第一章
第一章 江戸・本所に生まれる
文政6年(1823)、江戸・本所。
湿った川風が川霧を押し流し、裏通りの長屋から産声が響いた。
――のちに「海舟」と呼ばれる勝麟太郎の誕生である。
当時の日本は二百年余の泰平に浸りつつも、海の向こうから黒々とした影が迫りつつあった。
アヘン戦争の余波が長崎に伝わり、江戸でも瓦版が密かに書き立てていた。
米相場に一喜一憂する町人の喧噪の裏で、誰もが漠然とした不安を抱いていた。
江戸は人口百万を超え、世界でも屈指の大都市。将軍の城下と庶民の生活圏が重なり合う活気に満ちていた。
だが勝家は旗本でありながら、暮らしは決して楽ではなかった。
父・勝小吉は旗本の家筋に生まれたが、素行の悪さから早々に隠居を命じられた。
剣の腕も口も立つが、酒と博打にのめり込み、町人や侠客とも平気で交わる。
母・民は柔らかな笑みの奥に芯を秘め、夫の豪快さすら笑いに変えてしまう女であった。
「武家の身分を持ちながら長屋暮らし」――その落差こそが、麟太郎の原点だった。
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幼き日の性格(4〜6歳)
麟太郎は泣き虫で転びやすいが、負けん気は人一倍。
膝を擦りむいても歯を食いしばって立ち上がる。
好奇心旺盛で、川を行き交う小舟や大工の槌音に耳を澄ませ、目を輝かせた。
ある日、母が川辺で洗濯をしていると、舟大工の槌音に誘われた麟太郎が尋ねた。
「母上、あの舟、海まで行けるのかな?」
「川舟は海には出られないよ。でも、海の向こうへ行く舟もきっとあるんだろうね」
母の何気ない言葉が、幼い胸に“広い世界”への憧れを刻みつけた。
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父の荒療治(7歳前後)
ある寒い朝、小吉は酒の匂いを漂わせながら、麟太郎を裏庭へ連れ出した。
冷たい竹刀を握らせて言い放つ。
「泣き言は無用だ。武士に生まれたからにゃ、敵が来りゃまず前に出るんだ」
「でも父上、ぼくはまだ……」
「まだぁ?ばか言え、やるかやられるかだ!」
小さな手が震えたが、父の眼差しは鋼のようだった。
その瞬間、幼い心に“武士の道”という種がまかれた。
稽古を終えて家に戻ると、母・民が湯気の立つ粥を用意して待っていた。
額に手を当てて熱を確かめ、冷えた手をさすって温めながら言う。
「まあまあ、小さな体に無理をさせて。父さんはいつも威勢ばかりいいんだから」
母の笑いと温もりに、張りつめた心がほどけた。
その夜、小吉は将棋盤を挟んで息子と向き合った。
「今日はよく立ったな。次は逃げ足も覚えろ。勝負は勝つばかりじゃねぇ、負けを知るのも器量だ」
「負けてもいいんですか?」
「負けを知らねぇ奴は、勝ちも知らねぇんだ」
盤の駒を打ち鳴らす音が、少年の胸に深く刻まれた。
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下町の遊び
夕暮れ、仲間と泥だらけになって駆け回る。
魚売りの声、蕎麦屋台の湯気、川を渡る小舟のきしむ音。
そんな雑踏の中で、麟太郎は庶民とともに育った。
父は言った。
「町人と遊ぶのは構わん。だが武士の誇りを忘れるな。守る側に立つんだ」
その言葉は、のちに海舟の行動原理となっていく。
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章の結び
――泰平の雑踏に育まれながら、武士の誇りと下町の匂いを同時に抱いた少年。
やがてこの江戸の町を、戦火から守る日が来ることを、誰も夢想してはいなかった。
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《豆知識:江戸の状況》
文政年間の江戸は人口100万を超え、当時の世界でも屈指の大都市だった。
江戸を中心とする日本は、識字率や和算など学問的水準においても群を抜き、「大国」と呼ぶにふさわしい力を備えていた。
川舟が絶えず荷を運び、町人文化が花開く一方で、鎖国の隙間から西洋の情報が長崎経由で流入していた。アヘン戦争の記録や舶来品は知識人の目に触れ、やがて黒船来航の予兆を形づくっていく。
《豆知識:勝小吉》
旗本・男谷家の婿養子となるも素行不良で隠居。
侠客や浪人とも交わり、江戸の裏事情に通じていた。
その奔放さは麟太郎にとって誇りでもあり、恥でもあった。