智に働けば角が立つ
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」
その「小さな声」は、新興住宅地の一角で始まった。
最初は、誰かの何気ない一言だったのだろう。
それが、新興住宅地という価値観や関心の似通った人々が集まる場所では、一気に広まっていった。
やがて、多数派の意見が正しいとされ、異論を挟む余地がどんどん狭まっていく。
そして、その意見はいつしか彼らの常識となった。
同じような考えが繰り返し共有されることで統一された見解が生まれ、その勢いはさらに増し、ついには溢れ出すほどになった。
「車や洗濯物に蜂の糞が落ちて汚れるので困っている…」
「虫が怖くて、外に出られないことがある…」
「子供が蜂に刺されたらどうしようと心配です」
こうした声が次郎さんのところへ役所を通して届くようになった。
さらには、警察官がやってきて、「子供が虫に刺されたから、何とかしてほしい」との苦情を届けにきた。
もちろん、警察官も蜂が原因ではないことは分かっていたが「一応、苦情なので」と伝えると、次郎さんの感情は一気に爆発した。
「あの土地は、もともとわしの畑だぞ!なぜ、後から来た人間に文句を言われなければならない。そんな奴らのせいで、レンゲも家畜も追い出されて、しまいには人までも追い出そうとしている。米も野菜も卵も必要なくせに、都合の良いときだけほしくて、あとは知らんじゃ、筋は通らない!」
ここで言う「家畜」とは、次郎さんの家の近くにあった養鶏場のことだ。
鶏舎から漂う臭いが原因で、養鶏場はいつの間にか姿を消していた。
顔を真っ赤にして怒る次郎さんを、警察官は「まあ、まあ」となだめ、早々に立ち去った。
「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう」
ここから、アウトローであり、反逆児でもある次郎さんのしたたかで賢い反撃が始まる。
夏目漱石の「草枕」からの引用です。




