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11/20

残された甘さ、いつもの場所で~苺のババロア~


 家庭科室に入ったのは、いつもとほとんど変わらない時間だった。

 廊下の明るさも、窓から差し込む光の角度も、いつもと大きくは違わない。

 それなのに、作業台に向かってエプロンを結んだとき、胸の奥にわずかな引っかかりが残った。

 理由は単純だ。

 今日は、まだ誰も来ていなかった。

 窓辺の花瓶には、今朝選んだラナンキュラスを挿してある。

 幾重にも重なる薄い花弁が、光を受けるたびに色を変える。

 淡いクリーム色の中に、かすかな桃色が滲んでいて、眺めていると時間がゆるやかにほどけていくようだった。

 水を替え、茎を少しだけ切り戻したとき、指先に残った青い匂いが、部屋の空気と混ざる。

 甘さとは違う、すこし乾いた春の匂い。

 花が変わるだけで、同じ家庭科室なのに、どこか余白が増えたように感じる。

 机も棚も、昨日と同じ位置にあるのに、目に映る景色はわずかに違っていた。

 洗って乾かしたカップは、きちんと棚に並んでいる。

 布巾も、ボウルも、泡立て器も、いつも通り。

 続いているはずの日常は、確かにここにある。

 それなのに、胸の奥に小さな引っかかりが残った。

 理由は単純だ。

 今日は、まだ誰も来ていない。

 苺は朝のうちに下処理を済ませてある。

 砂糖をまぶした果肉が、ガラスの器の底で静かに色を落としていく。

 赤はゆっくりと滲み、透明なシロップに溶け込んで、やわらかな光を帯びていた。

 卵白を泡立て、牛乳を温める。

 指先の感覚に意識を戻すと、余計なことは考えずに済む。

 泡が立ち上がり、鍋の底で小さく音が鳴る。


 ババロアを流し込んだ型を冷蔵庫に入れたあと、僕はしばらく別の作業をしていた。

 洗い物を片づけ、布巾を干し、余った苺を刻んでソースにする。

 何かを待っているわけじゃない。

 けれど、手を止めると余計なことを考えそうで、細かい作業をひとつずつ拾っていく。

 窓の外の光が、ゆっくりと傾いていく。

 時間はきちんと進んでいる。

 冷蔵庫を開け、そっと器を揺らしてみる。

 表面は静かに張り、中心だけがやわらかく震える。

 ちょうどいい固さだ。

 スプーンを三本、並べてから、やっぱり二本を戻す。

 理由は考えない。

 そのころだった。

 廊下のずっと向こうから、かすかな声が流れてきた。

 はっきり聞き取れるほど近くはないが、立ち話よりはずっと切迫した調子だった。


「……ですから、式典の段取りが――」

「……時間が限られております」


 言葉は途切れ途切れで、内容までは分からない。

 ただ、急いでいる空気だけが、廊下の奥からこちらへにじんでくる。

 泡立て器を洗っていた手が、わずかに止まる。

 さらに低い声が、短く割り込んだ。


「今はいい」


 一拍。

 そして、はっきりと。


「ついてくるな」


 強く怒鳴ったわけじゃない。

 けれど、それ以上を拒む線が、はっきり引かれる声だった。

 足音が早まる。

 追う側と、振り切ろうとする側。

 やがて、その足音がこちらへ近づいてくる。

 僕は視線を落とし、何も聞かなかったことにする。

 冷えたババロアを取り出し、苺のソースをゆっくりとかける。

 赤が、なめらかな白の上をすべる。

 ちょうどそのとき、扉が開いた。

 ノックはない。

 いつもの調子で、カイルさんが入ってきた。

 外の空気をほんの少しだけ連れて。

 僕は振り返る。


「来たんだ」

「ああ」


 短く答えてから、作業台の上に目を落とす。

 ガラスの器の中で、白と赤がきれいに分かれている。


「……何だ、それ」


 先に出たのは、そっちだった。


「苺のババロア」

「ババロア?」


 少し意外そうに繰り返す。


「冷やしてあるから、もう食べられるよ」


 僕がそう言うと、カイルさんは椅子を引いた。

 腰を下ろす動作は、いつもよりわずかに乱暴で、座ったあとも背もたれに寄りかからない。

 僕は器をひとつ、前に滑らせる。


「崩れやすいから、真ん中からすくって」

「指示が細かいな」


 言いながらも、言われた通りにスプーンを入れる。

 表面が、やわらかく沈む。

 一口。

 少し間を置いて、カイルさんの眉がわずかに動いた。


「……甘い」

「うん」

「いつもより」


 視線が、僕に向く。

 問いかけというより、確認だ。


「そう。今日は、少しだけ」


 理由は言わない。聞かれもしない。

 けれど、もう一口食べてからも、カイルさんは何も言わなかった。

 甘さを拒まない顔だった。

 僕は冷蔵庫の扉を閉め、布巾で手を拭く。

 器の中身は、きれいに形を保っている。

 揺らせばやわらかく返るが、崩れるほどではない。

 ちょうどいい頃合いだ。

 スプーンの音が、ゆっくりと続く。

 さっきまで廊下に残っていた空気は、もうここにはない。

 けれど、完全に消えたわけでもない。

 僕は軽く聞く。


「忙しい?」


 なるべく軽い調子で。

 カイルさんは、視線を器に落としたまま答える。


「……まあな」


 それだけ。

 いつもなら、ここで終わる。

 けれど今日は、わずかに続いた。


「俺の都合は、後回しだ」


 ほとんど息のように落ちる。

 愚痴でもなく、怒りでもない。

 ただ、事実を置いただけの声音。

 僕はそれ以上追わない。

 頷くだけにして、湯沸かしに水を足す。

 蛇口の音が、短く間を埋めた。


「今日は、お茶どうする?」


 少し考えてから、返事がくる。


「任せる」


 さっきより、声が低い。

 僕は棚の奥から、いちばん縁の厚いカップを選ぶ。 

 薄手のものより、少しだけ重みがあるほうが、手の中で落ち着く気がした。


「甘いの、平気だった?」


 苺を指して聞くと、カイルさんは肩をすくめる。


「悪くない」


 それから、わずかに付け足す。


「こういうのは、嫌いじゃない」


 ほんの少しだけ、声の角が丸くなる。

 僕は湯を注ぐ。

 わざとゆっくり。音が途切れないように。

 湯気が立ち上り、苺の甘い匂いと混ざる。

 そのあいだに、外の気配は薄れていく。

 カイルさんはもう一口、静かにすくった。

 スプーンが器に当たる音も、さっきより柔らかい。

 僕は、作業台の上を整える。

 布巾をたたみ直し、余った苺を小皿に移す。

 部屋の中のものが、きちんと定位置に収まるたび、空気も落ち着いていく。


「熱いから、気をつけて」


 カップを両手で差し出す。


「ああ」


 短い返事。

 指先がカップを受け取る。

 そのとき、わずかに力が抜けたのが分かった。

 僕は何も言わない。

 ただ、ラナンキュラスに目をやる。

 花は、ここにある。

 菓子も、湯気も、ちゃんとある。

 それでいい。

 ここにいるあいだくらいは、余計なものが入り込む隙間を、つくらなくていい。

 僕は、そう決めているわけじゃない。

 でも、気づけばいつも、そうしている気がする。

 カイルさんがここにいる理由を、僕は知らない。

 知らないままでも、苺のババロアはちゃんと甘い。

 それでいい、と心のどこかで決めて、僕ももう一口すくった。

 皿に触れる音が、静かに重なる。

 どちらも食べる速さはゆっくりだ。

 急ぐ理由が、この部屋の中にはない。

 冷蔵庫が小さく唸り、また止まる。

 その直後、廊下の奥で気配が動いた。

 今度は迷いがない。

 複数の足音が、一定の調子で近づいてくる。

 布の擦れる音まで混ざっている。

 カイルさんが、スプーンを置いた。

 皿の端に、きちんと揃える。


「……来たか」


 低く、短い。

 僕は視線だけ向ける。


「知り合い?」

「仕事だ」


 それ以上、広がらない。

 椅子が床をわずかに擦る。

 立ち上がる動きは早いが、焦ってはいない。


「ここまでだな」


 小さく息を吐く。


「片づけは――」

「いいよ。僕がやる」


 遮るつもりはなかったのに、言葉が先に出た。

 扉の近くで足音が止まる。

 カイルさんが扉へ向かう。

 カイルさんの声が、少しだけ低く張る。


「そこまでだ」


 間を置いて、


「入ってくるな」


 強くはない。ただ、はっきりと。

 返事は聞こえない。

 けれど、動きが止まったのは分かった。

 短い応答が交わされ、やがて足音は遠ざかっていく。

 戻ってきたカイルさんは、さっきより肩の線がわずかに緩んでいた。

 空になりかけた皿を見て、ほんの少しだけ口元が動く。


「……甘さが残るな」


 苺のことかどうかは、聞かない。


「そういう配分だから」


 僕は皿を重ねる。

 少しの沈黙。


「また来る」


 それだけ。

 説明ではなく、事実を置く声。

 僕はうなずく。


「うん」


 余計な言葉は足さない。

 扉へ向かう背中は、来たときよりも軽い。

 静かに閉まる音。

 部屋に残るのは、苺と紅茶と、春の花の匂い。

 僕は皿を洗いながら、水音に耳を預ける。

 ラナンキュラスが光を受けて、ゆるく揺れる。

 また来る。

 その一言だけが、きちんとここに残っていた。


 扉が閉まって、足音が遠ざかっていくと、家庭科室は何事もなかったような顔に戻った。

 ラナンキュラスは同じ角度で光を受け、作業台には苺の赤が残り、さっきまでと同じ匂いが漂っている。

 それでも、ほんのわずかに、空気の重なり方が違う。

 僕は流しに立ち、使った皿を重ねた。

 まだ冷たさの残るガラスに、水滴が淡くにじむ。

 蛇口に手をかける前に、なんとなく振り返る。

 窓際の椅子は空いたまま。

 作業台の向こう側も、整えられたまま動いていない。

 最近は、この時間になると、どちらかの席に必ず人がいた。

 カイルさんが足を投げ出して座っているか、

 レリーナさんが遠慮がちに端へ腰を下ろしているか。

 今日は、どちらもいない。

 考えるほどのことじゃない、と自分に言い聞かせる。

 用事がある日だってある。

 来ない日が重なることだって、これからきっとある。

 それでも、胸の奥に、わずかな隙間ができたままだ。

 苺の跡が残った皿を指先でなぞる。

 甘い香りが、まだ薄く残っている。

 水を出すと、泡が立ち、すぐに消える。

 形になったものは、案外あっさり崩れる。

 レリーナさんなら、こういうとき、きっと柔らかく笑うだろう。


「今日は、きっとお忙しい日なんですね」


 そんなふうに、角を丸くする声で。

 あるいは、何も言わずに、僕の隣で布巾を丁寧に畳んでいるかもしれない。

 どちらでもいい。

 そこに誰かの呼吸が重なっていれば、それで。

 冷蔵庫を開ける。

 残しておいた苺が、静かに並んでいる。

 朝よりも少しだけ色が深い。

 触れれば、きっとやわらかい。

 今日はもう何も作らない。

 それでも、片づけずにそのままにしておく。

 ノートを開き、苺のババロアのページに、短く書き足す。

  ――苺。

 ――冷やしすぎない。

 ――待たせすぎない。

 書いてから、少しだけ手が止まる。

 どうしてその言葉になったのか、考えかけて、やめた。

 花瓶の前に立つ。

 ラナンキュラスが、さきほどよりもわずかに顔を傾けている。

 光の向きが変わったのかもしれない。

 茎に触れ、ほんの少し整えようとして、やめる。

 今は、このままでいい。

 窓を少し開けると、外の空気がやわらかく入り込む。

 人の声は混じっていない。

 風だけが、静かに通り過ぎる。

 エプロンを外し、椅子を元の位置へ戻す。

 三人で囲む前提の並びに。

 誰かのため、というより、また自然にそうなると信じている並べ方だ。


「……さて」


 小さく息をついて、湯沸かしに水を入れる。

 今日は、もうレリーナさんも来ないだろう。

 カイルさんも、レリーナさんもいない。

 それでも、手は止まらない。

 新しいカップを棚から出す。

 湯が沸くまでのあいだ、僕は作業台に寄りかかった。

 三つ並ぶはずだった椅子を、視界の端で数える。

 足りないのは、椅子じゃない。

 分かっている。

 やがて湯沸かしが、細く息を吐きはじめる。

 僕はカップを並べる。

 三つ。

 湯気が立ちのぼり、花の匂いと混ざる。


 僕は、一人静かに、三人分の紅茶を淹れた。

 湯気が、ゆっくりとほどけていく。

 三つのカップから同じように立ちのぼる白い線を、僕はしばらく眺めていた。

 本当なら、向かい側の席に手が伸びて、窓際では少しだけ乱暴にカップが持ち上げられて、その隣で、慎重に両手で包む人がいるはずだった。 

 今日は、その音がない。

 静かすぎる、とは思わない。

 もともと家庭科室は、こういう場所だ。

 泡立てる音や、湯の鳴る音が主役で、人の声は添えもの。

 それでも――

 三つのうち、ふたつは、冷めていくだけだと分かっている。

 僕は自分の分を持ち上げて、ひとくち含む。

 少し熱い。けれど、その熱さが、かえって落ち着く。

 向かいのカップに視線をやる。

 カイルさんなら、たぶん一息で半分は飲む。「熱い」とも言わずに。

 それから、少しだけ顔をしかめて、何でもないふうに置く。

 レリーナさんは、最初に香りを確かめる。

 小さく笑ってから、ゆっくり口をつける。

 きっと「いい香りですね」と言う。

 そんな想像を、誰にも見られない部屋の中で、ひとつずつ置いていく。 

 自分で淹れたはずなのに、三つのカップが、ほんの少し遠い。

 窓の外で、風が枝を揺らす。

 ラナンキュラスの花弁がかすかに震え、光を弾く。

 時間が進んでいく。

 僕は、残りのふたつのカップにも視線を落としたまま、もう一口飲む。

 冷めていくお茶がただ、そこにあるだけだ。


「……まあ、いいか」


 声に出してみると、思ったより柔らかい響きだった。

 今日は、そういう日だっただけ。

 明日も来ないとは、決まっていない。

 それに、来られない日があることも、ここに来る理由のひとつかもしれない。

 僕は立ち上がり、ふたつのカップにそっと手を添えた。

 まだ、少し温かい。

 流しに運ぶ前に、もう一度だけ部屋を見渡す。

 三つの椅子。

 整えたままの作業台。

 窓辺の花。

 僕はカップを下げる。

 湯気は、もうほとんど消えていた。

 洗い終えたあと、空になった作業台に手を置く。

 冷たい木の感触が、じんわりと広がる。

 今日はもう、ここまで。

 灯りを落とす前に、もう一度だけ窓の外を見る。

 夕方の色が、少しずつ深くなっていく。

 明日のことは、まだ考えない。

 考えなくても、時間が連れてくる。

 エプロンを畳み、扉へ向かう。

 振り返ると、家庭科室はいつもと同じ顔をしていた。

 三つの椅子は、そのままにしておく。

 ――また、誰かが座る場所として。

 僕は静かに扉を閉めた。



 カイルとの距離が縮んだ気がします。

 黄昏れウィンでした。


 葉月百合


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