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城壁の外

 牢獄から一歩出ると、空は瑠璃色に輝いていた。もうすぐ夜明けといったところか。


(わずかな時間でも、光が届かない場所にいれば時の流れを忘れる)


 暗い牢屋の恐ろしさを改めて感じて、背筋が冷える。絶対にあそこには戻りたくない。何としてでも、逃げ切らねば。


「ここはまだ、城の敷地内です。できるだけ早く抜け出しましょう」


 ケビンの低い声に、ミアは黙って頷いた。彼の後を追い、石畳を踏みしめながら進む。だがどれだけ歩いても、なかなか敷地の出口は見えてこない。肉体よりもむしろ、精神の方が疲弊した。


(どうして王族は、無駄に広い土地をほしがるのかしら)


 呆れに近い思いが胸を過る。文句を言っても仕方ないのに。


 空が少しずつ白み始める。焦りが胸を締め付けた。前を行くケビンは、表情一つ変えず歩き続けている。その落ち着きが、妙に心強かった。


「あと少しです」


 前からケビンが言う。淡々とした声なのに、不思議と勇気づけられた。


「ありがとう」


 ミアがそう言うと、ケビンは僅かに口元をほころばせた。


「お礼を言うのは、まだ早いですよ」


 その笑みを見て、ミアの胸に小さな灯が宿る。さあ、あと少し、急ごう――。二人が視線で語り合った、その時だった。



「聖女さま!?」


 背後から声が響く。振り返ると、二人の少女が立っていた。洗濯物を抱えた、ランドリーメイドたち。ミアは少女たちの顔に見覚えがあった。ここ一年ほど働いている使用人たちだ。


(見つかった……!)


 ミアは血の気が引く。少女たちの顔も同じように青ざめていた。今ここで脱獄が知られれば、全てが終わる。


 〝紛い物の聖女など、愛されるわけがないのだ。罪が明らかになった今、お前の味方をする者などいない〟


 ルークの冷たい声が脳裏に蘇り、全身が強張る。ケビンの瞳にも警戒の色が宿った。


 使用人の少女たちは互いに顔を見合わせ、何やら小声で話し合っている。ミアは息を殺して耳を澄ませたが、内容は聞き取れなかった。



 少しして、使用人たちが近づいてきた。ミアの背中に一筋の汗が伝う。逃げなければ――そう思うのに、足が動かない。


(どうしよう)


 頭が真っ白になった、その瞬間。ふいに視界が暗くなった。何が起こったのかわからず戸惑うミアの耳に、囁くような声が届く。


「これでお顔を隠してください」


 少女の手が、自分の頭にシーツを被せたのだと気付くまで数秒かかった。


「どうして……?」


 ミアは思わず呟く。


 ミアは国を欺いた偽りの聖女。ルークを傷つけ、人々の信頼を裏切った存在――。世間では、そんな認識のはずだ。それなのに、なぜ助けようとしてくれるのか。少女たちの顔に影が落ちる。揺れる瞳は、不安と決意を宿しているように見えた。


「……冤罪ですよね?」


 二人は真っすぐミアを見つめた。


「普段の聖女さまの姿を見ていればわかります。あなたが人を傷つけるなんてあり得ません」


 少女の言葉に、ミアの喉が詰まる。


 ――わかってくれる人もいたのだ。


「使用人用の出入口なら、人目に付きにくいはずです」


 二人は出入口の方を指し示しながら言う。


「ご案内します」



 ミアはシーツの隙間から少女たちを真っすぐ見つめる。


「あなたたちの名前は?」


 ミアの言葉に、少女たちは大きく目を見開いた。僅かに頬を赤く染め、二人は答える。


「リーナです」

「ノルンと申します」


 彼女たちは、照れたように笑う。ミアは二人の名前を心に刻み、彼女たちとケビンと共に城の出口を目指す。さっきまで感じていた疲れは、いつの間にか消え去っていた。



「あそこです」


 少し歩いたところで、使用人の少女の一人――リーナが門を指す。その先には、石造りの壁に付けられた小さな鉄門が見えた。使用人が街に出るためにだけ使われるからだろう。一応、警備は付いているものの、兵士が二人のんびりとした様子で立っているだけだ。厳重な警備の正門と違って、何とか通り抜けられそうだった。


「私たちが兵士の気を引きます。聖女さまは、その間に行ってください」


 ノルンが力強く言う。


「ありがとう」


 ミアはリーナとノルンの手を握り、頭を下げた。脱獄を手伝ったことがバレれば、無事ではいられないはず。それなのに協力してくれた二人には感謝してもしきれない。


 リーナとノルンはミアに笑いかけ、兵士の方に歩いていく。ミアはシーツでしっかりと顔を隠した。ふとケビンを見ると、彼は深く頷いた。大丈夫。そう言ってくれているようだ。



 リーナとノルンは、何やら兵士に話しかけている。兵士たちの視線は二人に釘付けだ。


(今だ……!)


 ミアはケビンに目配せをする。気付かれないうちに、門を潜りぬけてしまおう。ミアが一歩足を踏み出した、その瞬間。



 カンカンカンカン――!


 重く不吉な鐘の音が、城中に響き渡った。


「聖女が逃げたぞ!」


 男の鋭い叫びが、明け方の空を切り裂く。


 兵士の一人が振り向き、ミアと目が合った。



「お前……! 聖女ミアだな!!」


 兵士が大声を上げるのと、ケビンがミアの手を引いて走り出すのがほぼ同時だった。


「走って!!」


 ケビンの緊迫した声が聞こえてくる。ミアは息つく間もなく足を動かした。全身が激しく脈打ち、脇腹に鈍い痛みが走った。しかし、どれほど全力で走っても兵士を振り切ることはできそうもない。さっき通り抜けようと思っていた門はあっという間に兵士に囲まれてしまった。それに、四方八方から大量の兵士がなだれ込んできていて、最早誰もいない場所などなさそうだ。


(ここまでか……)


 ミアは唇を噛み締める。これではもう逃げられない――そう思った時、ふとこんな考えが頭を過る。


(精霊の力を借りれば……)


 周囲の空気が微かに震え、精霊たちのざわめきが聞こえた気がした。きっと、精霊たちはミアが呼びかければ、応えてくれるだろう。力も貸してくれるはずだ。でも――。


(精霊に人を傷つけさせてはいけない)


 ミアは必死に誘惑を抑え込む。精霊魔法は加減を間違えれば、凄まじい破壊力を発揮する。ミアは戦闘で精霊魔法を使った経験がない。ここで精霊魔法を使えば、人に多大な被害を与えてしまう可能性があった。聖女はあくまで、精霊の力を借りている存在。彼らに必要以上に命を傷つけさせるのは、どうしても抵抗があった。


ミアはそっと息を吸う。そして、一歩前へ出た。ここまで付いてきてくれた使用人たちだけでも、守らなければ。


「ケビンもリーナもノルンも、私が脅して連れてきました」


 ミアは懸命に声を張り上げる。


「彼らは無実です。捕まえるなら、私だけを――」



「下がって……!」


 ミアの言葉を遮るように、ケビンの低い声が響いた。


 次の瞬間、ケビンの姿がふっと霞む。風を切る音が耳を打ち、視界の端で兵士の身体が浮いた。


「え……?」


 ミアは何が起きているかわからず、思わず声を漏らす。鉄の鎧が軋む音と共に兵士が横殴りに吹き飛ばされ、石壁に叩きつけられる。ミアの視線移動よりも速く、ケビンは別の兵士に迫っていた。


 硬い石畳に覆われた地面が割れるほどに、ケビンが足を踏み込む。そしてそのままの勢いで、肘を兵士の胸甲に食い込ませた。鈍い衝撃音が辺りに響く。兵士はくぐもったうめき声を漏らしながら、宙に舞った。


「うわぁ……!!」


 次の瞬間、また一人壁に叩きつけられる。衝撃で気を失った兵士の手から放れた盾が、重々しい音を立てて地面に倒れた。


(訓練された兵士が……何が起きているの……?)


 ミアは目の前の光景が現実だとは思えなかった。素人目に見ても、ケビンの動きは異常だ。普通なら、素手で大量の兵士を相手に戦えるわけがない。


 ケビンは次々と、兵士を薙ぎ払っていく。あまりの威力に、大柄な兵士が丸太のように転がっていき、後続の兵士まで巻き込んで倒れていった。


 鎧同士がぶつかり、甲高い金属音が連鎖していく。


 ――壮観だ。



「聖女さま!」


 ケビンが振り返り、手を差し出した。その呼吸は驚くほど落ち着いていた。


「こちらです」


 ミアは呆然としながらも、その手を取る。その瞬間、ケビンは信じられないほどの速度で駆け出した。まるで彼の周りにだけ、重力がないかのように軽い走りだ。


 走っている間も、迫る兵士を片手で倒していく。足払い、体当たり、手刀――全ての動きに無駄がない。軽く触られただけに見えるのに、兵士たちは皆膝から崩れ落ちていった。



 城の出口が見える。ケビンは、ひょいとミアを横抱きにする。そして、一気に門を通り抜けた。


(外だ……!)


 随分と長い間見てこなかった城壁の向こう側。ミアは今、そこにいる。熱いものが胸の奥から湧き上がってきた。


「せ、聖女さま~」

「待ってください……」


 遠くから微かにリーナとノルンの声が風に運ばれてきた。二人も何とか逃げ切れたようだ。ミアはほっとして、ようやく深く息を吸い込んだ。夜明け直前の、爽やかな香りの空気が肺を満たす。涙が一筋、ミアの頬を伝った。



 日が昇り始めた空が、まるでミアたちを祝福してくれているように黄金色に輝いた。


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