昨日の暗い空に比べれば
昨日の暗い空に比べれば、今日は幾分か明るい。
俺たち四人は、門番の男に見送られて稲田の草庵を後にした。
先に旅立った善信房さん、そしてわずかに滞在しただけの俺たちの出立にも、残される者の寂しさがあるのか、男は名残惜しそうに別れを告げる。
頭を下げて滞在中の礼を述べ、善信房さん一行の轍が残る道を歩き出す。
振り返れば、男は一人、侘しく佇んで手を振っていた。
その気持ちを知ったのか知らずか、小六と花里が元気に手を振り返す。
男の顔に明かりが差す。
今日、家に帰れる。
それだけで小六も花里もどこか浮き立っている。
旅は楽しいが、しばらく離れた家と、帰りを待つ真之介に会えるのは何よりの喜びなのだろう。
二人は、たくさんの土産話で胸を弾ませている。
俺たちは舟に乗った。
まっすぐ帰ることもできたが、俺は海岸線沿いに南下してゆっくり戻ることを選んだ。
九十九里浜を一目見たいと思ったからだ。
トオルと初めてサーフィンをした海岸、それが九十九里浜だった。
俺とトオルは初心者で、少し苦く、しょっぱい思い出が残っている。
おそらく、あの時の砂浜を見つけることはできないだろう。
けれども、心の隅にあるなつかしさに惹かれていた。
舟は東の海岸線を目指して飛んでいく。
眼下には田や畑、小さな集落が点々と見えるが、それ以外は湿地や沼、そして濃い緑に覆われた森に占められていた。
その風景は、俺の知る地図とはまったく異なる世界だった。
やがて海に出ると、白い波が海岸線を縁取るように寄せている。
南下すると、比較的大きな集落が見えてきた。
太平洋に寄り添う浅い、内海のような湖畔、その細い通りの正面に寺が見えた。
小さいながらも、門前町の趣を見せていた。
集落から離れた場所に舟を隠し、空から見た門前町へ向かう。
実際にそこを歩いてみると、ほとんどは粗末な民家の集まりだった。
それぞれの軒先には干し魚、新しい草鞋などの藁細工が吊るされていた。
その民家の一つから、発酵食品の匂いが漂ってくる。
中を窺うと、すぐに味噌の匂いだとわかった。
蓋をした木桶がいくつも並んでいた。
奥には一人の男がいたので声をかけ、味噌が売り物かどうかを尋ねた。
すると、男は村で味噌蔵を持ち、味噌を作り、共同管理をしていると話した。
もちろん売ることも可能だと言う。
俺は土産に買うことに決めたが、買い方がよく分からないので善に任せた。
俺の家の分と清澄寺の分を買うことを善に伝えると、善は片隅の桶を見つけ、「この桶で二杯分ください」と注文した。
その注文の量に戸惑った男に、俺は銭の束を見せた。
すると男は慌てた様子で「味噌蔵から取ってきて準備するので、しばらく時間が欲しい」と笑顔で言った。
俺もうなずいて了承する。
男は自らを正造と名乗り、下総国飯沼郷のこの村で乙名を務めているという。
そして、どう見てもこの辺りの者とは思えない風体の俺たちを見て、通りの先にある円福寺に参詣に来たのかと尋ねてきた。
正造さんが少し誇らしげに寺を語るので、俺は「そうです」と話を合わせるように答えた。
すると彼は、自信に満ちた口ぶりで自慢げに寺の話をしてくれた。
身振り手振りを交え、夢中で語る。
手を振るたびに、染みついた土の匂いと味噌の香りがほのかに混じり合う。