円福寺の山門を出ると
円福寺の山門を出ると、波音と潮の匂いの中に、人々の息づかいが立ち上がる。
時の経過が忘れ去られたような境内と、留まることなく行き交う人々の門前町。
俺は振り返り、時を止めたような寺に心を寄せ、改めて手を合わせる。
いつか元の世界に戻れますようにと淡い期待を、少しだけ異なる世界に見える寺に託し、目を閉じて祈った。
願いが叶いますように。
しばらく佇み、目を開くと、隣に立つ善が興味深げに尋ねてきた。
「史郎、何をそんなに真剣に祈っているんだ」
郷愁に囚われているのが何となく恥ずかしくて、本当のことは言えず、「みんなの健やかなこれからを祈っていた」とだけ答えた。
善は頷き、笑顔を浮かべる。
花里も目を細め、同じことを観音像に祈っていたと教えてくれた。
小六は「俺は祈られるほど悪くはないぞ」と、なぜかうそぶいた。
俺はそんな小六に「特におまえのことを祈っておいた」と伝える。
怪訝な顔をする小六。
「小六の悪い性格が早く治りますように」
善と花里は思わず吹き出し、小六は「そこは祈らんでいい!」と三白眼をむき、さらに笑いを誘った。
俺たちは正造さんの所に戻り、味噌を受け取る。
二つの真新しい桶に詰められた味噌は、どちらも十キログラムほどある。
代金を払い、笑顔の正造さんに「円福寺はどうだったか」と尋ねられた。
善が如才なく答えると、正造さんは「それはそうだろう」と鼻を少し膨らませ、お国自慢を始めた。
見かけによらず、彼はおしゃべり好きのようである。
この村は立地に恵まれ、容易に塩も、二毛作で収穫できる大豆も手に入る。
さらに水運にも恵まれ、底平の刳船で遠く内陸まで輸送ができると教えてくれた。
話に感心していると、さらに彼は、ここから東に行けば、源義経が兄の源頼朝と対立して幕府から追われ、その際、愛犬「若丸」をここに置き去りにし、その犬が七日七晩泣き続け、ついには八日目に岩になってしまった犬岩があるのだと語った。
犬岩に続く断崖の荒磯には、白波に洗われる岬があるのだと続けた。
この話に食いついたのは善だった。
観音像にはあまり興味を示さなかったが、犬岩には大いに惹かれた様子で目を輝かせている。
俺たちはいろいろな話をしてくれた正造さんに礼を言い、店を出る。
戸口に立った彼は「また来てください」と笑顔で見送ってくれた。
舟で東に向かい、ほどなく岬に降り立つ。
風も海も強く鳴り、群青の波が荒磯に砕けて白い飛沫を散らしていた。
岬から望んだ犬岩は、ひと目でそれと分かった。
犬が両耳を立てたような大岩があり、その周りには黒い影が動いていた。
目を凝らすと海獣が群れをなしていた。
善が呟く。
「葦鹿か」
波音に抗うように、逞しい鳴き声がかろうじて届く。
俺はオウム返しのように「アシシカ?」
善は父から教わったと語る。
海の葦の中に棲み、鹿のように鳴くから葦鹿だという。
俺はアシシカがアシカに変じたものと理解する。
小六が丸々と太ったアシカを見て、鹿と言うから勘違いしているのか尋ねる。
「美味いのか?」
善は思案顔で「食べて美味いと聞いた話はない」と答える。
それで小六の興味は薄れてしまったようである。
雄の低く太い声、雌や子の甲高い声が入り乱れ、群れ全体がざわめいている。
俺たちはその様子を遠く眺める。
花里が手を合わせ祈り始める。
「末永く幸せに暮らせますように」
俺も彼女の心に寄り添う。
「花里の願いが叶いますように」
大いなる力に屈せぬ彼らの声に、怒涛の海鳴りが空へ響き渡る。