〝ケビン〟
ミアたちは、しばらく歩き続けた。空は抜けるような青になっていて、小鳥の群れが囀りながら飛んでいる。もうすっかり朝だ。
ミアは立ち止まって後ろを振り返る。追手の気配は感じなかった。ミアは深呼吸をし、前を歩くケビンに問いかける。
「あなた……何者なの」
城から逃げる時の兵士に対しての動きは、素人のものではなかった。ここまでの行動力もそうだ。普通、投獄されている罪人を逃がそうと思ったらもう少し迷いが出るはず。それなのに、ケビンの言葉はいつもぶれなかった。――どう考えても、ただの使用人だとは思えない。
ケビンはゆっくりとこちらを振り返った。陽光を背に受けて、彼の顔に影が落ちる。その表情はよくわからなかった。
「そろそろ、本当のことを話さないとな」
ケビンが呟く。そして、ミアの方を見るとはっきりとした口調で言った。
「俺はコール王国第四王子、テオドールだ。聖女ミア。あなたと話がしたかった」
「え……?」
彼の言葉は、ミアの思考を一瞬で停止させるには十分だった。
(王子……? ケビンが? いや、ケビンは偽名だわ……)
混乱しながら、ミアはケビン――ではなく、テオドールをまじまじと見る。思い返せば、いつも穏やかで、冷静で、どこか品のある所作をする人だった。まさか王子だなんて。でも、不思議とすぐに彼が王子なのだと心が受け入れる。それだけのオーラが、彼にはあった。
「ケビ……いや、テオドール殿下。あ、あの、私、これまでずっと無礼な態度を……」
ミアは慌てて頭を下げる。頬が燃えるように熱い。今までの態度は王族に向けるものではなかった。どう考えても。
「堅くならないでくれ」
テオドールが手を伸ばす。その手は、ミアの肩に触れそうで触れないところで止まった。
「むしろ、謝らなければいけないのは俺の方だ」
テオドールは静かに目を伏せる。睫毛の下で、瞳が不安定に揺れていた。彼はふっと息を吐くと、深々と頭を下げる。
「頼む。我が国に一度だけ祈りを捧げてほしい」
そう告げられた瞬間、ミアの胸に緊張が走った。
(聖女の力が目当てということ……?)
背筋に冷たいものが広がっていく。
〝行きましょう。あなたの人生を掴みに〟
ミアはテオドールの言葉を思い出す。あの時の彼の瞳は澄んでいた。きっと、あの言葉に嘘はなかったのだろう。実際、彼は懸命にミアを逃がしてくれた。彼の優しさが本物だということはわかっているつもりだし、感謝している。それでも――。
(また誰かに裏切られたらどうしよう)
聖女は唯一無二の力を使える。だからこそ、どうしてもその力ばかりに目を向けられがちだ。一人の人間としては、なかなか見てもらえない。それでも、皆の役に立てるならば構わないと思ってきた。でも、今回の一件で特別な力は妬みや憎悪の対象になることもあるのだと、身をもって知ってしまった。まさか、罪人に仕立て上げられるなんて経験――それも親友だと思っていたアンヌに裏切られるなんてことがあった今は、聖女の力を求められるのが怖い。
ミアの表情が暗くなったのがわかったのだろう。テオドールは慌てた様子でこう言った。
「もちろん、無理にとは言わない。あなたの意思を優先する」
テオドールは優しく微笑む。ミアにはその笑顔が無理して作られているように見えた。
「……どうして、祈りを捧げてほしいのですか」
ミアはぽつりと尋ねる。テオドールの表情には切実さがあるような気がした。恐怖心はあるけれど、彼の事情はきちんと知っておきたかった。
テオドールは一瞬迷うような表情を浮かべ、目を伏せた。数秒後、彼はゆっくりと顔を上げ、遠くの森を見つめる。風に揺れる木々の向こう――そこに、ヴィエール王国の隣国、コール王国がある。
「……コール王国は今、苦しい状況にある」
零された言葉には、重々しい響きがあった。
「悪天候が続いているんだ。必要な時に雨が降らず、降ったかと思えば嵐や洪水になる。作物もほとんど育たない。家畜も弱り、人々も飢えている」
ミアは悲惨な光景が目に浮かび、息をのむ。だが、テオドールの話はそれでは終わらなかった。
「それに、魔獣の出没が増えている。凶暴性も以前より増していて、辺境の村はまともに暮らせない状況だ」
「そんな……」
ミアにはそれ以上、言葉が出なかった。自然の驚異は人間にはどうしようもない。コール王国の人々は、今どれほど辛いだろう。怖いだろう。
「国王や兄たちも対策を打ってはいる。魔獣討伐隊の増員や、魔術師に結界を張ってもらうなど色々やってはみたが……所詮はどれも対症療法だ。根本的に解決しなければ意味がない」
テオドールは苦し気な表情で首を振る。
「国民は怯えながら生活している。畑を捨て、移住する者まで出始めた。このままでは、いずれ国自体が立ち行かなくなるだろう」
その声には、責任感が滲んでいた。
「俺は第四王子だ。王位を継ぐことはまずない。だが……それでも何かできることをしたかった」
王族だから、ではなく一人の人間として、コール王国を救いたい。そんなテオドールの想いが伝わってくる。
「そこで、俺は考えたんだ。ヴィエール王国には、聖女がいると」
テオドールがミアを見る。
その瞳はどこまでも真っすぐで、熱を帯びていた。
「聖女は祈りを捧げ、精霊の力を借りることで国を守っている。聖女と同じように精霊魔法を使える者がいれば、天候も魔獣の被害も改善できるかもしれない。そう思った」
テオドールはぎゅっと拳を握りしめる。その拳は、悔しそうに震えていた。
「俺は、王族の身分を隠してヴィエール王国へと向かった。使用人〝ケビン〟として潜り込み、聖女の魔法を学べば俺にも何かできると期待していた」
「だから、使用人のふりを……」
ミアが目を丸くすると、テオドールは苦笑した。
「最初はな。けれど、約二年間間近で見ていて理解した。精霊魔法は、俺には習得できないのだと」
その一言は無力感に満ちていた。
「精霊は誰にでも応えてくれるわけじゃない。ミア、あなたは精霊と心が通じ合っているのだろう? 数えきれないくらい彼らに呼び掛けたが、俺は精霊の気配すら感じられなかった」
ミアは思わずテオドールをまじまじと見つめた。精霊魔法が聖女しか使えないのは、ヴィエール王国では常識。ケビンとして潜り込んでからすぐの段階で、テオドールもその事実を知っただろう。それでも彼は諦めず、二年もの間精霊に呼び掛け続けたのだ。――コール王国のために。
(そんな、彼はそこまで――)
テオドールは再度、頭を下げた。
「一度だけ頼らせてはくれないか。ほんの少しの間でも状況が良くなれば、国を立て直せるかもしれない。もちろん、一度祈りを捧げてくれれば、後は自由にしてもらって構わない。今後の生活のために、できる限りの支援もする。だから……」
ミアは王族が何度も頭を下げる姿を見たことがなかった。深々と腰を折り曲げ、微動だにしないテオドールを見て、彼がどれだけ本気なのかがわかった。
(この人は、本気で国を、民を守りたいんだわ)
ミアは胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
「殿下はすごいです」
ミアが言うと、テオドールは顔を上げる。
「殿下ほど国のことを考えられる人はなかなかいません」
その言葉を聞いたテオドールはきょとんとした表情を浮かべる。そして、ごく自然な口調でこう言った。
「――俺には、あなたの方がすごいと思うが」
「え……?」
驚くミアに、テオドールはしみじみとした様子で続ける。
「この二年間、あなたの働きぶりを見てきた。病人に寄り添い、毎日結界を点検し、誰も見ていなくても皆のために働く。あなたはそういう人だった。そんな人間、なかなかいない。あなたは……聖女として国を支えていた」
彼の瞳には、尊敬の念が宿っていた。
「……なぜ、あなたはそこまで他人のために働けるんだ」
そう問われて、ミアは言葉に詰まる。
「なぜ他人のために行動するか。……考えたことも、ありませんでした」
絞り出すように、ミアは思いを紡ぐ。
「目の前に助けられる人がいたら助ける。ただ、それだけで……」
それを聞いて、テオドールはふっと笑う。柔らかな微笑みだった。
「あなたは、正真正銘の聖女だ」
テオドールの瞳には嘘がなかった。それを見て、ミアは今までの自分の行いは間違っていなかったのだと、ようやく心から思えた。
(私にしかできないことがあるのなら。それで誰かが救われるのなら。私は――聖女でいたい)
ミアは真っすぐ顔を上げる。すっかり、晴れやかな表情になっていた。
「私にできることがあれば、力になります」
ミアはテオドールを見て、思い切り笑う。
「ヴィエール王国には〝本物の聖女〟が現れましたから」
ヴィエール王国に戻るという選択肢は、今の時点ではない。ならば、目の前で困っている人を救うことこそ、自分がすべきことだ。
「コール王国に行きます」
テオドールの顔がぱっと輝く。彼は深々とお辞儀をした。言葉こそなかったものの、その姿からは感謝と喜びの念がひしひしと伝わってくる。
(目の前のことを、少しずつやっていこう)
涼しい風がミアの髪を揺らす。ミアは小さく息を吸い、決意を胸に刻んだ。




