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善信房さんは、濡れた頬を

 善信房さんは、濡れた頬を、広間を渡る風になぶらせながら、遠い空と、過ぎし日の届かぬ日々の思いを、風に乗せるように眺めていた。


 そして俺たちに、あるいは幼き日の自分に語り聞かせるように、ゆるやかに言葉を紡ぎはじめた。


 「今の私が、こうして在ることを許されておりますのは、慈鎮和尚、すなわち慈円様の御慈悲の賜物にほかなりません。あの日、得度を願い出た叔父と私の思いを、お汲み取りくださり、偽りの和歌と知りながらも、その日のうちに得度をお許しくださいました。思い返すたび、今なお胸の内に恥じ入るものがございます。されど、今日という日に至り、ようやくそのことが赦されたような心持ちがいたします。もし、あの日に得度を許されていなければ、今日の出会いもなく、慈円様ゆかりの銅銭とも、相まみえることはなかったことでしょう。誠に、奇縁とは、かくも不可思議なるものでございます。一日の重みが、これほどまでに身に染みたことは、これまでにございませんでした」と、その春の日を、まるで桜の花が匂うように、こと細やかに語った。


 それから彼は、布袍の袖でそっと涙を拭い、十円玉を名残惜しそうに両手を添えて、俺の手の平へ風のように滑らせた。


 それは、のんびり日々を過ごしている俺にとっては、耳にいたい言葉だった。


 そして善信房さんは、まだ名乗っていないことに気がつき、改めて、「非僧非俗の身なれど、善信房です」と手を合わせ、頭を下げた。


 俺たちもそれぞれ名乗り、一礼を返したが、すでに小六も花里も、この場の空気に飽いている。


 それでも善信房さんは、気にする様子もなく、頭を丸めた善が「善日です」と名乗った際には、自分と同じく、名前に「善」の文字があることに、手を合わせて喜び、善もにこりと笑顔で応じた。


 善信房さんと話していると、その人となりが少しずつ分かってくる。


 座に着き、初めて見たときは赤土の塑像のようにしか見えなかったが、彼からは確かに、土の香りが立っていた。


 その表情や姿、ふるまいとは裏腹に、本来は感情豊かな人柄なのかもしれない。


 喜べば瞳は輝き、怒れば瞳を燃やし、哀しめば瞳は光を失い、楽しめば瞳は跳ねる。


 正直に自分と向き合って生きてきた人なのかもしれない。


 新月のような黒き眼は、何を見てきたのだろうか。


 達観したわけでもなく、あきらめたわけでもない。


 すべてをゆだねて、安息したような眼をしていた。


 それは、高き山の頂、深き海の底を見定めた覚悟のようなものを感じる。


 俺たちもそろそろ席を立とうとすると、善信房さんは、それこそ悲しそうな目をした。


 その善信房さんの姿を見た善が、「俺はここに残り、善信房さんが訪問する人々と交わす語らいを聞いていたい」と言い出した。


 善信房さんの目に喜色が浮かび、「われも、もっと善日と話をしたい」と言い出した。


 俺は彼の明日の旅立ちをおもんばかったが、彼曰く、昔の修行に比べれば、一日二日眠らなくとも平気であると、笑顔で語る。


 それに善も同意すると、善信房さんは「今夜は一晩中語ろうぞ」と言い、その瞳は、子供のように輝き、跳ねていた。


 また、彼は今晩の俺たちの宿を心配してくれ、食事と他の訪問者と同じ屋根の下になるが、と断りながら、庵の一つに宿泊することを勧めてくれた。


 俺はその申し出に感謝し、庵での一泊をお願いする。


 案内の男に促され、俺と小六、そして花里は一礼して席を立った。


 善は席を移して、善信房さんの横に座っている。


 善の瞳は、語らいの時を見つめるように、善信房さんとはまた趣き異なる黒き眼を、深き色をたたえて輝かせていた。


 俺は道場を出る際、そっと二人の座を振り返る。


 湿りを帯びた風は、二人に優しく憩い、流れてゆく。

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