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第三章

第三章 黒船来航、そして長崎へ


嘉永6年(1853)、浦賀。

夏の空を裂くように黒煙が立ち上り、海を震わせて四隻の蒸気船が進み出た。

鉄の巨体が押し寄せるたびに波が逆巻き、岸辺の小舟は次々に揺さぶられる。

轟く汽笛は遠くの寺の鐘をかき消し、潮風には硫黄と煤の匂いが混じった。


「空を焦がす火の煙だ!」

「砲を撃てば江戸が焼ける!」


人々は声をひそめ、町には瓦版が飛び交った。

泰平の世が続く日本に、突如として“外の力”が押し寄せた瞬間だった。



林復斎の交渉――沈黙と時間


幕府は儒学の最高職・大学頭、林復斎を総裁に任じ、黒船の将マシュー・ペリーと対面させた。

砲口を背にした会見は、文字通り一触即発。


Perry: We are here by order of the President of the United States.

(我々はアメリカ合衆国大統領の命によりここへ来た)


Perry: We shall deliver his letter to your sovereign — at once.

(我々は直ちに国書を君主に渡すつもりだ)


Perry: Refuse, and our guns will speak.

(拒めば、この大砲が語ることになる)


復斎は静かに応じる。

「ここは日本国の地。国法には礼と順序がある。浦賀奉行を通じて文を渡すのが道理だ」


Perry: Time is short. We will not go to Nagasaki. Answer now.

(時は限られている。我々は長崎には行かぬ。今すぐ答えよ)


ここで復斎は、あえて沈黙を置いた。

波音と汽笛だけが響く中、通詞が慎重に訳す間に、交渉の場は緊張を極める。

その間こそが“稼ぎ”だった。



「大政の決は軽々には定められぬ。評議の時を要す」


Perry: Very well. We shall return for your answer.

(よかろう。我々は返答を受け取りに戻る)


こうして日本は、ただ屈したのではなかった。

復斎は沈黙と礼を盾にして、時間という最大の武器を引き出したのである。

沿岸防備、諸藩の海防、そして西洋情報の収集――数か月の猶予が、日本の行方を決めた。



江戸の動揺と幕府の決断


黒船が去ったのち、江戸は揺れていた。

町人は口々に不安を語り、藩士たちは「攘夷か開国か」を論じ、朝廷からも問責が飛んだ。

評議を重ねた幕府はついに決断する。


「海軍の術を学ばねば、この国は守れぬ」


安政2年(1855)、長崎に海軍伝習所を設立。蘭人教官を招き、西洋の航海術と砲術を直に学ばせる。

その名簿に――勝麟太郎の名があった。



出立前夜


父・小吉は将棋盤を前に息子を見据えた。

「いよいよ長崎か。江戸の川ばかりじゃ飽き足らんって顔だな」

「はい。海を学ばなければ、この国は守れません」

「偉ぇことを言いやがる。だがまあ、おめぇなら腹も据わるだろう」


懐から小さな包みを差し出す。錆びた小刀と一枚の古銭。

「刀は折れても心は折るな。銭は失っても命は捨てるな。運の種だ」


母・民は旅立ちの朝、そっと背に手を当てた。

「遠い長崎だけれど、心配はしてないよ。

 麟、あなたはきっと帰ってくる。江戸の空はどこへ行ってもつながっているから」

「はい。必ず戻ります」


潮風が吹き抜け、出立の舟の帆がはためいた。

――「行ったやつにしか分からん」

幼き日の言葉が胸で再び鳴り響いた。



長崎海軍伝習所


安政2年(1855)。出島近くに設けられた白壁の敷地に、西洋の器具が並んだ。

羅針盤、六分儀、測量器、砲の模型。若者たちの目は釘付けになった。


授業は苛烈。オランダ語の命令、潮流計算、砲弾重量の算術。失敗すれば容赦のない叱責が飛ぶ。


「リン、また発音が違う!舌を巻くな!」

「……はいっ!」


だがその厳しさの奥に、世界のやり方がむき出しにあった。


薩摩、佐賀、越前――諸藩の若者と肩を並べ、時に競い、時に助け合う。

嵐の海で帆を張り替えたとき、藩を越えた友情が芽生えていった。


夜更け、麟太郎は港の灯を見つめ、心に刻む。

「海を知ることが、この国を守ることにつながる」

その思いは、少年の夢から青年の決意へと変わっていった。



《豆知識:林復斎》

•本名:林 はやし・あきら。林家第10代。

•称号:大学頭だいがくのかみ。幕府儒学の最高職で昌平坂学問所を統括。儀礼・外交交渉にも動員された。

•号「復斎」:「復」は“ふたたび学ぶ”“正道に立ち返る”、「斎」は“学び舎・身を清める場”。学問を根に外交を担う姿勢を示す。


《豆知識:時間稼ぎの狙い》

•軍事:沿岸砲台の整備、諸藩の海防準備。

•情報:長崎経由で西洋の条約事例・軍事知識を収集。

•政治:朝廷・諸藩を巻き込み、幕府単独で即断させない仕組みを演出。

――この猶予が、長崎海軍伝習所の創設へ直結し、日本の近代海軍を育てる基盤となった。


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