旅の終わり、最後の夜に
旅の終わり、最後の夜に夢を見る。
稲田の草庵にて。
帰郷を翌日に控えたその夜のこと、夢を見た。
そこには善信房さんがいた。
寝ているのか、座しているのか、あるいは立っているのか。
その姿は定まらず、半眼半口のまま。
光の加減ゆえか、喜怒哀楽のいずれとも判然としない。
面差しは、はっきりとせず、ただそこに在る。
俺自身もまた、立っているのか、座しているのか、分からないまま、そこに在る。
ただ、見上げた空に、桃色の縁をまとった紫雲がたなびき、その雲間から、半月が笠をかぶるように姿を顕し、淡い光で周囲を照らしていた。
善信房さんに声を掛けようとするが、声にはならない。
善信房さんには、俺の存在はないようだ。
月明かりの一条が差し、俺の影が浮かび上がる。
その影を見て、俺はようやく、自分が立っていることに気づいた。
善信房さんは、半眼のまま夜空を見つめている。
やがて、その月夜に、おもむろに両手を伸ばした。
その先には、光を受けて銀色の細糸が揺れていた。
空から垂れたその糸は、わずかな風に揺られながら、時折、七色の光を乱反射していた。
それは一本ではなく、数十、数百、数千。
風にたなびきながら、空を梳き流れていく。
善信房さんはその一糸を握ると、紫雲に隠れた半月へ向かって、ゆるやかに登り始めた。
その表情には、法悦の光が満ちていた。
月の一点を見つめながら、糸をたぐり、登っていく。
いつの間にか、俺は善信房さんの握る、危うげな細い糸の無事を祈っていた。
そうしていると、善信房さんがたぐる糸に、人々が集まりはじめる。
善信房さんの後を追いかけ、細い糸に蟻が隊列をなすように、続いて昇っていく。
そこには、善信房さんに付いて京に行けなかった男、文字の読めない門番の男もいた。
確実に、ゆっくりと糸をたぐる善信房さんに、人々は追いつき、停滞する。
すると、少しでも善信房さんのそばにすがろうと、隊列の後方にいた者が、前を登る者の足をつかみ、身を絡めるように抱きついて、その先へ出ようとする。
その諍いは次々と糸を通して波及し、善信房さんの後ろを登っていた男が、負けじと善信房さんの片足にしがみつく。
さらに後ろから来た男も顔を歪めて、善信房さんのもう一つの足にしがみつき、離れまいとする。
善信房さんは、それでも気づかないように糸の先を見つめているが、手が動かなくなる。
後から続く者は、足から胴へと抱きつき、しまいには、善信房さんの手まで掴むようになる。
俺は無力であり、哀しみに沈む。
花里の心の在りようが、唯一俺の在りようを救う。
心の置き所に自我を保つ。
俺は語らず、花里は施し、善信房は登る。
いつしか、それは人でできた尖塔のようになり、危うい均衡に揺れている。
月の光が揺らぎ始める。