愛を知る
石造りの監獄は、昼でも薄暗く、湿った空気が肌にまとわりついていた。壁に染みついた冷気が足元から這い上がり、ミアは思わず上着の襟元を押さえる。鉄格子の奥から漂う錆と土の匂いが、ここが日常から切り離された場所であることを強く主張していた。
「……反省していると思う?」
小声でそう尋ねるミアに、テオドールは答えず、ただ視線を前へ向けたまま歩みを進める。その先、松明の明かりに照らされ、二つの影が浮かび上がった。
「監獄に入れるなんて、ふざけるな!」
近づくや否や、怒声がぶつけられる。ルークは鉄格子に掴みかかり、鎖の擦れる音を響かせた。
「ヴィエール王国の聖女を連れ戻そうとしただけだ! それのどこが罪になる!」
アンヌもまた、乱れた髪を振り乱し、鋭い眼差しでミアを睨みつける。
「牢獄なんて嫌! こんな屈辱、許されると思って? 横暴よ、横暴だわ!」
その声に、ミアの胸がきゅっと縮んだ。謝罪の一言でもあれば、少しは気持ちが軽くなったかもしれない。だが二人の瞳に宿るのは、後悔ではなく、己の正しさを疑わぬ傲慢さだけだった。
その様子を静かに見つめていたテオドールが、ゆっくりと口を開く。
「……反省など、欠片もないようだな」
低く、抑えた声。それだけで、場の空気が一層冷えた。
「よく聞け。ミアはこれから王族となる身だ」
その言葉に、ミアは思わず彼の方を振り返った。
「え……?」
耳を疑う。自分の名と“王族”という言葉が結びつくなど、想像したこともなかった。
「そんな彼女に手を出しておいて、軽い罪で済むと思うな」
断罪の言葉に、ルークの顔が歪み、アンヌは息をのむ。
「ちょ、ちょっと待ってください、テオドールさま」
ミアは慌てて声を上げた。
「私が……王族? どういう意味ですか?」
問いかけに、テオドールは一度だけ深く息を吸い、そしてミアの前に向き直る。牢獄という場には不釣り合いなほど、真剣で、誠実な眼差しだった。
「ミア。君には、これからコール王国の未来を共に歩んでほしい」
ミアの鼓動が早まる。何かを悟りかけた、その瞬間。
「結婚してほしい」
はっきりとした声で告げられた言葉は、ミアの胸に真っ直ぐ突き刺さった。頭が真っ白になり、監獄のざわめきも、遠くの鎖の音も、全てが遠のく。
「……私が、王子妃に?」
震える声でそう呟くと、テオドールは小さく頷いた。
「ああ。君でなければ意味がない」
その言葉に、ミアの胸に温かい熱が広がる。不安も恐れもある。それでも、これまで共に過ごした日々、彼の誠実さを思い返せば、答えは自然と定まっていった。
ミアはそっと背筋を伸ばし、テオドールを見つめ返す。
「……驚きました。でも」
一瞬だけ視線を伏せ、そして微笑む。
「テオ。よろしくお願いします」
その瞬間、背後から荒々しい声が響いた。
「ふざけるな!」
「そんなの、認めないわ!」
ルークが鉄格子を叩き、アンヌが悔しさに顔を歪めて叫ぶ。しかし二人の声は、もはやミアの心を揺らすことはなかった。
テオドールはミアの手を取り、確かめるように優しく握る。
「行こう。もう、ここに用はない」
冷たい監獄の空気を背に、二人は歩き出す。石の廊下に響く足音は、新たな運命への確かな一歩のように、静かに、しかし力強く鳴り響いていた。
裁判の日、コール王国の大法廷には、朝から重苦しい緊張が張りつめていた。高い天窓から差し込む光は淡く、白い石床に長い影を落としている。傍聴席には貴族や官僚だけでなく、事件の噂を聞きつけた民衆の姿もあり、誰もが固唾をのんで判決の時を待っていた。
被告席に立たされたルークとアンヌは、かつての威光を失い、囚人服に身を包んでいる。アンヌは爪を噛み、落ち着かない様子で視線を泳がせ、ルークは険しい顔で前を睨み続けていた。
「――判決を言い渡す」
裁判官の声が法廷に響く。
「被告ルーク、アンヌ。聖女ミアを誘拐し、国家間の秩序を乱し、重大な外交危機を引き起こした罪により――終身刑とする」
木槌が打ち下ろされた瞬間、法廷の空気が震えた。
「そんな……!」
アンヌは悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちそうになる。ルークは歯を食いしばり、怒りと屈辱を押し殺すように拳を握り締めた。
本来、この罪に下される刑は死罪だった。判事も、評議会の多くも、その判断を覆すつもりはなかった。
――ただ一人を除いて。
「どうか、命までは奪わないでください」
判決が下される前夜、ミアは何度も評議会の扉を叩いた。深く頭を下げ、震える声で訴え続けた。
「彼らが犯した罪は許されるものではありません。でも……憎しみで終わる裁きは、新しい憎しみを生むだけです」
恐怖と憎しみに支配された時間を思い出しながらも、ミアは目を逸らさなかった。
「私が受けた苦しみを、これ以上誰かに背負わせたくないのです」
その真摯な言葉が、かろうじて死罪を思い留まらせ、終身刑という判決へと変えたのだった。
しかし、この裁きは新たな波紋を呼ぶ。
ルークとアンヌの罪の詳細は、瞬く間にヴィエール王国へと伝えられた。市場、酒場、教会――。人々が集う場所では、噂と驚愕の声が渦巻く。
「聖女様を誘拐しようとした、ですって……?」
「アンヌさまが、そんなことを……信じられない」
やがて、アンヌがミアに冤罪を着せ、自らを本物の聖女だと偽った事実までもが明らかになると、空気は一変した。
「許せない……!」
「王族は、嘘吐きだったのか!」
怒りは怒りを呼び、声は次第に数を増やしていく。ついに民衆は立ち上がり、革命の火が灯された。
王都では抗議の叫びが響き渡り、アンヌを支持し、ミアを裁いた王族たちは次々と責任を追及された。恐怖に駆られた彼らは、密かに馬車を用意し、国外逃亡を図ったという。
王城には空の玉座と、主を失った広間だけが残された。かつて権威の象徴だった王族は、姿を消した。
その知らせを受け取ったミアは、コール王国の城の一室で、しばらく言葉を失っていた。
「……国が、こんなことになるなんて」
窓辺に立ち、ヴィエール王国の空を思い浮かべる。国民の不安、混乱、そして未来への絶望――。それらが胸に重くのしかかる。
「私がいなくなったせいで……」
自責の念に沈むミアの背後から、静かで落ち着いた声が聞こえた。
「違う」
テオドールだった。彼はミアの隣に立ち、同じ景色を見つめる。
「これは、長年積み重なって出来た歪みが表に出ただけだ。ミア一人の責任ではない」
それでもミアの表情は晴れなかった。その様子を見て、テオドールはしばらく考え込むように黙り込み、やがて口を開く。
「一つ、道がある」
ミアは顔を上げる。
「ヴィエール王国と、コール王国を合併するのはどうか」
「……合併?」
耳慣れない言葉に、ミアは驚きのあまり息をのんだ。
「王族や統治者が不在の国は、いずれ内側から崩れる。政治と治安を立て直すため、コール王国が責任を持つ。そして――」
テオドールは真っ直ぐミアを見つめる。
「君は聖女として、これまで通り、ヴィエール王国の民を守るんだ」
数日後、コール王国の王族たちはヴィエール王国の地に赴き、広場に集まった民衆の前に立った。不安と疑念の入り混じった視線が、一斉に注がれる。
「我々は、この地の政治運営を責任を持って行う」
一同の前で、国王が告げる。ざわめきが広がる中、宣言は続く。
「聖女ミアは、ヴィエール王国領であった地にも、コール王国にも、等しく祈りを捧げる。どちらか一方を蔑ろにすることはない」
人々の表情に、わずかな安堵が浮かんだ。
「ただし――」
重ねて告げられる。
「この合併は強制ではない。国民投票を行い、賛成票が過半数を超えた場合のみ、成立とする」
民衆は互いに顔を見合わせ、頷き合った。自らの意思で未来を選べることが、何よりの救いだった。
そして迎えた投票の日。
票が集計され、テオドールによって結果が読み上げられる。
「賛成多数――よって、ヴィエール王国とコール王国の合併は承認されたものとする」
一瞬の静寂の後、広場には歓声と涙が溢れた。不安の中にいた人々が、ようやく未来への足がかりを見つけた瞬間だった。
ミアはその光景を見つめ、胸に手を当てる。
国の形は変わっても、皆の心は失われていない。
――ヴィエール王国は、終わりではなく、新たな始まりを迎えたのだった。
ヴィエール王国との合併を経て、コール王国はかつてない広がりを持つ国となった。政務も、民の数も、祈りを必要とする土地も増えたが、ミアはその全てから逃げなかった。
朝は早くから神殿に立ち、祈りを捧げる。午後は各地から届く報告書に目を通し、病や不作に悩む土地があれば、馬車に揺られて現地へ向かう。疲労が溜まらないと言えば嘘になる。それでも――。
「ありがとうございます、聖女さま」
「あなたの祈りで、病気が良くなりました」
そう言って頭を下げる人々の姿を見る度、胸の奥が温かくなった。
(忙しいけれど……不思議と、辛くはない)
むしろ、聖女として生きている実感が、ミアに確かなやりがいを与えていた。周囲には事務官や使用人、そして何よりテオドールの支えがある。決して一人ではなかった。
そんな日々の中で迎えた、結婚式の日。
白い光に満ちた大聖堂で、ミアは純白のドレスに身を包み、テオドールの隣に立っていた。讃美歌が静かに響き、ステンドグラス越しの光が二人を祝福するように降り注ぐ。
「天の祝福の元、いついかなる時も共に歩むことを誓いますか」
「はい」
はっきりと答えたその声に、迷いはなかった。
列席者の中には、久しぶりに再会した母の姿もあった。少し照れくさそうに、それでも誇らしげに微笑むその表情を見た瞬間、ミアの目に涙が滲む。
式の後は、短いながらも穏やかな時間を母と過ごした。お茶を飲みながら近況を語り合い、手を取り合って笑う。
「無理しすぎないのよ」
「うん。……これからは、たくさん親孝行します」
その言葉は、ミア自身の決意でもあった。
夜。祝宴が終わり、二人きりになった私室で、テオドールはどこか落ち着かない様子を見せていた。何度か言葉を飲み込み、やがて意を決したように口を開く。
「……ミア」
「はい?」
「聖女は……一生、純潔を保たなければいけないのだろうか」
あまりに遠慮がちで真剣な問いに、ミアの頬が一気に熱を帯びた。
「そ、そんなこと……考えたこともありませんでした」
視線を逸らし、胸元に手を当てる。
(でも……もう、私たちは夫婦だし……)
答えに迷い、言葉を探していると、不意に胸の奥に温もりを感じた。
「……ん?」
二人の目の前に、小さな光が現れる。淡く輝く精霊だった。精霊は楽しそうにふわりと舞い、♡型の軌道を描くように空を飛ぶと、くすくす笑うような気配を残して、すっと消えてしまう。
静寂。
顔を見合わせたまま、数秒。
そして――。
二人は同時に、思わず小さく笑った。
「……答えは、出たみたいですね」
「ああ。精霊のお墨付きだ」
その夜、二人は夫婦として、静かで温かな初夜を迎えた。
翌朝。
柔らかな朝日が差し込む部屋で、ミアはゆっくりと目を覚ました。隣には、穏やかな寝息を立てるテオドール。胸の奥に、言葉にできない幸福が満ちていく。
しかし、その幸福を察したのか、廊下に出た途端、使用人たちの視線が一斉に集まった。
「……あの、聖女さま?」
「今朝は、随分雰囲気が……」
「な、なんのことでしょう!」
ミアは顔を赤らめながら、ぱん、と手を打つ。
「ほら! 今日も一生懸命働きましょう!」
あまりに不自然な明るさに、使用人たちは顔を見合わせ、そして生温かい笑みを浮かべた。
「……かしこまりました」
恥ずかしさで胸がいっぱいになりながらも、ミアの心は軽やかだった。
(色々あったけど……私、この国も、聖女という仕事も、大好き)
ふと視線を上げると、少し離れた場所でテオドールと目が合う。彼は優しく微笑み、何も言わずに頷いた。
(彼が、それに気付かせてくれた)
ミアは微笑み返し、今日もまた、新しい一日へと歩き出す。
愛する国と、愛する人のために。




