いたまま。

 それでも、準備すること自体が、何かを守る気持ちを静かに支えてくれる。

 窓辺の光に包まれ、ロールケーキとアイリスが並ぶ作業台を眺めていると、扉の向こうから小さな足音が聞こえた。

 くぐもった声ではなく、明るく軽やかな気配だ。


「先輩……!」


 振り向くと、レリーナさんが腰まで届くピンクブロンドの髪を揺らしながら入ってきた。

 図書館で見せたあのまっすぐな笑顔が、今も自然に彼女を輝かせている。

 澄んだ瞳が、作業台に並んだケーキと花に吸い寄せられる。


「わあ……先輩、一人でもうお作りになったんですか?」


 手を胸に添え、少し驚いたように目を丸くする。

 でもその表情は、単なる驚きではなく、純粋な感嘆だった。

 僕が頷くと、レリーナさんはくるりと回って、用意された椅子のひとつに腰を下ろした。


「ブルーベリー、きれいですね。香りも……」


 口元を微かに緩めて、ゆっくりと視線を巡らせる。

 アイリスの紫がかった青と、ケーキの淡い紫が光を受けてきらめく様子を、心から楽しんでいるようだった。

 お弁当の時間に二人で過ごした静かな午後を思い出すように、少し安心した表情も浮かべている。

柔らかな声。

 僕は軽く微笑み、紅茶のカップを差し出す。

 レリーナさんは両手で受け取り、ふんわりと笑った。


「先輩とこうして、ゆっくりできる時間が嬉しいです」


 言葉は明るく、でも素直で、どこか可愛らしい響きを持っていた。

 僕はその言葉に、特別な意味を求めず、ただ静かに頷く。

 風が窓からそっと入り、アイリスの花びらを揺らした。

 レリーナさんはスプーンを手に取り、ゆっくりとロールケーキに向かう。

 淡い紫のクリームの中にブルーベリーが顔を覗かせて、光を受けて宝石のように輝く。


「……おいしそうです」


 声に少し緊張が混ざっている。

 僕はスプーンを取り、ひと口切って差し出すと、彼女は嬉しそうに笑いながら受け取った。


「うん……甘さがちょうどいいですね」


 目を細めて、ふわりと笑う。

 僕は自分の分も同じようにすくい、ゆっくりと口に運ぶ。

 ブルーベリーの酸味が、クリームの優しい甘さと重なり、静かな午後の光と一緒にゆっくり体に染み込むようだった。

 レリーナさんは間を置いて、ひとこと。


「先輩、本当に手早いんですね。一人であっという間に作れてしまうなんて……すごいです」

「慣れれば、誰だって早くなるよ」


 軽く答えつつ、心の中ではちょっと照れる。

 彼女はまた笑い、ブルーベリーの粒を指で軽く触れながら言った。


「今日は、一緒に食べられてよかったです」


 僕は頷く。

 誰にも邪魔されない、この穏やかな時間が、どこか特別に感じられた。

 光が花とケーキを優しく照らして、二人の間に小さな静寂が広がった。

 スプーンの音と紅茶の湯気だけが、家庭科室に漂う。

 レリーナさんは笑顔のまま、少し首を傾げて僕を見た。

 お弁当を作る朝も、図書館で本を探した午後も、そして今、この静かな家庭科室も――

 すべてが、自然に積み重なって、心地よい一日の一部になっているように感じられた。

 窓の外の光が少し傾き、午後がゆっくりと終わりを告げる。

 僕はスプーンを置き、紅茶のカップに手を添えた。

 レリーナさんも同じようにカップを持ち、二人で短く笑い合う。

 ただ、静かに過ごす時間。

 でも、ふと、もうひとつの席に置くはずだったカイルさんのことを思うと、胸の奥が静かにざわついた。


(……今日も来ないのか)


 声には出さない。

 皿にケーキを置き、ナイフを揃えながら、目は自然と空席に向かう。

 向こうに座っているはずのカイルさんを想像する――それだけで、何となく心が軽くも重くもなる。

 レリーナさんは隣りで、無邪気に笑いながらブルーベリーをつつく。

 その笑顔が、どこか救いになっている自分に、少し驚く。


「先輩、やっぱりおいしいですね」


 あっさりした感想でも、彼女の声には自然な喜びが混ざっている。

 その横顔を見ながら、僕はゆっくりとスプーンを口に運ぶ。

 甘さの中に、ブルーベリーのわずかな酸味が柔らかく広がる。

 そしてまた、隣にもう一人、カイルさんが座っていないことを意識する。


(……カイルさん、どうしてるかな)


 つい思ってしまう。

 いつも一緒に食べていた席が空っぽで、午後の光だけが差し込む。

 その光に、アイリスの紫が静かに映え、窓辺の風に花びらが揺れる。

 僕はゆっくり息をつく。

 この穏やかさの中に、ほんの少しだけ、ぽっかりと穴が開いたみたいだ。

 レリーナさんは、そんな僕の視線を気づかないふりで、スプーンを運ぶ。

 でも、静かに話しかけてくれる。


「先輩、こういう時間もいいですね」

「うん」


 短く答える。

 それで十分だった。

 カイルさんはここにはいないけれど、レリーナさんの明るさに支えられながら、ケーキを食べる午後。

 その静けさが、逆に心にじわりと残る。

 ケーキを一口ずつ、ゆっくり味わいながら、僕は静かに呼吸を整える。

 誰もいない席を見つめながらも、心を穏やかに保つ。

 けれど、カイルがいないことを思い出すと、胸の奥が少しざわついた。

 アイリスの香りと甘い香りだけが、家庭科室に残る。

 僕は少しだけ微笑んで、スプーンを置いた。

 今日の穏やかな時間が、明日にも続くことを、願いながら。

 そして、心の片隅で、カイルがまたここに戻ってくることをそっと待った。





 ウィンの心が静かに揺れています。


 葉月百合 


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