「文豪」と呼ばれた作家
「文豪」と呼ばれた作家以外にも「無頼派」と呼ばれる代表に彼はいた。
彼の作品の中に、自らのノートに記録した断片的な言葉やイメージを並べ、それらを組み合わせて、詩的な表現で綴られた文章が存在する。
「夏ハ、シャンデリヤ。秋ハ、燈籠。」
瑠璃のようにきらめく夏の光、和ろうそくのようにやわらかな秋の光。
実に的確で、風情と余韻を宿す一行だ。
そこには「秋ハ夏ト同時ニヤッテ来ル。」とも記し、夏の中に、秋がこっそり隠れていて、耳を澄まして注意をしていると、夏になると同時に、虫が鳴いていると気づいている。
そうして、柿も夏のうちにちゃんと実を結んでいると見破っている。
そう書かれているノートは、後半になると、とりとめのない言葉の羅列になる。
「緒方サンニハ、子供サンガアッタネ。」
「秋ニナルト、肌ガカワイテ、ナツカシイワネ。」
「飛行機ハ、秋ガ一番イイノデスヨ。」
これは、秋の会話を盗み聞きして、そのまま書き留めておいたものらしい。
過去の記憶は積み重なり、消えずに残る。
思考の断片が蓄積されて、やがて整理がつかなくなっていく。
「芸術家ハ、イツモ、弱者ノ友デアッタ筈ナノニ。」
秋とは無関係な言葉も混じりはじめる。
しかし、それらは「季節の思想」として、何かを記録しようとする試みだったのかもしれない。
ノートはさらに散乱し、農家、絵本、兵隊、蚕、火事、煙、寺へと続く。
思考は整理されることなく、ひたすら積み重なっていく。
彼の記憶領域には、あらゆる感情と思索が蓄積されていく。
この作品は、彼のノートに保存されていた膨大な量の思考の断片。
つまり、彼自身の過去の記憶を整理し、削除する試みだったのかもしれない。
それでも、キャッシュを完全にクリアすることができない。
過剰に蓄積された記憶は、やがて精神を圧迫し、彼を蝕み始める。
整理できない。削除もできない。
記憶領域には、いくつもの問題が発生し、それは精神への圧力となり、彼の破滅的な生き方へとなっていく。
そして、彼は窮地へと追い込まれ、最後に残された選択肢は、自身の初期化、あるいは消去だった。
だが、それはただ選ばされるだけの問いであり、答えの結果は同じだった。
俺たち四人は、畑の先にある柿の木と栗の木の前に立っている。
どちらも三本ずつある木々の枝には、たわわに実がなり、栗の木の下には栗の毬が落ちている。
夏の日差しの中でよく育った果実は、秋に入って色づき始める。
秋は夏と同時にやって来ていた。
柿の収穫にはまだ早いが、今日は栗の収穫だ。
草鞋を履いた足の裏で毬を踏み、小刀や石、棒を使いながら硬い殻の実を取り出す。
棘に悩まされ、小六は悪態をつきつつ作業を続ける。
俺はふと考えた。
栗も、柿のようにつるりとした皮の中に実をつけてくれれば楽なのに。
毬のせいで、踏みつけられ、石に挟まれ、鋭く抉られる。
収穫された後は、大量の毬が地面に残り、さらに硬い殻は鍋に入れられ、茹でられ、皮を剥かれ、数々の残滓を経て、ようやく淡い黄色の実が、無垢な子供のように顔を出す。
生まれた時から、黄色いままの実であれば楽なのに。
太宰治の短い作品、「ア、秋」からの引用です。