午後のお茶に、花を添えて~アーモンドのビスキュイ~
白い陶器の花瓶に、水を注ぎ直す。
水面が揺れて、光を反射するのを、少しだけ眺めてから花を挿した。
淡い黄色のスイートピーと、小さな白い花。
名前はよく知らないけれど、色が静かで、並べると落ち着く。
茎の長さを揃えて、向きを少し直す。
ほんの少しの違いで、ずいぶん見え方が変わる。
ここは部活用の家庭科室だ。
それでも、花を飾ると、空気が変わる気がする。
放課後の家庭科室は、窓を少し開けるだけで、春の気配が入り込んでくる。
初夏に向かう風が、花の香りを運び、机の上をすり抜けていく。
作業台に戻ると、焼き上がったばかりのアーモンドのビスキュイが並んでいる。
薄く焼いた生地は軽く、触れればすぐに欠けてしまいそうだ。
天板から一枚ずつ外して、網の上へ移す。
指先の動きは、自然と慎重になる。
焼き色は淡く、表面にアーモンドの粒が浮いている。
噛めば、きっとすぐにほどける。
花と菓子。
どちらも、扱い方はよく似ていると思う。
少しの力加減と、ほんの少しの気配り。
それだけで、形も、印象も変わる。
「……本当に、きれいですね」
背後から、控えめな声がした。
レリーナさんが作業台の向こうで、手を止めて、花瓶を見ている。
「ありがとう」
そう言うと、レリーナさんは少し照れたように笑った。
「いえ、その……ウィン先輩が飾ると、部室が落ち着いた雰囲気になります」
言葉を選びながら、丁寧に言う様子が、いかにも後輩らしい。
「カフェみたい、というか……」
「そう言ってもらえると、嬉しい」
特別なことをしているつもりはないけれど、そう感じてもらえるなら、自分も嬉しい。
笑って答えると、レリーナさんは少し安心したように頷いた。
「毎日ここに来るのが、楽しみなんです」
「それはよかった」
そう言いながら、ビスキュイを紙の上に並べていく。
一つずつ間隔をあけ、欠けやすい端を内側に向ける。
特別に意識しているわけじゃない。
何度も繰り返してきたから、体が覚えているだけだ。
レリーナさんが、その様子を真似しようとして、少し戸惑っている。
うまく並ばず、手が止まった。
僕は何も言わず、並べ終えた一枚を、そっと彼女の前へ滑らせた。
「あ……ありがとうございます」
「焦らなくていいよ。割れたら、それも味だから」
そう言うと、彼女は小さく笑った。
窓際に、気配がある。
視線を向けなくても分かる。
カイルさんだ。
今日も、いつの間にかそこにいる。
戦闘科の訓練帰りらしく、制服の袖をまくり、腕には薄く土の跡が残っている。
家庭科室の中では、どうしても浮いて見える。
けれど、本人は気にする様子もなく、ただ静かに立っている。
最近は、それが当たり前になっていた。
花を飾り、菓子を焼き、片付けをしている間も、気づけば、いつも視界のどこかにいる。
「……手際がいいな」
低い声が、ぽつりと落ちた。
「慣れているだけです」
「昔から?」
「うん。花も、お菓子も」
それ以上、説明はしなかった。
理由を語るほどのことでもない。
ビスキュイを紙の上に移し、一枚ずつ間隔をあけて並べる。
欠けやすい端は、内側へ。
考えなくても、手が勝手にそう動く。
カイルさんの視線が、こちらに向いているのが分かる。
花や菓子を見ているようで、実際には、たぶん僕の手元だ。
毎日のように家政魔術部に来るようになって、
こうして一緒にいる時間も、ずいぶん増えた。
昼も、ほとんど一緒に食べている。
いつの間にか、それが当たり前になっていた。
(……どうして、ここに来るようになったんだろう)
ふと、そんなことを思う。
理由は、聞いていない。
聞こうと思えば、聞ける。
でも、聞かないままでいるのも、悪くない気がしていた。
カイルさんは、花瓶に視線を移し、しばらく黙っていた。
「……ここにいると、時間の流れが変わる気がする」
独り言みたいな言い方だった。
何の話か、はっきりとは分からない。
それでも、ただの感想じゃないことは、なんとなく伝わってくる。
「……ここは、静かだな」
窓際に立っていたカイルさんが、ふいに息を吐いた。
「外にいると、何をしていても、常に見られてる気がする」
花瓶のほうを見るでもなく、作業台を見るでもなく、どこでもないところを見ている。
「……決まってるんだ」
低い声で、短く言う。
「やることも、立つ場所も」
それだけで十分だと言わんばかりに、言葉を切った。
僕が何も返さずにいると、少しだけ眉をひそめる。
「外れると、いちいち騒がしくなる」
不満をこぼすというより、事実を並べただけ、そんな調子。
カイルさんは視線を上げ、花のほうを一瞥する。
「……ここは違う」
短く言って、もう一度目を伏せた。
「勝手にしてても、誰も何も言わない」
そう言って、もう一度花に視線を落とした。
「花は、役割を果たせなんて言わないしな」
それきり、話は終わりだと告げるみたいに、口を閉じる。
軽い言葉なのに、なぜか重たい。
何を指しているのか、全部はわからない。
でも、自由が少ない場所に長くいた人の声だ、ということだけは伝わってきた。
レリーナさんは、気づかないふりをして、ビスキュイを並べ続けている。
僕も、それ以上、何も聞かなかった。
「……一枚、どうですか」
そう声をかけると、少し間があってから、
「……もらう」
短く返ってきた。
皿に乗せて渡すと、大きな手で受け取る。
一口かじって、わずかに表情が動いた。
「……軽いな」
「薄く焼いているので」
「……悪くない」
それだけ言って、また黙る。
花の香りと、焼き菓子の甘い匂いが、ゆっくりと混ざり合っていく。
窓から入る風が、スイートピーを揺らした。
淡い黄色が、光の中で静かに動く。
その気配を感じながら、僕は最後のビスキュイを並べ終えた。
軽くて、壊れやすくて、でも、ちゃんと形になっている。
カイルさんが、なぜここに来るのか。
まだ、よく分からない。
ただ、この部屋にいるときのカイルさんは、戦闘科で見かけるときよりも、少しだけ力が抜けて見える。
理由を聞くつもりはない。
知らないままでいい、とも思っている。
それでも――
本当に、ほんの少しだけ。
その理由をもっと知りたいと思っている自分に、気づいてしまった。
気持ちを切り替えるように、僕はポットに手を伸ばす。
ポットを置き、カップを三つ並べる。
どれも同じ形だけれど、手に取ったときの重さや、縁の当たり方は少しずつ違う。
火を止めて、少しだけ間を置いてから、お湯を注ぐ。
急がない。
待つ時間も含めて、お茶だと思っている。
カップに注ぐと、ふわりと湯気が立ち上った。
花と菓子の香りに、やさしいお茶の匂いが重なる。
家庭科室の空気が、ゆるやかに落ち着いていく。
湯気が立ちのぼり、家庭科室の空気がさらにやわらいだ。
「……お茶、入ったよ」
声に出して言うと、自分でも思っていたより穏やかな響きだった。
レリーナさんは、びっくりしたように顔を上げ、それから少し照れたように笑う。
手にしていたビスキュイを、そっと元の場所に戻した。
「ありがとうございます。いい香りですね……」
その隣で、カイルさんは何も言わずにこちらを見る。
相変わらず無愛想だけれど、目線はきちんと合っている。
僕は、二人を見比べてから、自然に微笑んだ。
うまく言葉を選ぼうとしなくていい。
特別な理由も、説明もいらない。
「少し休もう。焼きたてだし、花も、今が一番きれいだから」
そう言って、カップを二人の間に置く。
レリーナさんはほっとしたように肩の力を抜き、
カイルさんは一瞬だけ迷ってから、無言で椅子を引いた。
その様子を見て、僕はまた小さく笑う。
花の香りと、焼き菓子の甘い匂い。
そこに、温かいお茶の湯気が重なる。
窓から入る風がスイートピーを揺らし、その動きが、まるで三人分の呼吸をそろえるみたいだった。
――今は、それでいい。
僕はカップを手に取り、二人と同じタイミングで、そっと口をつけた。
花とお菓子の組み合わせが好きです。
カイルが吐露です。
葉月百合




