希望
頭の芯が重い。気が付いたら、少し眠ってしまったみたいだ。
(あれから、どれくらい経ったんだろう)
ミアはそっと頬を撫でる。涙は乾いて、ざらざらになっていた。何度も何度も、アンヌとルークの言葉を繰り返し思い出してしまう。そんなことをしても、落ち込むだけなのに。
虚無とはこのことか、とミアは理解する。親友に裏切られ、潔白も信じてもらえなかった。そして何より辛いのは、聖女としての自分を否定されたことだ。
ミアは完璧な人間ではない。それでも、この五年間日々自分のできることはやってきたつもりだった。でも、それは自己満足だったのかもしれない。だから今、こんなことになっているに違いない。
(何もかもどうでもいい)
ミアは力無く目を伏せる。聖女という、人生をかけてきた役割を失った今、未来のことなんて考えられなかった。
「聖女さま」
聞き慣れた声に、はっと我に返る。黒い感情に飲み込まれそうになっていたが、意識が引き戻された。
「ケビン……」
ミアは親しい使用人に呼びかける。いつも彼がまとっている穏やかな空気が酷く恋しかった。でも、今目の前にいるケビンはいつになく張りつめた雰囲気だ。彼は眉間に皺を寄せ、こちらを見た。その瞳に静かな怒りが宿っているように見えて、ミアは身構える。ケビンもミアが国民を騙し、王子を傷付けた極悪人だと思っているのかもしれない。しかし、彼の口から出た言葉は予想もしなかったものだった。
「大丈夫ですか」
「え……?」
思いがけずかけられた優しい言葉に呆然としてしまう。
「怪我はしていませんか。どこか痛い所は?」
「……大丈夫」
ミアが答えると、ケビンは少し表情を和らげた。その様子を見て、ミアは気が付く。ケビンがいつも、自分を気にかけていてくれたことに。
「私、聖女としてダメだったのかな」
ほっとした瞬間、弱音がぽろりと零れる。ケビンは澄み切った瞳でミアを見つめた。
「あなたは立派な聖女です」
彼ははっきりとした口調で言う。揺るぎない視線に貫かれ、ミアは魂が目覚めていくような気がした。心を覆っていたどす黒いものが、さっと晴れていく。
「ありがとう。ケビン」
そう言って、ミアは微笑む。自分の努力を見ていてくれる人がいた。その事実だけで、救われる。
「お陰で、最期まで清らかな気持ちでいられそうだわ」
ミアは涙が溢れそうになるのを堪える。すると、ケビンはいつになく声を張り上げた。
「しっかりしてください!」
驚きのあまり、ミアの身体がビクッと跳ねた。ケビンは真っ直ぐこちらを見つめ、今度は静かに言う。
「まだ、諦めないでください」
「でも――」
ルークがミアのことを犯人だと信じて疑わない今、状況が良くなるとは思えなかった。
「前にも言ったでしょう。あなたが望むなら、聖女の仕事を辞められるように協力すると」
ケビンは真剣な面持ちだ。ミアは彼の言葉をどう受け留めればいいのか戸惑う。
「ただの使用人に何ができるのか……。そう思っているのでしょう」
心の中を見透かされたようで、ドキッとする。ケビンは小さく胸を上下させると、静かに、でも芯のある声で言った。
「俺を信じてほしい」
親友に裏切られた直後だ。正直、人を信じるのは怖い。だけど――。
(彼のことは信じたい)
いつも穏やかに微笑んでいる姿。さり気なく、体調を気遣ってくれるところ。大きな身体なのに、威圧感を与えない柔らかな空気。子ども優しいところ……。思い返せば、ケビンはいつも陽だまりのようにミアの心を温かくしてくれていた。
聖女なら、完璧で当たり前。
聖女なら、国民のために自分を犠牲にするべき。
聖女なら、役目から逃げるな。
いつも投げかけられたそんな言葉を、ケビンだけは口にしなかった。
「私、やっぱりまだ諦めたくない」
ミアは顔を上げる。
「やってもない罪で処刑されたくないし、ちゃんと自分の人生を生きたい」
ミアは立ち上がり、視線を少し上に向ける。ケビンの瞳をじっと見つめ、こう言った。
「あなたのことを信じる」
視線と視線が空中で交わる。途端、ケビンの瞳がきらりと光った。
「一緒に国を出ましょう」
ケビンの言葉に、ミアは息をのむ。国を出る。聖女として生きるうち、そんな発想すらできなくなってしまっていた。
「あなたはもう自由になっていい」
ケビンは、優しい声で言う。
「行きましょう。あなたの人生を掴みに」
ミアは深く頷く。その瞳は輝きを取り戻していた。




