あなたが
パン、と乾いた音が小屋の外に響いた。
ミアはびくりと肩を震わせ、思わず顔を上げる。さっきから外が騒がしい。怒号や足音が入り混じり、ただならぬ気配が漂っていた。
「誰かが、ミアを奪いに来たみたいだな」
背後で、ルークが余裕の笑みを浮かべて言う。
その表情に、ミアの胸がざわりと嫌な予感に満たされた。
「ミアが脱獄した時、やたら強い奴が一人いたからな」
ルークは楽しげに続ける。
「だから、こちらも対策した。……海外から輸入した銃を、見張りに持たせたんだ」
(テオ……)
なぜか、テオドールの顔が脳裏に浮かぶ。
自分がここにいることを、彼が知っているはずがない。
それなのに、胸の奥で彼が外にいると告げる声が消えなかった。
「あれから、随分静かだな」
ルークは、にやにやと笑っている。
「どうして……そこまで……!」
ミアは耐えきれず声を上げた。
「テオは……この国の人たちは関係ないでしょう!!」
感情をぶつけるミアに、今度はアンヌが一歩前に出る。
「ミアは、何もわかってない」
その声は荒く、鋭かった。
「あんたの力は唯一無二だったのよ。何が何でも帰ってきてくれないと、ヴィエール王国は本当に終わるの」
アンヌは、憎しみを込めた視線でミアを睨みつける。
「全部、あんたのせいよ! あんたが勝手にコール王国に行ったから、この国の人たちを巻き込んでるの!」
アンヌの言っていることは滅茶苦茶なのに、彼女の勢いに圧倒されて、ミアは言葉が出ない。それを良いことに、アンヌは続ける。
「ミアが私たちの頼みを拒まず、大人しく帰れば良かったのよ! そしたら、あんたを助けにきた人が……死ぬこともなかった」
ミアの血の気がさっと引いた。テオドールに銃弾が当たる瞬間が脳裏に浮かんできて、身体が震える。
(お願い……無事でいて……)
祈るように心の中で呟いた、その瞬間だった。
ギギギ……と、不気味な音を立てて小屋の扉が軋み――次の瞬間、勢いよく外れて床に倒れた。
舞い上がる埃の向こう。
入口に立っていたのは――。
「テオ!!」
ミアは、思わず叫んでいた。
そこにいたのは、無傷のテオドールだった。息一つ乱していない、いつもの、頼もしい姿。
「ミア。助けに来た」
その一言に、ミアの全身から力が抜ける。
ルークとアンヌは、信じられないものを見るように目を見開いていた。
「な……なぜだ……」
ルークの声が震える。
「いくら強くても……銃を向けられたら、勝てるはずが……」
「銃声の後、静かになったわよね?」
アンヌも幽霊を見たような顔で、テオドールを凝視している。
テオドールは、あっさりと言った。
「銃弾なら、ギリギリで避けた。見張りの兵は、その直後に全員倒した」
「……音もなく!?」
呆然とするルークを無視し、テオドールはミアへ駆け寄ろうとする。はっとしたアンヌが叫んだ。
「ミアは渡さない!」
魔法を放とうとするが――何も起きない。
アンヌは青ざめる。
「あれ……? なんで……!?」
この小屋の中では魔法が使えないことを、完全に失念していたのだ。テオドールは一瞬で間合いを詰め、アンヌを床に組み伏せた。
「離してよ……! やめて!!」
アンヌは抵抗するが、身体の大きなテオドール相手では、全く意味がない。完全に動きを封じられたアンヌは、絶望した表情で項垂れた。テオドールは手早くアンヌを拘束する。
しかし、その隙にルークがミアの背後へ回り、ナイフを突きつけた。一瞬の出来事だった。
「動くな!」
ルークは叫ぶ。
「ミアが傷ついてもいいのか!? 近付くな!」
ミアを傷つけられる恐怖に、テオドールは動きを止めた。
(このままだと、ミアが……)
無理やり突進して、ミアを救出するか。でも、それだとミアが怪我をするかもしれない。テオドールの思考はぐるぐる回転し続ける。叫び出したい気分だった。
「ルーク殿下」
その時、ミアが突然ルークに呼びかけた。ルークは血走った目で答える。
「何だ」
「私、ヴィエール王国に帰ります」
ミアの言葉に、ルークは笑い出す。彼のけたたましい笑い声が、小屋の中に木霊した。
「そうか! ようやく賢い判断をする気になったか!」
馬鹿にしたように笑うルークに、ミアは微かに笑みを浮かべた。その笑みがどこか悲しそうに見えて、テオドールは必死に叫ぶ。
「ダメだ! ミア!」
その瞬間、テオドールはミアと目が合った。そして、ミアは声を出さず、小さく口を動かした。
(何か、伝えようとしている?)
テオドールはミアの口元に注意を向ける。
だ・い・じょ・う・ぶ
ミアの口は、そう告げていた。テオドールが頷くと、ミアの空色の瞳が、きらりと輝いた気がした。
ルークはナイフを突きつけたまま、ミアを連れて小屋の外へ出る。
「ミアは――ヴィエール王国のものだ!!」
その叫びと同時だった。
ルークの体が、ふわりと宙に浮いたかと思うと――次の瞬間、小屋の中へ叩き落とされた。
魔法が封じられているのは、小屋の中だけ。
外に出たミアが、精霊魔法を使ったのだ。
「テオ! お願い!」
「任せろ!」
テオドールは即座にルークを拘束し、アンヌの隣に座らせる。
二人は、あっけなく捕らえられた。
「離せ! 何をする! 僕は王子だぞ!」
「そうよ! 私たちにこんなことして、許されると思ってるの!?」
なおも騒ぐ二人に、テオドールはきっぱりと言い放つ。
「ミアは、道具じゃない。お前らの都合で、彼女の自由を奪うことは許さない」
テオドールが睨みつけると、二人は顔の色を無くした。何とも情けない姿だ。
「……あんたのせいで、私の人生、終わりよ!!」
八つ当たりするように、アンヌはミアに言う。アンヌの瞳には強い憎悪の念が籠っていた。
「ミアは努力を知らないから……私の気持ちなんて、わからないのよ……!」
泣き叫ぶアンヌに、ミアは静かに言い返す。
「アンヌの気持ちは、わからない。聖女になるために努力したわけでもない」
ミアは真っすぐアンヌを見る。その瞳には、一切の揺らぎもなかった。
「でも、聖女であり続けるためには、努力が必要よ。それがわかるようになるまでは……何事も、本物にはなれないでしょうね」
アンヌは、絶望した顔をしてしばらく固まっていた。そして、程なくして声を上げて泣き崩れた。痛々しい姿だった。
やがて駆けつけた兵士たちに、ルークとアンヌは連行されていく。
ルークは最後までミアに暴言を吐き、アンヌは心を失ったように呆然としていた。
その姿が見えなくなった時、ミアはようやく大きく息を吐いた。気が抜けた瞬間、涙がぼろぼろと零れる。ずっと、怖かったのだ、とやっとミアは自覚した。
「ミア」
テオドールは駆け寄り、ミアをそっと抱きしめる。彼の大きな胸に顔を埋めて、ミアはしばらく泣いた。感情がぐちゃぐちゃだったのだ。テオドールは、ミアが落ち着くまで、静かに抱きしめていた。
「ありがとう、テオ」
少し落ち着き、ミアが顔を上げると、テオドールは嬉しそうに微笑んだ。
「これで……あの時の恩返しができた」
「……え?」
〝あの時〟という言葉の意味がさっぱりわからない。きょとんと首を傾げるミアに、テオドールは苦笑する。
「覚えてないかもしれない。でも俺たちは、昔、会っているんだ」
そう前置きして、彼は語り始めた。五年前の、あの夜のことを。
*****
深い森の中、テオドールは地面に一人、横たわっていた。ヴィエール王国の国境付近での魔獣討伐。その途中で仲間たちとはぐれ、魔獣に負わされた傷は致命的だった。
(僕はここで死ぬのか)
テオドールは空を見つめていた。黒曜石のような滑らかな闇に、無数の星が青白く瞬いている。十五年という短すぎる人生の最期に見るには、あまりにも美しい光景だった。
全身の傷口から血が流れ出ているのがわかる。身近な人を守ろうと剣を取ったはずなのに、その結果がこれだ。自分の弱さが、ただ情けなかった。
次第に身体が冷えていく。意識が遠のき、テオドールは静かに瞼を閉じた。
――その時だった。
「大丈夫……?」
囁くような声が耳に届き、テオドールは再び目を開ける。視界に入ったのは、背中まで伸びた真っ直ぐな銀髪の少女だった。空色の瞳を輝かせ、夜の森にありながら、その存在だけが浮き上がるように神秘的に見えた。
(天使がお迎えに来たんだな)
彼女は何かをぶつぶつと呟きながら、テオドールに手をかざす。次の瞬間、少女の手の周囲が淡く光り始めた。光は徐々に強まり、それに合わせるように、全身を苛んでいた痛みが和らいでいく。
何が起きているのか理解できないまま、テオドールはただ、その光に身を委ねていた。
しばらくして、少女は手を下ろし、穏やかな笑みを浮かべる。
「もう大丈夫よ」
そう言って、彼女はテオドールの手をそっと握った。その手は、夜の森の中とは思えないほど温かかった。
しばし、二人は見つめ合った。淡い月明かりに照らされ、少女の瞳は、まるで満天の星を閉じ込めたかのように美しく輝いていた。
――あの日、テオドールを助けたのが、ミアだった。
*****
その話を聞かされた瞬間、ミアは目を大きく見開いた。胸の奥が、どくんと強く脈打つ。五年前、森の中で出会った、あの瀕死の少年の姿が、ぼんやりと蘇ってきた。
「あの時の……! わかりませんでした」
思わずそう声を上げ、ミアは改めてテオドールの姿をまじまじと見つめる。広い肩幅、厚みのある胸板、逞しく伸びた四肢。記憶の中にある、あどけなさの残る少年とは、あまりにも違っていた。
「だって……あまりにもサイズが違うから……。あの時はもっと、華奢だったような……」
口を開けたまま呆然とするミアの様子に、テオドールは吹き出すように笑った。
「そんなに面影がないのか。まぁ、あれからかなり鍛えたからな」
しかし、すぐにその表情は引き締まる。冗談めかした空気が消え、真剣な眼差しでミアを見据えた。
「あなたに助けられた時、俺は自分の未熟さを知った。厳しい環境のこの国で生きていくには、もっと強くならなければいけない。そうしないと、大切な人たちを守れないと思ったんだ。あの日から、俺は強くなるために必死で鍛錬した」
真っすぐに向けられた視線から、揺るぎない決意が伝わってくる。
「今の俺があるのは、ミアのおかげだ」
その言葉に、ミアは胸の奥が温かくなるのを感じ、自然と微笑みを浮かべていた。
「……実はあの日、私は国から……聖女から逃げようとしていたんです」
そう告白すると、テオドールは何も言わず、ただ静かに耳を傾ける。
五年前。精霊に選ばれ、聖女となったばかりのミアは、戸惑いの中にいた。平凡な日々を生きてきた自分が、突然、特別な力を持つ存在として役割を与えられる。その現実に、心が追いつかなかったのだ。
聖女としての務めを果たしながらも、向けられる敬意や期待に、どうしても慣れることができない。理想の聖女であれと求められ続ける日々は、次第にミアの心をすり減らしていった。
そして、ある日。ミアは限界を迎える。
――もう無理だ。
そう思ったミアは、誰にも告げず、国を抜け出すことを決意した。誰も自分を知らない土地で、平凡な人生をやり直そうと。
精霊魔法を使って国境を越え、何の計画もないまま歩き続けたその道中で、ミアは倒れている一人の少年を見つけた。血に染まり、今にも命が消えそうな少年――テオドールだった。
慌てて治療を施し、安堵の息をついたその時、少年は弱々しくも穏やかな声で言った。
「君の力は素晴らしいな。僕にはそんなことできないから羨ましい。きっと、君が皆を幸せにできるように、神様が授けてくれた力なんだろうね」
ミアは、その言葉を今でも鮮明に覚えている。
「その言葉を聞いて、私ははっとしたんです」
現在へと意識を戻し、ミアは続ける。
「私にしかできないことで誰かを救えるのなら、頑張ってみよう。そう思えました。もやもやがすっと晴れていく気がしたんです。そのおかげで国に戻って、やりがいを感じながら聖女として働けました」
そう語り終え、ミアはテオドールを見つめ、はっきりと感謝を口にした。
「テオ。あなたが私を聖女にしてくれたの」
視線が絡み合い、互いの想いを確かめるように、二人は静かに距離を縮める。
そして――。
そっと唇が重なった。
五年前の森で交わされた言葉が、巡り巡って今、二人を結びつけている。その奇跡を噛みしめるように、二人はしばらく、離れずにいた。




