家から少し離れた山中の窪地
家から少し離れた山中の窪地。
そこが、舟を隠しておく場所だった。
もとは小さな水源だったらしく、窪地の底は砂利に覆われている。
その日の早朝、花里は俺のために新しい小袖と袴を持って舟にやって来た。
新しいとはいっても着古しで、今着ているものより少し程度が良いくらいのものだ。
新築を祝うために、あらかじめ用意してくれていたらしい。
竈の灰を使った灰汁で洗ってあるせいか、藍色の小袖には焦げた木の香りがほのかに漂っていた。
花里も縞模様の小袖を着ている。
簡素な縞が入っているだけだが、今日という晴れの日に、ほんの少し花を添えているようだった。
花里の気持ちがどこか華やいでいるように見える。
瞳には、控えめな喜びの色がほのかに浮かんでいた。
短い袖に腕を通し、袴を付ける。
今ではひとりでうまく着付けられるようになっていた。
袖を整え、舟から外へ出る。
朝日は山の隅々にまで行き渡り、森の呼吸には、初秋の息づかいがそっと紛れ込んでいる。
家へ続く山道は落ち葉に覆われていたが、いつしか踏み固められ、細い道になっていた。
家に着くと、真之介も新しい小袖を着け、小六はいつものように、手足の袖口を搾って仕立てた蜂の防護服を着ている。
その柿渋染めの布の防護服は、洗濯を重ねるうちに茶褐色から黒茶色へと変わっていた。
四人で朝食を取る。
いつもはおしゃべりな小六も、今朝ばかりは神妙に口数少なく食べている。
食べ終えると、打ち合わせ通り、門の内側で義浄房さん一行を迎えるために待つ。
時間が淡々と過ぎてゆき、朝の光に影は少しずつ短くなる。
やがて、三人の姿が逆光の中に浮かび上がる。
眩しさに、人影のようにしか見えない。
それでも分かる。
善、新右衛門さん、そしてもう一つの影は義浄房さんに違いない。
三人は門の外で立ち止まった。
白い衣に茶の法衣を重ねた義浄房さん。
手には数珠が握られている。
その後ろには、新右衛門さんと善が控えるように立っている。
善は麻の包みを持っていた。
門の内外で短い挨拶を交わす。
どこか厳かな雰囲気に緊張し、身が引き締まる思いがする。
俺のそばに立つ三人も、畏まった態度で目を伏せている。
静寂の中、季節外れの哀しい蝉の声と、山を渡る風だけが聞こえる。
「然らば」と義浄房さんが一言。
外の穢れを断つため、四方を加持し始める。
野太い声の真言が、東、南、西、北へと順に響き、結界を広げてゆく。
俺たちは黙して控える。
東に唱えれば声は遠く、西に唱えれば門を挟んで俺たちと相対する。
真言は、遠く、近く、そして俺の心の隅々まで行き渡る。
この時代、この地に漂着して、すでに二年の月日が過ぎていた。
真言を唱えるわずかな時間に、その月日が遠く、近くと走馬灯のように浮かんだ。
海に落ちた青い星の閃光。
うつろ舟と善たちとの出会い。
幕府役人の前で覚悟した死。
二年という歳月の重みが軽くなり、ここまで来たという感慨が心を鎮める。
ふと、気が付けば、香の匂いが近くに漂う。
伏せた目を上げる。
義浄房さんたちが門をくぐって、俺たちの前に立っていた。
俺たちは静かに彼らを出迎えている。
小六は胸を張る。
真之介が口を固く結ぶ。
花里がさりげなく目元を拭う。
それぞれに胸の奥に想いをためて。




