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淡海は墨色に沈み

 淡海は墨色に沈み、東の空と呼応して銀色に変わるには、まだよほどの時間がある。


 墨色の濃淡で縁取られる湖面に映る月が、ひときわ青く映える。


 山中にて、二百六十余の堂や社、祠、あるいは路傍の岩に真言礼拝を行じてゆく。


 おのれ一人、しるべは手中の明かりと、頭上に懸かる月。


 闇より時おり滲む獣の気配、ひそやかに己が伴となる。


 ひたひたと響くは、己が運ぶただひとつの足音。


 ただ、胸の奥でざわめく無数の足音が重なり、心は惑い迷い出す。


 色心不二しきしんふに、本来ひとつであるはずのものが、ねじれ歪み、狂おしいほどの身もだえとなって顕れる。


 幼き日の修行により、六根は変わらねど、しきの身は確かに移ろいゆく。


 顔一つとっても、声は太く低く、顎の産毛が密になり、気づけば硬さを帯びて生えていた。


 六根清浄、六根清浄と念ずれど、湧き起こるは五欲六塵ごよくろくじんばかりなり。


 峻厳なる行の日日、精魂尽き果てて眠り、覚むれば、色欲の炎はなおたけり立つ。


 月光と松明の明かり。


 歩む道はただ一つ、何百回と踏みしめたその道は、無意識でも足は止まらぬ。


 無明の心は五里霧中に沈み、進む道は蜘蛛の巣のように広がり、絡めとられる。


 煩悩の呵責に足すくみ、やがて立ち止まる。


 己の口から漏れる真言に気づいて、明王の姿を心に描いて進むも、辿り着く道の先には、迷える己自身が待っていた。


 私の心が求めるものは、頭上に懸かる月。


 静かにあまねく、闇を照らす。


 蓮華笠を上げ、仰ぎ見る。


 幼き日、得度をした時の和尚の眼差しが脳裏に浮かぶ。


 懊悩煩悶おうのうはんもん、巡り歩く。


 私の心の有様は、山から見える淡海の湖面に映る月。


 風が吹けば、さざ波が立ち、月は輪郭を乱す。


 掴むこともできず、水面は掻けば、像はますます歪む。


 突然、闇から狐親子たちが山道に現れ、親狐は立ち止まり、しばし、己を見つめる。


 松明の炎に照らされ、狐の目が妖しげな光彩を放つ。


 そして狐は迷う私を見て笑う。


 魔が囁く。


 「畜生がうぬを笑っているぞ」


 言葉を発しようとしたが、すでに狐は森へ姿を消していた。


 畜生の道を歩む彼らは、生まれて死ぬまでこの山を走り続ける。


 己の修行と何が違うのか。


 疑問と猜疑の闇が、心に滲み広がる。


 走り去る親子を見送りながら、胸の奥に親子へのうらましさが生まれいづ。


 私の心から生まれた魔が語りだす。


 真言を唱え、必死に追い払う。


 雲散霧消。


 すると、今度は天魔が優しく耳元で囁くがごとく。


 「このままで良いのか。」


 羽毛で首筋を撫でるがごとく。


 「叡山の中には男色に染まり、衆道に走る者もいるぞ。」


 眼前で、生臭くも甘い口臭を吐くがごとく。


 「わぬし、このままでいると歪んでしまうぞ。」


 いつしか、私の心、湖面に映る月は、静かな月の佇まいに憎悪を抱く。


 真言を唱え、追い払おうとする。


 天魔は去らず、私の中で囁き続ける。


 「何故、自らを苦しめる。楽しく生きようではないか。」


 必死の真言、降魔ごうまの剣を固く握り、死を覚悟の引き換えに、明王の加護を祈る。


 明王の炎は天魔の囁きをすべて焼き尽くし、灰燼に帰す。


 そして灰の中に残されたものは、嫉妬。


 すべてに対する私の嫉妬だった。


 天魔もまた私自身。


 西方も、そして月も、自らの力では届かぬと悟る彼方。


 ただ無明長夜が広がる。


 気がつけば、涙が溢れる。


 月光は変わらず、歩く己の影を映す。


 私は涙をぬぐい、もうひとたび、月をそっと仰ぎ見る。


 止まらぬ涙のせいで、月が淡く歪んで見えていた。


 青い月光は、のちに善信房と呼ばれる範宴はんねんの身も心も、あまねく照らす。


 淡海の墨色に輝く月は、東の空が白めば、銀色の湖面に淡く映える。




 

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