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放課後、甘い匂いのする場所で~マフィン~

 家政魔術部の放課後。

 甘い匂いが、ゆっくりと満ちていた。


 オーブンの前で、僕――ウィンは膝をつき、金網越しに中を覗き込む。

 マフィンの表面は均一に膨らみ、縁だけが、わずかに色づいている。


(……いい)


 生活魔法で火力を一段階落とす。

 ほんのわずかな調整だが、焼き上がりの香りが変わる。


 甘さは主張しすぎない。

 食べた人が「もう一つ」と思う程度が、ちょうどいい。


 砂時計を裏返す。

 落ちていく砂を横目に、作業台へ戻った。


 黒髪は無造作に跳ねている。

 短めで、作業の邪魔になることはないが、自然に手で直す癖が出る。


 ボウルは洗い終えたものと、これから使うものを分けて重ねる。

 泡が残らないよう、指先で縁をなぞって確認する。

 布巾は乾いたものだけを使う。湿気は、焼き菓子の敵だ。


 家政魔術部――通称「家政」は、学園の中でも目立たない場所にある。

 戦闘科の訓練場からは遠く、研究棟とも距離がある。


 騒がしさはない。

 人の出入りも少ない。


 だから、落ち着く。


 余計なことを考えずに、お菓子を焼く。

——少なくとも、そのつもりだった。



 砂が半分ほど落ちたところで、控えめなノック音がした。

 ためらいが混じった、静かな音。


「……失礼いたします」


 扉を開けると、そこに立っていたのは

レリーナ・エルフィオ嬢だった。

 長いピンクブロンドの髪は腰まで届き、光を受けて柔らかく輝く。

 歩くたびに髪が揺れ、裾をそっとまとめる仕草に緊張が滲んでいる。


 名門エルフィオ家のご令嬢。

 その名前は、噂として何度も耳にしている。


 けれど、実際に向かい合うと、想像していた「お嬢様」とは少し違った。


「こちらは……か、家政魔術部、でよろしいでしょうか」


 背筋は自然に伸び、動きに無駄がない。

 歩幅は小さく、靴の踵で床を鳴らさない。

 視線はまっすぐだが、言葉を発する前に、一拍の間がある。

 ご令嬢らしい所作だけれど、噂とは違い、その声は小さく弱く、たどたどしい。


「は、はい。そうです」


 自然と自分の声も、わずかに硬くなった。


「レリーナと申します……道を、誤ってしまいまして」


 理由を述べながら、きちんと頭を下げる。


「あの……甘い香りが、いたしましたので」


 オーブンへ向けられた視線。


「マフィンです。余っているので……」


 言いかけてから、余計だったかもしれないと思う。

 ご令嬢が知らない、それも初対面の男が作った菓子を食べるわけがない。


 彼女は、一瞬だけ考える仕草をしてから、小さく頷いた。


「では……少しだけ、頂戴いたします」


 僕が先に出来上がっていたマフィンを乗せて皿を差し出すと、彼女は両手で受け取った。

 指先が、ほんのわずか震えている。


 一口。

 噛み、飲み込み、息を整えてから。


「……甘さが、控えめで」


「とても……美味しいです」


「ありがとうございます」


 そう言うと、彼女は視線を落とした。

 その拍子に、袖口がわずかに乱れているのが目に入る。


「よろしければ、直します」


 ついまた余計なことを口走ってしまう。


「えっ……と、はい……お願いします」


 一歩近づく。

 生活魔法で糸を整える。

 指先が触れないよう、最小限の動きで。


「……見事ですわ」


 耳が、少し熱くなる。


 彼女は、扉の方を一度だけ見た。


「……今日は、このまま帰る気分に……なれなくて」


 理由は言わない。

 けれど、その沈黙が、理由そのもののようだった。


「……こちらに、少しだけ……居ても、よろしいでしょうか」


「もちろんです。お菓子を焼いて、片付けているだけなので」


 本心だった。


「では、また後程……失礼いたします」


 彼女は一礼し、いったん家政魔術部を出ていった。


 室内は、また静かになる。


(……次は、洗い物。の前に……)


 オーブンの火を切り、焼き上がりを網に移す。

 底の焼き色を確認し、並べ方を整える。


 使った器具を洗い、棚に戻す。

 ラベルの向きを揃える。


 よし。


 その最中、今度は短く、低いノック音がした。


「……失礼」


 入ってきたのは、見るからに戦闘科の男子だった。


 黒髪で整った顔立ち、肩幅が広く筋肉質な体格。

 制服は少し乱れているが、腕まくりした手が頼もしさを伝える。

 けれど、威圧感はない。


 扉を閉める音も、小さかった。


「ここは…………家政魔術部?で、合ってるか?」


「はい、家政魔術部です」


「助かる。少し、人を避けたい」


 説明はそれだけ。

 何が助かるのだろう。


「どうしました?強引な勧誘でもありましたか?」


「……まあな」


 視線が、一瞬だけ廊下に向く。


 彼は勝手に座らず、壁際に立つ。

 出入口が見える位置だ。


「邪魔はしない」


 そう言って、作業台に目を落とす。

 彼が散らかっていた布巾を手に取った。


「……これ、畳むのか?畳んでいいか」


「ええ、まあ、そうなんですけど。お願いします」


 彼は生活魔法を使わず、自ずから畳み始めた。

 僕も合わせて、二人、無言で畳む。

 角が、きっちり揃うと気持ちがいい。

よし。


「……手際、いいな」


 唐突に言われて、手が止まる。


「カイル、だ」


 ぶっきらぼうだが、落ち着いたやさしい声色だった。


 その時、再びノック音。


「……失礼いたします」


 レリーナさんが戻ってきた。


 カイルさんは即座に一歩下がる。

 深くはないが、確かな礼。

 それだけ。


 名前も、家名も呼ばない。

 距離の取り方が絶妙すぎる。


 レリーナさんは一瞬、ほんのわずか、目を細めた。


「レリーナと申します」


「レリーナさんも、こちらにどうぞ」


 テーブルに2人を促し、手早くお茶を淹れる。

 そして、焼きたてのマフィンをテーブルに運ぶ。


「ありがとうございます」


 三人で、マフィンを囲む。


 僕が皿を置くと、二人とも最後まで待った。

 誰が先に手を伸ばすか、自然に譲り合う。

 結局、僕が一つ目を食べた。


 カイルさんは一口食べて、短く言う。


「……うまい」


 それ以上は何も言わない。

 黙々とマフィンを食べている。

 レリーナさんは、小さく頷いた。


「とても、落ち着きます」


「……」


「……何度でも……戻ってきたくなりますね」


 それは部屋に向けた言葉だろうか。

 レリーナさんが僕を見て微笑んだ。

 気恥ずかしくて、僕は視線をカイルさんに向けた。


 彼は僕の視線に気づいたのか、何も言わず、視線を逸らした。


 家政魔術部の放課後。

 甘い匂い。

 整えられた道具。


 その中に、名前のつかない感情が、粉砂糖のように、静かに、積もっていった。


——それが、当たり前になる未来を、僕はまだ知らない。





始まりました。ウィンのこれからの日常を、長い目で見ていただけたら。

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