尖塔の背景にある上弦の月
尖塔の背景にある上弦の月は、紫雲に隠れる。
月光は揺らぎながら、力を失っていく。
紫雲はやがて黒雲へと変じていく。
いつしか、空にたなびく数千もの銀糸は光を失い、儚く消えゆき、善信房さんが辛うじて片手で握る糸も、露ほどに溶けて、無常に消えていく。
一糸は、まさに一糸に在らず。
天に伸ばした善信房さんの唯一の手にも、幾重もの人の手が群がり、その身は尖塔に呑まれていった。
最後まで天に向け、固く握りしめられた拳には、何が握られていたのだろうか。
俺は震える心で、何を残してあげられたのだろうか。
何も持たぬ俺に、果たして何ができたというのだろうか。
天に月なく、雲もなく、夜が広がる。
上弦の月はいつしか、下弦の月として地に顕れる。
それは夜よりも深き闇として、ゆっくりと黒き半身を開いていく。
それは、釜の蓋をずらしながら開いていくように。
覗き込めば、闇より深き闇の、黒洞々たる世界。
熱なく、寒なく、阿鼻叫喚もなく。
ただ、無間。
長く深く沈み、そして俺は夢から覚めた。
暗闇の中、わずかに入る月明かりに五感は澄まされる。
見上げる天井には、昼間見た蜘蛛の気配は消えていた。
そばでは、小六と花里が安らかに寝息を揃えている。
俺の寝心地の悪さが、優しく背を撫でられるように救われる。
ふと善の姿を探すが、隣で寝ていたはずなのにいない。
俺は導かれるように床を離れて外に出る。
そこには、空を見上げる善が立っていた。
半月からの光に照らされて、その姿は淡く縁取られている。
俺は美しき静寂に触れて崩れることにためらい、何も語らず立ち尽くす。
月を覆う雲が流れ、俺に気づいた善が、夜を目覚めさせぬように小声で話す。
「眠れないのか、史郎」
俺はその問いかけに、「夢を見ていたんだ」とだけ答え、俺もまた空を見上げた。
雲間に見え隠れする半分の月を眺めながら、善が俺に問いかける。
「史郎、人はいつしか月に行けるのか」と。
そう言って、善は俺に光を宿した目を向ける。
俺は暗がりの中で、強く頷いた。
再び善は月を見上げ、「それは善信房さんが望むような月であればいいな」と、独り言のように呟いた。
永き旅路の果てに辿り着く場所。
彼は曰く、「念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。」
彼の残した記述はそれほど多くはなく、善との語らいは夢の如く消えていく。
善もまた、彼との一夜について何も記さなかった。
夜は戸惑いながらも更けていく。
月もまた雲に迷い、戸惑う。
そして彼が一人の宗祖にして聖人と称えられた善信房親鸞とは、俺は何も知らない。