第二章
第二章 川から海へ、そして学びへ
夏の夕暮れ、川べりに腰を下ろした麟太郎は、舟大工が梁を削る音に耳を澄ませていた。
木の香り、刃の響き。少年の目は輝きを帯びる。
「おじさん、この舟はどこまで行けるの?」
大工は手を止め、汗をぬぐった。
「川の舟は江戸の中までだな。海に出るには、もっと大きな帆がいる」
「海の向こうには、何があるんですか?」
「さあな。行ったやつにしか分からん」
その答えに、麟太郎の胸は高鳴った。
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ある日、長屋の子らと石投げをしていたとき。
川を行き交う荷舟を見上げて言った。
「いつかあの舟で、海に出てみたい」
「ばか言え、そんなの武士の子がすることじゃねぇ」
冷やかす友の声に、麟太郎は言い返した。
「武士だからこそ、知っておかなくちゃならねぇんだ」
子らは笑ったが、その瞳の真剣さに、誰も次の言葉を出せなかった。
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夕刻。帰宅した麟太郎に父・小吉が声をかける。
「今日も川で遊んできたか」
「遊びじゃありません。舟を見てたんです」
「舟なんざ町人の稼業だ。武士は陸で刀を振ればいい」
「でも、海の向こうを知らなきゃ、日本は守れないと思います」
一瞬、父の目が鋭く光った。
だが次の瞬間、ふっと笑い、将棋の駒を置いた。
「……面白ぇことを言うじゃねぇか。まあ、好きに見てこい」
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夜、母は子を寝かしつけながら囁いた。
「海を知りたいのはいいこと。でも忘れないで。どこに行っても、ここに帰っておいで」
「はい。いつか海の話を母上にしてあげます」
小さな夢と、母の優しい手。
少年の胸に“海”という言葉が、確かな未来の灯となって燃え始めていた。
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師との出会い
嘉永年間。江戸の空気は黒船の噂でざわつき始めていた。
そんな頃、麟太郎は父の知人の紹介で砲術家・坪井信道の門を叩く。
「リン、舌の先をこう……そうだ、巻くな。オランダ人に笑われるぞ」
「笑われるのは嫌です」
「笑われるだけなら構わん。だが侮られるのは命取りだ」
師は温厚だが、蘭語の発音ひとつに何度もやり直しを命じた。
大砲の仕組み、潮の流れ、異国の言葉――。
少年の目は次々と新しい世界を吸い込んでいった。
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家に戻れば、父は盤上の駒を動かしながら言った。
「海のことを学んでるそうじゃねぇか。まあ、好きにやってみろ」
その横で母がそっと微笑む。
「どれほど遠くへ行っても、ここに帰っておいで」
少年の背は少しずつ伸び、眼差しには“海の未来”が映り始めていた。
江戸の雑踏で生まれた子は、いまや“海の男”への第一歩を踏み出そうとしていた。
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《豆知識:江戸の舟運》
江戸は「水の都」と呼ばれ、物流の大半が舟で行われた。
川や堀は都市を縦横に結び、魚・米・材木などが日夜運ばれていた。
舟大工の技術は高度で、下町では日常的に「舟作りの音」が響いていたという。
《豆知識:坪井信道》
幕末期に活躍した砲術家。オランダ流砲術を広め、多くの若者に蘭学と実学を教えた。
勝麟太郎も彼のもとで学び、蘭語の発音や砲術の基礎を叩き込まれた。
《豆知識:嘉永年間》
嘉永(1848〜1854)は黒船来航を含む激動の時代。
江戸庶民の間でも異国船の噂が広がり、武士も町人も心をざわつかせていた。