残された甘さ、いつもの場所で~苺のババロア~
家庭科室に入ったのは、いつもとほとんど変わらない時間だった。
廊下の明るさも、窓から差し込む光の角度も、いつもと大きくは違わない。
それなのに、作業台に向かってエプロンを結んだとき、胸の奥にわずかな引っかかりが残った。
理由は単純だ。
今日は、まだ誰も来ていなかった。
窓辺の花瓶には、今朝選んだラナンキュラスを挿してある。
幾重にも重なる薄い花弁が、光を受けるたびに色を変える。
淡いクリーム色の中に、かすかな桃色が滲んでいて、眺めていると時間がゆるやかにほどけていくようだった。
水を替え、茎を少しだけ切り戻したとき、指先に残った青い匂いが、部屋の空気と混ざる。
甘さとは違う、すこし乾いた春の匂い。
花が変わるだけで、同じ家庭科室なのに、どこか余白が増えたように感じる。
机も棚も、昨日と同じ位置にあるのに、目に映る景色はわずかに違っていた。
洗って乾かしたカップは、きちんと棚に並んでいる。
布巾も、ボウルも、泡立て器も、いつも通り。
続いているはずの日常は、確かにここにある。
それなのに、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
理由は単純だ。
今日は、まだ誰も来ていない。
苺は朝のうちに下処理を済ませてある。
砂糖をまぶした果肉が、ガラスの器の底で静かに色を落としていく。
赤はゆっくりと滲み、透明なシロップに溶け込んで、やわらかな光を帯びていた。
卵白を泡立て、牛乳を温める。
指先の感覚に意識を戻すと、余計なことは考えずに済む。
泡が立ち上がり、鍋の底で小さく音が鳴る。
ババロアを流し込んだ型を冷蔵庫に入れたあと、僕はしばらく別の作業をしていた。
洗い物を片づけ、布巾を干し、余った苺を刻んでソースにする。
何かを待っているわけじゃない。
けれど、手を止めると余計なことを考えそうで、細かい作業をひとつずつ拾っていく。
窓の外の光が、ゆっくりと傾いていく。
時間はきちんと進んでいる。
冷蔵庫を開け、そっと器を揺らしてみる。
表面は静かに張り、中心だけがやわらかく震える。
ちょうどいい固さだ。
スプーンを三本、並べてから、やっぱり二本を戻す。
理由は考えない。
そのころだった。
廊下のずっと向こうから、かすかな声が流れてきた。
はっきり聞き取れるほど近くはないが、立ち話よりはずっと切迫した調子だった。
「……ですから、式典の段取りが――」
「……時間が限られております」
言葉は途切れ途切れで、内容までは分からない。
ただ、急いでいる空気だけが、廊下の奥からこちらへにじんでくる。
泡立て器を洗っていた手が、わずかに止まる。
さらに低い声が、短く割り込んだ。
「今はいい」
一拍。
そして、はっきりと。
「ついてくるな」
強く怒鳴ったわけじゃない。
けれど、それ以上を拒む線が、はっきり引かれる声だった。
足音が早まる。
追う側と、振り切ろうとする側。
やがて、その足音がこちらへ近づいてくる。
僕は視線を落とし、何も聞かなかったことにする。
冷えたババロアを取り出し、苺のソースをゆっくりとかける。
赤が、なめらかな白の上をすべる。
ちょうどそのとき、扉が開いた。
ノックはない。
いつもの調子で、カイルさんが入ってきた。
外の空気をほんの少しだけ連れて。
僕は振り返る。
「来たんだ」
「ああ」
短く答えてから、作業台の上に目を落とす。
ガラスの器の中で、白と赤がきれいに分かれている。
「……何だ、それ」
先に出たのは、そっちだった。
「苺のババロア」
「ババロア?」
少し意外そうに繰り返す。
「冷やしてあるから、もう食べられるよ」
僕がそう言うと、カイルさんは椅子を引いた。
腰を下ろす動作は、いつもよりわずかに乱暴で、座ったあとも背もたれに寄りかからない。
僕は器をひとつ、前に滑らせる。
「崩れやすいから、真ん中からすくって」
「指示が細かいな」
言いながらも、言われた通りにスプーンを入れる。
表面が、やわらかく沈む。
一口。
少し間を置いて、カイルさんの眉がわずかに動いた。
「……甘い」
「うん」
「いつもより」
視線が、僕に向く。
問いかけというより、確認だ。
「そう。今日は、少しだけ」
理由は言わない。聞かれもしない。
けれど、もう一口食べてからも、カイルさんは何も言わなかった。
甘さを拒まない顔だった。
僕は冷蔵庫の扉を閉め、布巾で手を拭く。
器の中身は、きれいに形を保っている。
揺らせばやわらかく返るが、崩れるほどではない。
ちょうどいい頃合いだ。
スプーンの音が、ゆっくりと続く。
さっきまで廊下に残っていた空気は、もうここにはない。
けれど、完全に消えたわけでもない。
僕は軽く聞く。
「忙しい?」
なるべく軽い調子で。
カイルさんは、視線を器に落としたまま答える。
「……まあな」
それだけ。
いつもなら、ここで終わる。
けれど今日は、わずかに続いた。
「俺の都合は、後回しだ」
ほとんど息のように落ちる。
愚痴でもなく、怒りでもない。
ただ、事実を置いただけの声音。
僕はそれ以上追わない。
頷くだけにして、湯沸かしに水を足す。
蛇口の音が、短く間を埋めた。
「今日は、お茶どうする?」
少し考えてから、返事がくる。
「任せる」
さっきより、声が低い。
僕は棚の奥から、いちばん縁の厚いカップを選ぶ。
薄手のものより、少しだけ重みがあるほうが、手の中で落ち着く気がした。
「甘いの、平気だった?」
苺を指して聞くと、カイルさんは肩をすくめる。
「悪くない」
それから、わずかに付け足す。
「こういうのは、嫌いじゃない」
ほんの少しだけ、声の角が丸くなる。
僕は湯を注ぐ。
わざとゆっくり。音が途切れないように。
湯気が立ち上り、苺の甘い匂いと混ざる。
そのあいだに、外の気配は薄れていく。
カイルさんはもう一口、静かにすくった。
スプーンが器に当たる音も、さっきより柔らかい。
僕は、作業台の上を整える。
布巾をたたみ直し、余った苺を小皿に移す。
部屋の中のものが、きちんと定位置に収まるたび、空気も落ち着いていく。
「熱いから、気をつけて」
カップを両手で差し出す。
「ああ」
短い返事。
指先がカップを受け取る。
そのとき、わずかに力が抜けたのが分かった。
僕は何も言わない。
ただ、ラナンキュラスに目をやる。
花は、ここにある。
菓子も、湯気も、ちゃんとある。
それでいい。
ここにいるあいだくらいは、余計なものが入り込む隙間を、つくらなくていい。
僕は、そう決めているわけじゃない。
でも、気づけばいつも、そうしている気がする。
カイルさんがここにいる理由を、僕は知らない。
知らないままでも、苺のババロアはちゃんと甘い。
それでいい、と心のどこかで決めて、僕ももう一口すくった。
皿に触れる音が、静かに重なる。
どちらも食べる速さはゆっくりだ。
急ぐ理由が、この部屋の中にはない。
冷蔵庫が小さく唸り、また止まる。
その直後、廊下の奥で気配が動いた。
今度は迷いがない。
複数の足音が、一定の調子で近づいてくる。
布の擦れる音まで混ざっている。
カイルさんが、スプーンを置いた。
皿の端に、きちんと揃える。
「……来たか」
低く、短い。
僕は視線だけ向ける。
「知り合い?」
「仕事だ」
それ以上、広がらない。
椅子が床をわずかに擦る。
立ち上がる動きは早いが、焦ってはいない。
「ここまでだな」
小さく息を吐く。
「片づけは――」
「いいよ。僕がやる」
遮るつもりはなかったのに、言葉が先に出た。
扉の近くで足音が止まる。
カイルさんが扉へ向かう。
カイルさんの声が、少しだけ低く張る。
「そこまでだ」
間を置いて、
「入ってくるな」
強くはない。ただ、はっきりと。
返事は聞こえない。
けれど、動きが止まったのは分かった。
短い応答が交わされ、やがて足音は遠ざかっていく。
戻ってきたカイルさんは、さっきより肩の線がわずかに緩んでいた。
空になりかけた皿を見て、ほんの少しだけ口元が動く。
「……甘さが残るな」
苺のことかどうかは、聞かない。
「そういう配分だから」
僕は皿を重ねる。
少しの沈黙。
「また来る」
それだけ。
説明ではなく、事実を置く声。
僕はうなずく。
「うん」
余計な言葉は足さない。
扉へ向かう背中は、来たときよりも軽い。
静かに閉まる音。
部屋に残るのは、苺と紅茶と、春の花の匂い。
僕は皿を洗いながら、水音に耳を預ける。
ラナンキュラスが光を受けて、ゆるく揺れる。
また来る。
その一言だけが、きちんとここに残っていた。
扉が閉まって、足音が遠ざかっていくと、家庭科室は何事もなかったような顔に戻った。
ラナンキュラスは同じ角度で光を受け、作業台には苺の赤が残り、さっきまでと同じ匂いが漂っている。
それでも、ほんのわずかに、空気の重なり方が違う。
僕は流しに立ち、使った皿を重ねた。
まだ冷たさの残るガラスに、水滴が淡くにじむ。
蛇口に手をかける前に、なんとなく振り返る。
窓際の椅子は空いたまま。
作業台の向こう側も、整えられたまま動いていない。
最近は、この時間になると、どちらかの席に必ず人がいた。
カイルさんが足を投げ出して座っているか、
レリーナさんが遠慮がちに端へ腰を下ろしているか。
今日は、どちらもいない。
考えるほどのことじゃない、と自分に言い聞かせる。
用事がある日だってある。
来ない日が重なることだって、これからきっとある。
それでも、胸の奥に、わずかな隙間ができたままだ。
苺の跡が残った皿を指先でなぞる。
甘い香りが、まだ薄く残っている。
水を出すと、泡が立ち、すぐに消える。
形になったものは、案外あっさり崩れる。
レリーナさんなら、こういうとき、きっと柔らかく笑うだろう。
「今日は、きっとお忙しい日なんですね」
そんなふうに、角を丸くする声で。
あるいは、何も言わずに、僕の隣で布巾を丁寧に畳んでいるかもしれない。
どちらでもいい。
そこに誰かの呼吸が重なっていれば、それで。
冷蔵庫を開ける。
残しておいた苺が、静かに並んでいる。
朝よりも少しだけ色が深い。
触れれば、きっとやわらかい。
今日はもう何も作らない。
それでも、片づけずにそのままにしておく。
ノートを開き、苺のババロアのページに、短く書き足す。
――苺。
――冷やしすぎない。
――待たせすぎない。
書いてから、少しだけ手が止まる。
どうしてその言葉になったのか、考えかけて、やめた。
花瓶の前に立つ。
ラナンキュラスが、さきほどよりもわずかに顔を傾けている。
光の向きが変わったのかもしれない。
茎に触れ、ほんの少し整えようとして、やめる。
今は、このままでいい。
窓を少し開けると、外の空気がやわらかく入り込む。
人の声は混じっていない。
風だけが、静かに通り過ぎる。
エプロンを外し、椅子を元の位置へ戻す。
三人で囲む前提の並びに。
誰かのため、というより、また自然にそうなると信じている並べ方だ。
「……さて」
小さく息をついて、湯沸かしに水を入れる。
今日は、もうレリーナさんも来ないだろう。
カイルさんも、レリーナさんもいない。
それでも、手は止まらない。
新しいカップを棚から出す。
湯が沸くまでのあいだ、僕は作業台に寄りかかった。
三つ並ぶはずだった椅子を、視界の端で数える。
足りないのは、椅子じゃない。
分かっている。
やがて湯沸かしが、細く息を吐きはじめる。
僕はカップを並べる。
三つ。
湯気が立ちのぼり、花の匂いと混ざる。
僕は、一人静かに、三人分の紅茶を淹れた。
湯気が、ゆっくりとほどけていく。
三つのカップから同じように立ちのぼる白い線を、僕はしばらく眺めていた。
本当なら、向かい側の席に手が伸びて、窓際では少しだけ乱暴にカップが持ち上げられて、その隣で、慎重に両手で包む人がいるはずだった。
今日は、その音がない。
静かすぎる、とは思わない。
もともと家庭科室は、こういう場所だ。
泡立てる音や、湯の鳴る音が主役で、人の声は添えもの。
それでも――
三つのうち、ふたつは、冷めていくだけだと分かっている。
僕は自分の分を持ち上げて、ひとくち含む。
少し熱い。けれど、その熱さが、かえって落ち着く。
向かいのカップに視線をやる。
カイルさんなら、たぶん一息で半分は飲む。「熱い」とも言わずに。
それから、少しだけ顔をしかめて、何でもないふうに置く。
レリーナさんは、最初に香りを確かめる。
小さく笑ってから、ゆっくり口をつける。
きっと「いい香りですね」と言う。
そんな想像を、誰にも見られない部屋の中で、ひとつずつ置いていく。
自分で淹れたはずなのに、三つのカップが、ほんの少し遠い。
窓の外で、風が枝を揺らす。
ラナンキュラスの花弁がかすかに震え、光を弾く。
時間が進んでいく。
僕は、残りのふたつのカップにも視線を落としたまま、もう一口飲む。
冷めていくお茶がただ、そこにあるだけだ。
「……まあ、いいか」
声に出してみると、思ったより柔らかい響きだった。
今日は、そういう日だっただけ。
明日も来ないとは、決まっていない。
それに、来られない日があることも、ここに来る理由のひとつかもしれない。
僕は立ち上がり、ふたつのカップにそっと手を添えた。
まだ、少し温かい。
流しに運ぶ前に、もう一度だけ部屋を見渡す。
三つの椅子。
整えたままの作業台。
窓辺の花。
僕はカップを下げる。
湯気は、もうほとんど消えていた。
洗い終えたあと、空になった作業台に手を置く。
冷たい木の感触が、じんわりと広がる。
今日はもう、ここまで。
灯りを落とす前に、もう一度だけ窓の外を見る。
夕方の色が、少しずつ深くなっていく。
明日のことは、まだ考えない。
考えなくても、時間が連れてくる。
エプロンを畳み、扉へ向かう。
振り返ると、家庭科室はいつもと同じ顔をしていた。
三つの椅子は、そのままにしておく。
――また、誰かが座る場所として。
僕は静かに扉を閉めた。
カイルとの距離が縮んだ気がします。
黄昏れウィンでした。
葉月百合




