表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
169/173

尖塔の背景にある上弦の月

 尖塔の背景にある上弦の月は、紫雲に隠れる。


 月光は揺らぎながら、力を失っていく。


 紫雲はやがて黒雲へと変じていく。


 いつしか、空にたなびく数千もの銀糸は光を失い、儚く消えゆき、善信房さんが辛うじて片手で握る糸も、露ほどに溶けて、無常に消えていく。


 一糸は、まさに一糸に在らず。


 天に伸ばした善信房さんの唯一の手にも、幾重もの人の手が群がり、その身は尖塔に呑まれていった。


 最後まで天に向け、固く握りしめられた拳には、何が握られていたのだろうか。


 俺は震える心で、何を残してあげられたのだろうか。


 何も持たぬ俺に、果たして何ができたというのだろうか。


 天に月なく、雲もなく、夜が広がる。


 上弦の月はいつしか、下弦の月として地に顕れる。


 それは夜よりも深き闇として、ゆっくりと黒き半身を開いていく。


 それは、釜の蓋をずらしながら開いていくように。


 覗き込めば、闇より深き闇の、黒洞々たる世界。


 熱なく、寒なく、阿鼻叫喚もなく。


 

 ただ、無間。



 長く深く沈み、そして俺は夢から覚めた。


 暗闇の中、わずかに入る月明かりに五感は澄まされる。


 見上げる天井には、昼間見た蜘蛛の気配は消えていた。


 そばでは、小六と花里が安らかに寝息を揃えている。


 俺の寝心地の悪さが、優しく背を撫でられるように救われる。


 ふと善の姿を探すが、隣で寝ていたはずなのにいない。


 俺は導かれるように床を離れて外に出る。


 そこには、空を見上げる善が立っていた。


 半月からの光に照らされて、その姿は淡く縁取られている。


 俺は美しき静寂に触れて崩れることにためらい、何も語らず立ち尽くす。


 月を覆う雲が流れ、俺に気づいた善が、夜を目覚めさせぬように小声で話す。


 「眠れないのか、史郎」


 俺はその問いかけに、「夢を見ていたんだ」とだけ答え、俺もまた空を見上げた。


 雲間に見え隠れする半分の月を眺めながら、善が俺に問いかける。


 「史郎、人はいつしか月に行けるのか」と。


 そう言って、善は俺に光を宿した目を向ける。


 俺は暗がりの中で、強く頷いた。


 再び善は月を見上げ、「それは善信房さんが望むような月であればいいな」と、独り言のように呟いた。


 永き旅路の果てに辿り着く場所。


 彼は曰く、「念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。」


 彼の残した記述はそれほど多くはなく、善との語らいは夢の如く消えていく。


 善もまた、彼との一夜について何も記さなかった。


 夜は戸惑いながらも更けていく。


 月もまた雲に迷い、戸惑う。


 

 そして彼が一人の宗祖にして聖人と称えられた善信房親鸞とは、俺は何も知らない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ